追い出された悪霊のたとえ① ~あなたが投げたものはあなたに帰ってくる~

●汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。

 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。


 マタイによる福音書 12章43~45節



●その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。


 マタイによる福音書 10章12~13節



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 私は、「法則」と名の付くものがキライである。

 だって、何でもかんでもそれで説明できて例外はない、って世界観に支えられているから。

 この世界は、あらゆる可能性に満ちた世界である。

 すべてが、ある切り取り方で説明できる、なんてのは確かに「知りたがりで納得したがりの人間」には誘惑だろうと思う。それで世界が把握出来たような気にさせてくれるから。

 それは、相対人間(妖怪人間、みたい)の傲慢というものだ。

 でもまぁ、私もそんなカタいことばかり言わず、ちょっとはキャラじゃないこともしてみようか。

「法則」まがいのことをちょっと語ってみよう。

 もちろん、これから述べるのは厳密には「法則(例外がない)」ではない。

 かなりの確率で、そうなる傾向があるよ、ってな程度の話として聞いてほしい。



 冒頭にふたつの聖書の言葉を引用したが、共通するものが何か分かりますか?

 ひとつ目。ある人が悪霊を追い出してもらったが、その悪霊の落ち着き先が見つからない。

 苦し紛れにダメもとでもとの主人を尋ねてみたら、前と同じように住みやすそうなばかりか、インテリアまで取りそろえられておりさらに快適そうだった。で、元に戻ってくる。

 ふたつ目。あなたが他者に対し真心を尽くしたとする。で、相手がその価値を認めず突っぱねたり受け取らなかったり、あるいは気付きもしない場合には、それはそっくりそのままあなたに帰ってくる。決して、損はしない。

 個人的に法則と呼びたくないが、でもあまりに便利だしそれらしくカッコ良くなるので、おふざけで「法則」と呼んでみよう。



【ホーミング・ミサイルの法則】



 あなたが、内から外に放つすべてのもの(批判や攻撃にせよ愛情や真心にせよ)は、必ず着弾点(落ち着き先)を見つける。

 相手が受け取れば、それで終了。

 しかし受け取られなければ、最後にはあなたにすべて返ってくる。



 例えば、私が誰かに批判めいたきつい言葉を投げかけたとする。

 それは、私から出て行き、着弾点を目指す。

 ミサイルの目標は当然相手である。相手の心の中である。こちらの意図を相手が受け入れ理解し、何らかの改善が行われることである。もしそうなれば、ミサイルは見事命中。それで、すべて終わり。目標達成でメデタシメデタシ。

 でも、相手がこちらの言葉を受け入れるどころか、逆ギレしたり突っぱねたりという反応になったら? たまにあるケースだが、「相手がこちらの批判や意図に気付かない」でスルーされる、という場合もある。その場合も、ミサイルは着弾目標を失うことになる。

 でも、目標を撃破できなくなったからといって、発射されたミサイルは「なかったこと」にはできない。最初の希望の目標には当たらないということが確実になっても、依然として飛び続けているから。

 だから必然、相手が受け取らないのだからあなた自身にミサイルは返ってくる。

 そしてあなたは、自ら世に放ったその感情ミサイルの影響を自分で引き受けることになる。

 これが、イエスのひとつ目の言葉の意味である。



 今度は、構造は同じでも先ほどとは正反対のケース。

 あなたがある人物に、愛情をもって接し、誠心誠意尽くしたとする。それにもかかわらず、相手があなたを裏切ったり、誠意を踏みにじるような行動に出た場合。あと、そのあなたの与えたものの価値に気付かず、何にもリアクションをしない場合。

 現象的には、一見あなたの一方的な損のように見える。

 しかし、事実はそうではない。

 あなたの「愛」のミサイルが、相手に着弾し受け取られればノープロブレム。ミッション・コンプリートでメデタシメデタシである。しかし受け取られない場合、あなたの尽くした誠はそっくりそのままあなたに返ってくる。だから、良いものを他に与えようとする限り、宇宙規模視点であなたは「損」をできない構造になっている。

 それが、ふたつ目のイエスの言葉の意味である。

 あなたの与えた誠意が仮に受け取られなくても、それはあなたに返ってくるのだよ。気を落とさず、良かれと思うことはどんどんしなさい、というメッセージなのである。



 このことから、学べる教訓がある。



●批判するなら、慎重に。覚悟してせよ。



 だって、それがミサイルならば、相手に届かない可能性だってあるわけだ。相手に着弾しなければ、次にそれは自分に降りかかってくる。その覚悟がないなら、しないほうがよい。

 それを分かった上で、それでもあなたはそれが言いたいか? この自問自答を経て、初めて「骨のある批判」になる。

 相手に届けばよし。届かなくても、そのミサイルの最終責任を負う覚悟なのだから、覚悟がない状態よりはひどいことにはならない。

 たいがいの批判がくだらないのは、このミサイルが自分に返ってくることを知らないで行っているから。自分が最終的な着弾点になる責任感や覚悟など、まるでなし。だから人の心に響かないし、ただお互いの中に嫌な気分だけを残して終わり、ってなことになりがち。



●現象として無駄に終わることを恐れないで、あながが「良い」と信じることをせよ。相手に受け取られなくても、誰に理解されなくても、それは必ず「生きる」。

 どこかで必ず花を咲かせる。



 良いエネルギーを放出したら、それは必ずそれにふさわしい行き着き先を見つけようとする。

 たとえ、誰もそれを受け取らなくても、あなたに返ってくる。

 そしてあなたは、あきらめずたゆまず、戻ってきたそのエネルギーを再利用してまた愛のミサイルを放てばいい。どこかで、あなたは結果を出せるだろう。



 ネット上に溢れる批判コメントなどに大概共通するのが、「自分は安全圏にいて、何にも被害を被らないで済む」という前提。だから、安心して好きに吠えられる。目の前に人がいるのと違って、大胆にもなれる。

 でもそれは、大きな間違い。

 あなたが放つ何かは、必ず目標を捉える。そして真っ直ぐに向かうが——

 もしも当たらなかった場合。相手があなたの批判に向き合ったり、受け取ったりしてくれなかった場合。それはあなたで爆発する。

 そのことが分かれば、世の大勢の言動も、少しは変わるだろう。

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