聖霊に言い逆らうとゆるされない② ~批判への対処の仕方~
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
(要するに神に祝福された力を持ったスゲーやつ、ということ)
しかし、ファリサイ派の人々(イエスが大嫌いな人たち)はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。
「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
マタイによる福音書 12章22~32節
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今日の聖書からの引用が長くなり、君には大変済まないと思っている!
(でも、本当は全然済まないと思っていないジャック・バウアー)
文章は長いが、お話の流れは簡単につかんでいただけるのではないだろうか。
イエスは、奇跡の力を使って悪霊を追い出した。
大昔、科学や医学がまだ未発達の時代、障がいや病気は悪霊の仕業によるものと考えられていた節がある。よって、ここで「悪霊を追い出す」とは、エクソシストみたいに悪霊と対決するような映画みたいな場面を想像しないほうがいい。単に病気を治した、障がいを治したというふうに捉えていただければいい。
で、大変当たり前の話だが、病気が治るというのは結果としてどう考えても良いことであり、何か文句を付ける要素など見当たらない……はず。
でも、その普通の感覚では見つけられないところにでも、攻撃の糸口を見つけてしまうのが、「その人物が大嫌いな人」がもつ凄まじいまでの天才的能力なのである。
ベルゼブルというのは、昔の迷信の一種で、ハエの形をした悪魔のことである。
いちゃもんつけた人は、イエスが病気を治せたのは、きっとその病気を起こさせた悪魔と仲良しだから、うまく交渉して治してもらい、善人面をして我々を騙しているのだ! というのである。
屁理屈、ここに極まれり、
もうこれは、「非難のための非難」である。
イエスは、こんなもの相手にする義務はない。
もしもあなたが、どう考えても自分の中に問題がない、非がないと感じる時、ふたつの有効な対処法がある。
ひとつは、無視。言いたい奴には言わせておけばいいのである。
ふたつは、それなりの弁明。イエスは、今回このふたつ目の道を選んでいる。
後者の道を取れる者は、優しく強い。
余分な労力がかかるうえ、相手がその人物の誠意を汲み取らない可能性が高いので、まさにボランティア活動そのものである。私なら、多分無視が多いが……
しかも、イエスのしたのはただの弁解・弁明ではなかった。
「そらぁちがうよ! お前らの言うことおかしいよ!」
そういう風に、正面切って相手の批判に対して切り返してはいない。
イエスは、相手と同じ目線と土俵で論争しなかった。
なんと、たとえ話を持ちだしてきたのである。
①私が悪魔の力で病気を治せたのなら、悪魔の目的(人を病気にし、不幸にする)に反することをしたわけだから、悪の軍団の掟に反する。そんなことがゆるされると思っているのか。悪魔が黙っていない。
もし自分が悪魔側なら、この行為はクーデターであり内輪もめに当たる。
②ある家に強盗に入ろうと思えば、その家にいる一番強い人を縛り上げなければ、家財道具を奪い取ることができない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
だから、もし私が悪魔の力を奪って病気を治せたのなら、それは悪魔への勝利ではないのか? 現に私はその力を悪いことには使わず、こうして貧しい人の病気を治して回っているのだから、何の問題があろうか?
イエスは、「仮に私が悪魔の手先だったとして」というとこまで譲って、仮定の話をしている。これは、いわれのない無茶苦茶ないちゃもんにたいして、必要以上に礼儀を尽くして答えている。
しかもイエスは、自分を心底嫌っている状態の人に、まともに「私は潔白だ」と言ってもまず分かってもらえない、と踏まえて、もしかしたら相手が落ち着いて聞いた場合に「気付ける」種を残してあげた。
イエスは、まともな弁明を与えても、頭に血が昇っている人間にはすぐには役に立たないことを見込んで、ワンクッションもツークッションも挟んだ話をした。
では、ここまでのまとめ。
不当な批判をあなたが受けたなら——
①か②のどちらかお好みなほうで。
①無視。
②弁明はするが、どっちが正しい間違っている、どっちがやったのやってないのと、同じレベルではやり合わないこと。イエスのように、たとえ話なんて洒落たものを出せればすごいが、そこまでしなくても気分は「客観的に、冷静に」。
最後に、イエスの締めくくりの言葉を見てみよう。
イエスは言う。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。 人の子(これはイエスのこと)に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない、と。
さて。ここで言う 「霊(聖霊)」 とは?
一部スピリチュアルやキリスト教で言うあの 「聖霊 (ホーリースピリット)」 ではない。ある視点では、そんなものはいない。
●一生懸命尽くした真心
冒涜するとゆるされないというのは、これだと考えると、知恵として役に立つ。
イエス自身に対して、どんなにバカとかでべそとか言ってもいい。
しかし、彼が尽くした真心(辛い目に遭っている人を慰めたい、そして彼らの笑顔が見たい)をバカにすることは、この世ゲーム最大のペナルティになる。
人を見るんではなく、尽くした誠を見よ。そしてそれを、人間本人から切り離せ。
そうしたら、一人の人間が必要以上に英雄視・聖人視されることを防げる。また、極端に誹謗中傷し貶めることも防げる。
だから気を付けたほうがいい。
もし、あなたが嫌いな人を悪く言う時、相当の覚悟をもって言ったほうがいい。
もしまかり間違って、相手が「真心からの動機で」行動していた場合、あなたはゲーム内での最大ペナルティを負うことになる。その出方は様々だが、覚悟された方がいい。
イエスの最後の言葉は、決して自分を盾にして三位一体の第三位格である「聖霊」の名誉を守った、という話ではないのである。
私という人間を嫌うのは構わないが、私が人の幸せを願う心と本気をバカにするなら、お前は大ばか者だよ、ということを暗に教えようとしているのである。
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