わたしにつまずかない者は幸いである ~調子に乗ったイエス~
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったこと(奇跡のその他、良い評判)を聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスはお答えになった。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」
(中略)
……しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。
マタイによる福音書 11章2~6節、19節
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イエスがまだ無名の頃、バプテスマのヨハネという人物がいた。
(以後、ヨハネと略すが、イエスの弟子のヨハネとは別人であることに注意)
彼は、イエスの師である。イエスは、彼の弟子のようなものである。
このヨハネは天からの啓示により、イエスが神の子であり救い主だと知った。
そしてそのことを認め、ヨハネも一度はそのことを公言した。
しかし、ヨハネが正直にそう認めたところ、何が起こったか?
仕方のないことだが、ヨハネの弟子を始め大勢が、イエスのもとへ走った。
これまで、ユダヤ社会の中ではシェア独占体制(彼ほどの人気者はいなかった)だったのに、その座をまんまとイエスに奪われたのである。皮肉なことに、自分自身の『証言』というか、『紹介』によって。
いくらできた人物とはいえ、ヨハネもやっぱり人間であった。
本人は認めたくないだろうが、くすぶっていた嫉妬の炎が、彼の目を曇らせた。
一度は救世主と認めたイエスに対して、感情問題をこじらせたことによる「疑念」が生じた。そこで、ヨハネは弟子をイエスに送って、「本当にお前が救世主か?」と聞かせた。
この時ヨハネは、ユダヤの領主の批判を正直に言ってしまったことで牢に囚われ、自分では聞きに行けなかった。私が個人的に思うに、たとえヨハネが自由の身でも、代理の者に聞きに行かせたのではないか、という気がする。
イエスは、ヨハネのその質問を聞いて、落胆した。
せっかく一度はイエスを救世主と公言し、神の御心どおりの正しい選択をしたというのに。エゴに足元をすくわれ、今はイエスに疑いのまなざしさえ送ってきている。
だからイエスはこう言ったのである。
現実を見てみろ。
オレが死人を生き返らせた。
治るはずのない病人を治した。
歩けないやつを歩かせた。
皮膚病の皮膚はきれいになり、耳の聴こえんやつは聴こえるようになった。
民の間には、オレの伝えている教えがどんどん広まっている。
だから、オレがニセモノじゃないか? っていう邪推は損だよ。
オレが正しいってことは、起こってることからも明らかじゃないか?
キリスト教的聖書の読み方では、イエスには何の問題もないと思うだろう。
ここで残念なのは、一度は信じたのに不信に陥ったヨハネだけである。
でも、私の捉え方は違う。
●この時点で、イエスは未成熟の青二才であった。
人気者になって調子に乗った若造であった。
ヨハネへのイエスの言葉の趣旨を、見直してみてほしい。
まずイエスは、数々の現実的具体例を挙げている。
人が生き返ったとか。当時不治の病だった病気を治したとか。
イエスは、なぜこんなことを言う必要があったのか。
それは、信じさせるためである。
その信じるに足る根拠として、数々の否定できない現実を挙げているのである。
こんだけ証拠がそろっているのに信じないなんて、バカだね。そう言っているようなものだ。「私につまずかない者は幸いである」って言葉遣いはきれいだが、意味はそういうことでしょ。
そして、とどめのこの言葉。
「知恵の正しさは、その働きによって証明される」
『つまり、実績がなによりも雄弁に、オレの正しさを物語っているだろ?』
くだけた言葉に直せば、そういう主旨である。
しかし、私は思う。
死人が生き返ったから、だから何?
ものすごい超常的な現象が起こせたから、それが何か?
トークライブが大ウケして、ものすごい数の人が喜んで聴いているから、だから何? それがどうして、「正しい」ということと結びつくの?
●すごいことが起こせたら『正しい』って、誰が決めたの?
論理的にも、おかしいじゃん。
確かに、『すごい』とは思うよ。でも、すごいこととだからそれができる人が正しいということの間には、何の関連性もありましぇ~ん!
実はイエスはのちに、こう言ってるのである。
イエスの復活を信じない弟子のトマスに、こう言ったとされている。
私を見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は、幸いである。
【ヨハネによる福音書 20章29節】
同じイエスの言葉でも、さっきのヨハネへの言葉とは大違いである。
前者は、「見て信じろ」。
後者は、「信じるのに、根拠とか信じるに足る理由など必須ではない」。
どちらが、本当のイエスらしいか、分かるだろう。
だからと言って、前者のイエスが偽者というわけではない。
前者は、成長過程のやんちゃなイエス。
後者は、様々な体験を通し多くの気付きを経て、精神的にも円熟したイエス。
その変化だと見ることもできる。
イエスも、現実的実績こそが自分の正しさの強力な証明である、と考えた時期があったのだ。
スピリチュアルでも、結構いませんか?
こんなノリの指導者。
ブログはものすごいアクセス数! 本も、ものすごい売れ行き!
この現象を見よ! これこそ本物の証し!
いや~、本物の波動は隠せませんねぇ~ だからこれだけ売れるんですねぇ~
若かりし頃のイエスと、同じレベルだ。
起こっているすごい現象を根拠として、だから「正しい」とか「真理」だとかいう理屈に誘導していく。一種の洗脳であり、詐欺だ。
何度も言うが、すごい現象が、何かの正しさを証明することなどない。
悪魔と呼ばれる存在だって、超常的な力を発揮できることをお忘れなく。
現実的実績を、何かの正しさの根拠とするレベルは、幼い。
イエスは、初期はそうだった。
ちやほやされ、自身も自分はすげぇと自覚していたので、スター気取りになった。
ちょっと、調子に乗り過ぎた。
だから、「わたしにつまずかない人は、幸いである」と言い、「知恵の正しさは、その働き(成果)によって証明される」 と言ってのけた。
結果がすべてでしょ! なんだかんだ言ってもさ。
結果が出せないヤツなんて、本物じゃねーよ。
その点、オレは成果出すよ?
これって、オレのやっていることが正しいっていうかさ、的を射ているからじゃないの? (まるで、一代で財を成した傲慢なIT長者みたい)
結果面や現象面をことさらに取り上げ、そのすごさを強調したあとに——
だからこそ「本物」なんだ、というオチを持ってくるような教えや指導者には気を付けたほうがいい。一時は良くても、いつか足元をすくわれるから。
実際に、調子こいたイエスはその後十字架にかかった。
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