イエス、神を冒涜するやつらに怒りまくる ~怒りはよくないもの?~
【イエス、悔い改めない町を叱る】
それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
また、カファルナウム、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
マタイによる福音書 11章20~24節
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イエス・キリストと聞いてまず思いだされるのは、「自分を十字架にかけ、迫害しののしってくる相手も含め、全人類をゆるした」ということである。
ゆえに、ただキリスト教を信じている信者だけでなく、広くスピリチュアルというものをやっている人にとっても「無条件の愛、完全な愛の体現者」という感じで好かれ親しまれている。
だとしたら、今紹介した聖書本文のように、イエスがやたら口悪く罵っているのは、どう理解したらいいか。
無条件の愛とは、意味はそのまま「何も条件を付けないこと」である。
じゃあ、この場面でのイエスの「怒り」は何?
自分のことは何と言われも構わない。でも、私を遣わした父なる神や聖霊を冒涜することを言ったり、その愛を無下に踏みにじるようなことは、ゆるさんぞ! ということかもしれない。
でも、それだって言っちゃえば「条件」なんじゃないかしら。
イエスはバカにしてもいいけど、神はバカにしちゃいけない、っていう条件付き。
●皆さん、無条件の愛、って言葉にあこがれすぎ。夢を見過ぎ。
真剣にそんなものがあるとして考えたら、その世界は——
無神経で判断力がなく鈍感でないと、耐えがたいものになる。
本当に無条件の愛など持ててしまえば、恐ろしいことになる。
●一番恐ろしい状況は、無条件の愛を持てた者と持てていない者が混在する世界。
世界は大混乱になる。
この世界で、一部の人間が無条件の愛を持てたと仮定して、その者の運命はだいたい以下のようなもの。
①寿命まで生き切れず、他者に殺害される。
②皆さんは不思議がるかもしれないが、嫌われ友達ができず孤独な生涯になる。
③人望を集めるが、権力者に都合の良いように利用される。
④これも想像しにくいかもしれないが、悪事に加担する。
(加担であって首謀はしない)
次に恐ろしい状況は、すべての人が無条件の愛を持った世界。
そこはフラットな世界で、何の起伏もなく、無味乾燥な時間が永遠に続く。
一番マシな状況は、誰も無条件の愛など持てない世界。
(ちなみにこの世界のこと)
問題は常に生じるが、刺激的で生き抜きがいのある世界である。
でも、刺激的すぎて、たまに自らゲームを降りたがる人を出すのがたまにきず。
無条件の愛など存在できない、という根拠のひとつとして、「怒り」がある。
今日紹介した聖書の文章も、まさにイエスの「怒り」を表している。
イエスが神自身と考えるキリスト教では、「神なんだから怒っていいし、裁いてもいい。なぜなら神は全知全能なので、その怒りも裁きもいい加減な人間の発するそれと同じではなく、正しいからいいのだ」と考える。
その考えが、一番愚かである。
皆さんが大好きな「愛」は、完全という世界の中では存在しない。
不完全な者、自他という二元の世界に生きる者にしか抱けない。
私が物書きとしていかに不人気になっても曲げないのは、「全体性(ワンネス) とやらが愛だ」は妄言である、という立場。宇宙の究極根源が愛だとかいう話には、最後まで承服しない。
そもそも、「怒り」とはなぜ生じるのだろうか。
知的生命体であれば、100%逃れることができないもの。
(仮に100%克服できてしまえば、知的生命体の存在意義を失い消滅)
何かを思考できる、認識できるシステムを持っていたら、誰も逃げられない。
そういう存在の意識の中には、必ず 「天秤(てんびん)」 がある。
人は心の内側で、その天秤が常に釣り合っていることを目指す生き物である。
そのバランスを崩された時、「あるべき釣りあった状態」でないその天秤を見て、「不適切だ」という価値判断が生じる。その副産物が、「怒り」である。
今回のイエスの件で言えば、イエスは価値判断したのだ。
「父なる神が、自分を通じてある土地の住民を奇跡で癒してくれた」という事実がまずあり。それに対して、たとえば感謝するどころか「確かにすごいが、あれは本当に神の力か?」と疑うとか、ひどいものでは 「あれは悪魔の力を用いたのだ」と陰口された事実があり。
この両者を天秤にかける。すると、神の愛が正当な対価 (扱い)を受けていない、価値の天秤が釣り合っていない、と考える。
だから 「私は悪く言われて構わないが、その力の源である神がバカにされるなど、あってはならない」という義憤が生じる。自分は悪く言わても神だけは、という考えは立派だが、でも残念ながら「無条件の愛」ではないね。
卑近な例では、たとえば何の罪もない子どもが犯罪に巻きまれ、命を失ったとする。それを聞いた者は、まったく無感覚ではいられないだろう。「へぇ~」 では終わらない。
「若くして命を失わないといけない」ということに、「罪のない子ども」というのが釣り合わない。釣りあわないので、怒りが生じる。「理不尽だ!」と。
もうこれ以上例を挙げなくてもいいでしょう。怒りが、「ふたつの事象を比較して価値を判断できる存在なら、回避できないもの」であることが分かりましたか?
それでもなお、人間として生きながら「怒り」を克服しようとすれば、もう「価値判断をしない」ことしかなく、でもそれを完璧に実行することは不可能です。
百歩譲って、怒りを完全に克服できても、それは人間として最も素晴らしい境地にたどりつくのではなく、廃人の道へまっしぐらなだけです。
怒りだけを克服する、というムシのいいことはできません。
怒りと道ずれに、皆さんの大事な 「幸せ感」「愛と感じられるもの」も捨てることに。だって、そちらも 「二者を比較して感じられるもの」だから。
知的な比較なしで感じられる幸せなど、もう感覚を通じたものしか残っていません。でもだからって、食べるとか感じるとかだけなら、人間である意味があまりありません。
旧約聖書のヨナ書という部分に、こういう言葉が載っている。
主(神)は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
旧約聖書 ヨナ書 4章4節
神はここで、「怒りはよくない」つまり怒りというものそのものがいけない、と言ってない。
怒るが、それは正しいか? つまり、怒りそのものに決まったいい悪いはないが、おまえの今の場合の「怒り」に関しては、いいことだろうか? このケースでは、正しいと言えるか? そう問うている。
だから、「怒りも、TPOによって価値は色々である」 ということ。
適切に用いるなら、怒りもよいものである。
JIS規格のような正解はない。本当に、答えはその場その場にしかない。
だから、イエスの冒頭の怒りも、人間くさいがまぁ良いのだ。
無条件の愛である必要なんかない。いや、むしろそんなものは存在しない。
意図のあるところ、無条件はない。イエスのすべての人を救おう、というのはすべての人を救う、という条件があり、そうでないといけないのだからやっぱり「条件」である。
私は、無条件の愛、愛って言う人のことがそれほどキライではない。(笑)
彼(彼女)らがそう言いたい気持ちは分かるからである。
そうだ、提案だが言葉を変えよう。
無条件の愛、なんて言うからややこしいんだ。確かに無条件って言葉がついたほうが格好いいんだけど、ここは単に「愛」でよくないかい?
愛。たったそれだけの言葉で、もういいじゃないか。
この言葉に、ジャラジャラした修飾語は無粋だ。
関西圏には、『いかるが牛乳』 というのがある。これはローカル商品なので、関西圏にお住まいの方以外はご存知ないかもしれない。
あなたが怒る時、怒ることそれ自体が悪いとか、しまったとか思わないでほしい。
むしろしてほしいいのが、「その怒りはいいものだろうか」と考えてほしい。
立ち止まって、吟味してもらいたいのだ。
ヨナ書の 「お前は怒るが、それは正しいことか。」 を思いだしてほしい。
関西圏以外の人には、冷ややかな目で見られそうだが——
いかるが牛乳! と覚えましょう。
怒った時の合言葉、いかるが牛乳!
笑えて、なおかつちょっとだけ落ち着きが取り戻せます。(笑)
あのイエスでさえ、(神を思ってのこととはいえ)怒ったのだ。
聖書本文にある「陰府(よみ)」 にまで落とされるのだ」は、現代風に言うと某占星術師・細●数●先生の「地獄に落ちるわよ!」と同じようなものだ。これには、神様も真っ青だろう。
イエスは情に厚い男だった。そこまで神様とその教えが「大好き」なのだ。それをバカにするやつは、どうしてもゆるせなかったのだ。
この世界は、怒りを追放するべき場所じゃない。心から守りたいもののために、それが脅かされそうな時怒りを躊躇なく表現できる場であってほしい。
この世で常に生じる運命にある「問題」を解決するツールとして、怒りをうまく利用するのだ。
使用法を誤ると、「破滅」「破壊」が生じる。
この世界で、怒りを原因とする良くない事件が起きるのは、怒りそのものが「悪い」から起きるのではなく、あくまでも怒りをちゃんと使いこなせないから起きるのだ。ロデオで馬から落ちるようなもので、乗りこなせる腕前があればよい。
怒りをその場その場でうまく使役し、世界をより良く向上させていくのが、怒り本来の役割である。
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