天国で一番偉いのは子ども ~その子どもを受け入れる者は祝福される~

【天の国で一番偉い者】



 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」



 マタイによる福音書 18章1~5節



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 私が本書の中で、キリスト教が言うところのイエスの「真実の愛」「すべてをゆるす愛」に疑問を呈する(ぶっちゃけ言えばウソくさいと指摘する)記事を書いたところ、色々に反応する人がいた。

 いくつか、私を「憐れむ」コメントがついた。

 あなた(筆者)は、実は寂しい方なのですね。

 そんな風に言うなんて、過去に何か(トラウマ?)あったのですね。

 いつか、あなたにも愛がすべてだと分かる日が来ますよ——

 そういう、慈善事業っぽい、実にありがたいアドバイスをいただいた。

 おお、これは参考にしなくちゃ!

 私も、まだまだだなぁ。



 ……なわけないだろ!

 


 ちょっと、ふざけてみた。 

 だからウザいのよ、宗教とかスピリチュアルに『どハマリ』している人たちって。

 私は、過去の一時期にキリスト教やスピリチュアルを必死に探究した過去をもつが、いち早く「宗教やスピリチュアルって、(使用法を誤ると)単にウザい代物」 だと気付けた一人だ、と自負している。

 先ほどのようなコメをくださる方は、ピントのずれたスピリチュアル実践者だと言える。今日書きたいのは、私の主張を憐れむような人が、どのように『量産』されるのか? について。

 その罠に迫りたい。



 イエス・キリストは弟子たちに『誰が一番偉いのですか』と聞かれ、「子ども(幼子)のような存在」だと答えた。

 じゃあ、子どもというのはどういう存在か?

 よく、純粋だとか裏表がないとか、素直だとか……まぁ色々言われる。

 もちろん、大人というものと対比させての概念だが。

 筆者流に言ってみると、ここで「子どものようであれ」とは——



●自分の素直な気持ちに従って、動けること。



 そしてキリストは、最後にさらに大事なことを言っている。これだ。

『このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』

 じゃあ、子どもを受け入れる、って具体的にどういうことを言う?



●子ども、つまり自分に正直に素直に生きている人に対して——

 自分の基準で裁かず、それも在り方のひとつと受け入れること。



 私は、これこそが宗教の、あるいはスピリチュアルのキモだと思っている。

 これがないと、背骨のない人間のようなものだと思う。

 いくら愛にあふれた気になっても、他人がその基準からして「愛が不足している」と感じ、それを本当に指摘してしまうなら、ギター侍ではないが『残念~!』となる。(この方今頃元気かしら)

 私に指摘したような人は「愛の勘違い」をしているが、私が思うに本当に「愛ある人」なら——



●自分が生きる上で直接の脅威ではない限り、干渉しない。

 ただ、自らの喜びややりたいことのみにエネルギーを注ぎ、自分に要らぬものに目が行く暇がない。

 他人に問題を見つけて何とかしようとか、そんなことで時間を潰さない。



 愛とは、何でも明るくポジティブに見て、批判しないとか悪口を言わないとかいう一面的な薄っぺらいものではない。そんな人間ばかり集合した世界なんて、考えただけで気味悪い。



 真理などない、と日頃言っている私であるが、これは真理に昇格させてもいいかも? と思える内容がある。

 それは——



●よそはよそ!ウチはウチ!



 よく、お母さんが子どもに対して使う言葉である。

 これ、実はものすごいことを言い当てているのである。

 私は、人格者とか人間ができている人、とかいう言葉は好きではない。

 でも、百歩譲ってそういうのがいるとしたら、上記の言葉が実践できている人である。どんなに優しくても、これができてない人は「大迷惑」である。



 スピリチュアルも心理学も、『問題を探す』のが大好き。

 探し当てた上で、それを解決しよう、というアプローチ。

 生まれてこのかた、人は誰も科学的・論理的思考の洗礼を受けるので——

 スピリチュアルや心理学という、見えない世界の分野においても、同じアプローチを使ってしまう。慣れとか習慣といったものは、本当に怖いものである。無意識に使って、しかも自意識で気付けないのだから。

 だから、自分が本気で最高と思っているものを否定されたと感じ、心中穏やかではないその人は、その気分を修復したくて、私の中に「過去に辛いことがあったから、そんなことを言う」のだと分析したいのだ。

 癒されないインナーチャイルドがどう、とか言いたいわけだ。筆者は意固地にもそこを見ないようにしているから、あんななのだ、と。浄化が必要ですね、と。(笑)



 私は、そういう人種まで相手するほどの余分なエネルギーはないので (肉体をもった人間キャラだからね)、もう言わせておく。その人たちのワールドでは、「哀れな筆者」 と思われたままで構わない。

 私は、私を楽しく誇りをもって生きれているので、人の評価はどうでもいい。

 私を友と呼んでくれる数人がいたら、その人と楽しくできたらいい。

 あとは、食っていけたらいい。

 その上さらに、できるだけ嫌われないようにとか、もっとトモダチ増やそうとか、アンタどんだけ器用なん?

 たったひとりの親友さえ、一生をかけてどれだけ通じ合えるか分からないのだ。

 ましてや50人、100人なんてもう途方もない。



 私は、本当に宗教などでよくある「修行」というものはいらないと思う。

 精神修養など、いらないと思う。

 要らないどころか、余計だとすら思う。

(てか、生きて生活してるだけでそれすなわち修行であると思う)

 なぜなら、「上から目線の罠」にハマる人が大多数だからだ。

 精神世界分野で高いステージに行った(と勘違いしている)人は、かなりの確率でこの問題をクリアできない。

 例えるなら、学校で数国理社英、そして音楽に体育に技術家庭、すべてにおいてバランスよく好成績を取ることが難しいのと同じである。できる人は少ない。やはり文系とか理系とか、体育だけ得意とか、どれかに偏ることになる。

 精神的に高いということと、自分の基準で他を裁かないということは両立がかなり難しいのだ。だから、やめとけって言ってるの。あなたが愛にあふれちゃったら、他人に愛が足りないのねなんて分析できちゃう人になるよ。

 精神的に高くなるということは、その高みから他の色々なアラが見えてしまうことなので、他を裁く危険もオマケでついてくるよ、ということ。

 ただし仏教で言う「悟り(覚醒)」の場合は、世界が「すべて自分」となることなので、高い低いもへったくれもないので、裁く心配はない……多分。

(他人の言う覚醒って何の事だか分からんので、あえて多分と言う)

 


 だからそういう人は、キリストの言葉で言えば「大人」なんだな。

 イエスが 「偉くなりたいなら子どものようであれ」と言ったのは 「偉くなりたいなら大人になるな」ということであり、大人とは「他人のあるがままを認められず、自分の基準で干渉する人」なのだ。

 快適に、気分よく生きていくために、あまり色々頭で分かり過ぎないことをお勧めする。頭良くなりすぎると、自分の中に色々な定規を装備してしまうからね。



 筆者だって、ヨソはヨソとか言っているけど、ご自身の記事ででバサバサ斬られているじゃないですか。好き放題言ってるじゃないですか。あなたも裁いているではないですか! という声が聞こえてきそうだ。

 ここはハッキリさせときたいんだけど、私は絶対自分の記事から出ていかない。

 マイワールドで、自分の書く記事では好きに言う。それは、自由にしていいテリトリーだから。

 でも、どんなにキライでも、よそ様に行ってコメ残さない。尊重するから。

 愛が分かっている人かどうか知らないけど、私に文句を言う人はこちらのテリトリーまで干渉してきた。

 そこの違いは、明らかである。



 宗教やスピリチュアルを熱心に頑張った結果、こういう人が量産されるんなら、いっそのこと宗教もスピリチュアルもすたれたらいいと思う。

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