聖霊に言い逆らうとゆるされない① ~あれ、キリスト教って愛とゆるしじゃなかった?~
だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
人の子(イエスのこと)に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
マタイによる福音書 12章31、32節
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これは聖書で、イエスが言ったとされている言葉である。
クリスチャンは、キリスト教を、イエスの教えを『究極のゆるし、究極の愛』だと思っている。
でも、ならこの言葉は何だ。どうとらえるというのか。
ハッキリ言ってますでしょう。「絶対にゆるされることはない」と。
ニュアンス的に、何をしてもダメ、頑張って償えるような罪ではない、という雰囲気を漂わせている。どうもこの宇宙には、「絶対にゆるされない罪」というものがあるような言葉だ。
勉強しているクリスチャンは、色々反論してくるだろう。
実はこういう解釈があってとか、時代背景的にどう、とか。言語学上どう、とか。
そんなごたくはいいんだよ。
分かりにくいなら。研究した人しか分からないような言葉なら、その時点でアウト。皆に分からない真理など、ゴミ同然だ。
だからイエスは書いたものを残さなかったんだ。
何かの宗教を作る気もなかったんだ。
でも、後の世代の愚か者の手によって、イエスは勝手に代弁されてしまった。
それも、かなり歪んだ形で。
それが新約聖書であり、キリスト教である。
もちろん、聖書やキリスト教というものが、これまで結果として人類の魂の旅を助けてきた貢献は大きい。そこは評価されるべきだが、それとこれとは別問題だ。
おかしいもんは、おかしいのである。
今日のイエスが言ったとされているこの言葉も、その『おかしい』ものの代表例なのでである。
●可能性その① 『イエスはこの言葉を言っていない』。
キリスト教会に都合のいいように、イエスが言ったことにした、というもの。
特に、父子聖霊の三位一体を「真理」と決めた後の教会には、聖霊を確固たるものにしておく必要があった。つまりは後付け。話に整合性を持たせるために、生きていた当時のイエスに言わせる必要があった。
イエスは、宗教を始める気なんてなかった。
聖霊も、大してどうでもよかった。ってか、そんな確固としたものはいないと分かっていた。
でも、彼を殺してしまい罪悪感でおかしくなってしまいそうな後の人たちが、「こうだったらいいな」という、ゆるされたい願望から、ゆるされるシステム、つまりキリスト教というものを作り上げてしまった。
教会の言葉(命令と言ってもいい)に権威を持たせるために、イエスに言わせた言葉かもしれない。聖書の言葉は神の言葉。神とは、父子聖霊の三位のことで、それぞれが全部神である。(でもって正体はひとつである) だから、聖書は聖霊の言葉であるとも置き換え可能だ。
聖書に準ずる言葉すべては、神の命令であり絶対。
しかも中世カトリック教会は、聖職者などの指導者層にだけ聖書を読ませており、一般には読ませなかった。一般人は、神父さんの話を聞く以外に聖書の内容を知り得なかった。
その秘密主義を隠れ蓑に、民衆を操作することは容易だった。
その暴挙にやっと異を唱えたのがルターであり、「宗教改革」によって一般にも聖書が読まれるようになった。そうやって「こんなこと書いてあるやん!」って皆が初めて確認できた内容もいっぱいあったのだ。
神の言葉(教会の命令)に逆らう者はゆるされることがない——
現代のヤクザも真っ青になる、立派な恫喝(脅し)である。
●可能性その② 『イエスがアホだった』
これは、イエスが本当に言ったとして、である。
賢いなら、言うわけない。
本気で 「何をしてもゆるされない事柄がこの世界にある」と考えていたら、悟りなんて遠い。
●可能性その③ 『イエスは、考え方において超柔軟だった』
イエスが四角四面な人物だったら、まず誤解される可能性のある言葉は使わないだろう。慎重に慎重を期し、言葉を選ぶからである。
でも、彼がそうカタいことを言わない、フレキシブルな思考の持ち主だったら?
例えば、小さな子どもをしつける場合。
「~してたら、鬼が迎えに来るよ」
「言うこと聞かない悪い子には、お化けが出るぞ~」
現実には、悪いことをしても鬼も幽霊も来やしない。
でも、それくらい言っておいた方が、こどもは怖がって言うことを聞く気になる場合がある。
(最近はませたようなのが多くなり、この手の脅しも効かなくなってはきたが)
つまり、確信犯的なウソである。
「聖霊を冒涜する者は、今後いつまでもゆるされないんだよ~」
そのこと自体がウソでも、それくらい言っておいた方がインパクトがあると考えたわけだ。脅しとしては、効果十分。
だから、「聖霊に言い逆らうとゆるされない」の真意はどこにあるかというと——
●聖霊に言い逆らってほしくない。
そういう、話し手の強い願いが込められている、というただそれだけのことだ。
実際に、宇宙のシステム自体が「聖霊に言い逆らったら許されないようになっている」という話では全然ない。
私個人としては、①が一番可能性が高いと考える。
次に③。可能性として真面目にとりあげただけで、まずありそうにないのが②。
だから、このお話は真面目に考えるだけムダなのである。
思い込みが激しく、なかなか話の通じない人に、ちょっと事実よりきつめの話をあえてするようなものである。「こいつには、これくらい言っといてちょうどいいくらいだ」ってなもの。
この宇宙にゆるされることがあるとかないとか、そういう次元でものを考えること自体、狭い。他者がゆるすもゆるさないも、あなたが自分自身をゆるせるかどうかにすべてがかかっている。
他者からのゆるしは、重要ではあるが二の次である。
もっとも重要なのは、あなた自身がどうか、なのである。
いや、自分で自分をゆるすことが一番なんて、そんな図々しい。私は人にゆるしてもらえるまでは、ゆるされなくていい——。そういう意見もあっていいが、ならあなたは、その自分ではどうしようもないそのゆるしがいただけるまでは、手も打てず苦しんでいたらいい。
聖霊というものは、いない。
ある視点からはいるが、それはそういう存在が人生のシナリオに絡んでくる人にとってだけ。
だから、神秘体験をして聖霊を否定できないものとして認識したからって、イコールすべての人にとって重要と考えて広めるのは、あまり賢いとは言えない。
自分の体験として、面白く語る分にはいいが、それをひとつの教えにしたり、皆も目指すべきもの・大事にするべきものとしてしまったら愚かだ。
聖霊も、正体はあなただ。
だとしたら、聖霊に言い逆らう=自分自身に言い逆らう、となる。
自分の素直な思いを否定する、あるいは目の前の損得や体面のために、本心の声を黙殺する。
そういうことはやめたほうがいいよ、というメッセージだとも受け取れる。
自分(神、聖霊)を大事にせよ、と。
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