イエスの黄金律 ~人の良心に依存する宗教やスピリチュアル~

●人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。




 【マタイによる福音書 7章12節】



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 上記の聖句は、『黄金律』と呼ばれる有名な言葉である。



 似た言葉は世界のあちこちで伝えられており、そのだいたいは「自分がしてほしくないことは、他人にするな」という、禁止表現である。しかし、イエス・キリストのこの言葉は、「自分がしてほしいことは他人にもそうせよ」と、能動的積極的にもう一歩踏み込んでいるところが違う。

 この手の言葉では、イエスのものが一番メジャーに認識されているだろう。



 ジョージ・バーナード・ショーは、キリストのさらに上を行く、こういう言葉を残している。



●黄金律というのはない、というのが黄金律だ。

 人にしてもらいたいと思うことは人にしてはならない。

 人の好みというのは同じではないからである。



 私は、これに激しく同意する。

 だから、私は実はイエスの黄金律は、本人の言葉じゃなくどこかで誰かに「イエスが言ったことにされた」のじゃないかとさえ、勘ぐっている。

 だって、底が浅すぎるから。

 心がけとしては間違ってないが、その言葉を鵜呑みにするレベルの人が勘違いな行動をする恐れがある。イエスは、何よりそういう「文字で伝えることによって起きる誤解の恐ろしさ」を知っている。だからこそ、自分で書いたものを何も残さなかったのだ。もしかしたらイエスは、「あなたの言葉を聖書として後世に残すが、いいか?」と聞かれていたら、断ったのではないだろうか。

 歴史上最高の覚者の一人に数えられるイエスが、バーナード・ショーに一枚上を取られる程度のことを公言するはずがない、と思うから。



 誰とは名指ししないが、あるTV露出が多くて有名な心理学かぶれのカウンセラーオヤジ(人気が出過ぎてもう個人を相手にはやってないだろう)が、「自分のやりたいことだけやれ」みたいな本を出した。

 その本に寄せられた批評で、こういうのがあった。

「うちの虐待親がその本を仮に昔(私が子どもの頃)読んでいたら、私はきっと死んでいた」

「うちのDV夫がこの本を読んだら、と思うとゾッとする」

 もちろん、この本の真意というか、一番キモなところはそこじゃない。

 読み取るべきはそこじゃないし、その意味で間違ってはない。

 でも、出版物というものは多くの人が目にするものでもあり、その辺りの配慮が難しいのだ。発信者に悪気がなくても、世の中にはいろんな受け取り方をする人がいるのだから。



 やりたいことをやる、と一口に言いましても。

 何十億も人間がいて、そこにはその数だけ願望がある。しかも、置かれた立場や嘗めた辛酸によっては、一般常識から見てねじけた願望を持つ場合もある。

 たとえば、SMでいう「M」な人物は、もっと自分をぶってほしい(殴打)と願っている。じゃあ、自分がしてほしいことを他人にも……と、他者をぶつか?

 死にたい、と思っている人が他者を殺す?

 そのほかにも、価値観が多様化した現代では、もっと「一般人が理解できない」ような、「人にしてほしいこと」のバリエーションが存在する。

 黄金律はそれをみな、奨励するというのか?



 もちろん、異論があることも承知している。たとえば、こういう意見。



「人間はもともと愛に生まれている。(性善説?)だから、自分を傷付けてほしいから、自分もしてほしいことを他人にしようとか、そのように黄金律を用いると、不幸になる。歪んだ快楽はうわべにすぎず、その人物は自覚しないかもしれないが精神の奥深いところでは不幸になっているのである」

 つまり良くない願望は、その人本来の願望(ほんとうにしたいこと)ではない、という指摘である。

 確かに、「小公女」という児童文学の中で、主人公のセーラは、このように言っている。



「いじめっていうのはね、している本人も、心の中では実はあまりいい気分なものではないの」



 それは、確かにそうだ。

 これの応用で、歪んだ「他人にしてほしいこと」があって、だから自分もそれを人にやるんだという時、その願望自体が勘違いであり、人間本来の喜びを目隠しされて生まれたものだから、スタート地点からして「間違っている」ということである。

 だから、間違った入力で「黄金律」を応用したところで、出力として「幸せ」や「本当の充足」は得られない、とこういうわけだ。



 でも、一言言いたい。

 私たちが住んでいるこの世界は、リアルタイムで物事が遠慮なく進行していく世界だ。DVDビデオのように、リモコンで一時停止して、「ちょっと待った」とやることができない。

 将棋のように、次の手を打つまで「う~ん」と熟考する余裕がないことも多い。

 異常者が、今にもあなたを刺し殺そうとしているという場面で、あなたはグヘヘヘと笑うその相手に、理性的な説得を試みますか?

 逃げるか、相手の武器を無力化するために格闘するか、のほうが現実的でしょう。

 だから、「あんたの願望がおかしい」という指摘は、短期的には役に立たない。

 まずは、すぐ目の前の現実をなんとかしないと。 

 歪んだ願望をもつに至ってしまった者達の脅威を、取り除かないと。

 本人たちの心の救いは、すぐに無理そうなら後回しだ。

 歪んだ人物にいきなり「願望がおかしい」と言って説得しようとするのは、かなり実践的じゃない。



 火事の現場で、「この火事の出火原因は何だ?」としばらく考えるやつはいない。まずは、目の前の火をなんとかすべきであろう。

 人の魂の奥に踏み入って変わってもらおうとするのは、まず目の前の問題をくい止めてからでいい。いじめられていたら、いじめる人間の心の闇がどうたら言う以前に、まずは安全の確保だ。そのあと、しっかりと長期的問題に取り組めばよい。

 よっぽど自信のある者、余裕のある者だけが、いきなり問題の核心に踏み込めばよい。まぁ、たいてい返り討ちに遭うだろうけど。



 イエスが言った黄金律は、真理ではない。

 真理とは、どんな場合にも通用する法則を言う。

 でも、黄金律を適用されたら困る人種がいることも確かだ。

 いくら自分がしてほしいことだからって、それを他人にしてもらったら困ることもある。

 例外がある法則は、真理ではない。百歩譲って真理でも、実践的ではない。

 まだまだ幼い人類には、過ぎたおもちゃなのだ。黄金律は。



●黄金律は、人間の良心に依存している。

 人間の良心がある前提でしか、機能しない。



 黄金律は、「自分がしてほしいこと」 の内容が、一般的に受け入れられる良いとされることの範疇に当てはまるのを前提として成り立つ。

 この法則の欠陥は、「特殊な事情により歪んだ世界観を確立してしまったような人物に、利用されては困る」という部分である。

 人間が善人である前提でしか、うまく働かない。



 新興宗教ブーム・スピリチュアルブームが起き、そういうものは現代において以前よりは敷居が低くはなったが——

 いっこうに、そういったものが世界を変えていく気配がない。

 なぜか?



●宗教的・スピリチュアル的な理屈の大半が、人の良心に依存しているからである。



 ようは、「きれいごと」だということだ。

 現代のように世の中が複雑化し、他者には容易には想像できない辛さを経験する人が激増している中、きれいごとではそのような人々の心に響かないのである。

 黄金律の考え方と同じで、善人ばかりの世界ならいいが、その規格外の人たちもいるこの世界では、対処しきれない。宗教やスピリチュアルが、未だ「結局は内輪の盛り上がりに過ぎない」のも、そこに原因がある。

「自分は本質に気付いた、上質な魂だ」と思う者達だけで群れているのである。



 確かに心地よいであろう。価値観を同じくする者と空間を共にするのは。

 でも、私たちは地球に生きていることを忘れてはいけない。

 今この瞬間も、あなたが理解不能な人種が、色々なことを画策しているだろう。

 何ができるというわけではなくとも、少なくともあなたは自分の「コンフォート・ゾーン」から抜け出す時だ。あなたにしかできない何かを探せ。そして仲間以外のターゲットに関われ。

 価値観が同じ仲間うちでキャアキャア集まるのはいいが、それで世界を変えようとしてるんならお笑いだ。予言しておくが、スピリチュアルを掲げる集団が、指導者を中心にファン同士が楽しいお話を聞くだけの会合をこの先何年も続けようとしたら、破綻する。

 時代は、そんなことを放置しててくれるような、余裕のある時代ではなくなった。

 急流に突入したのだ。



 宗教やスピリチュアルが頭打ちになるとしたら、その理屈が実践的ではないからだ。考えたら当たり前の話なんだが、下手に精神性が高まったと自認する人々は、良くも悪くも——



●自分ほど恵まれていない人たちの事情や、自分のような高尚な考え方ができない人たちの精神構造や気持ちが理解できない。

 実際、イエスは凡人ユダの気持ちを見抜けず、裏切られる。織田信長もそうで、天才は結構そういうところで足元をすくわれる。



 もしも、「自分がしてほしいことは他人にもしろ」 がイエスの言葉だったら、これほど人間の心の世界の事情を分かっていない発言はない。

「自分のしたいことだけしろ」 だって、その人物のしたいことが何かによっては、おおごとになる。これも、「したいこと、というのがまともなことであるという前提」があり、やはり人の良心に懸かっている。



 人間の良心に依存するスピリチュアルでは、この世界を変えられない。

 もちろん、「人の良心を信じる・信頼する」という姿勢は良い。

 でも、現状のスピリチュアルは人の良心を積極的に信じ、その結果を勇気をもって受け入れようとしている、というよりは「いいことを言うだけ言い放って、あとは放置プレイ」であるように思える。

 信頼、というものに名前を借りた「まともであれ、という要求」 。

 だから、本当に辛い人に響かないのだ。

 理屈が間違っていないだけに、怒らせるのだ。

 言葉は美しいが、歪んでしまうだけの事情を背負った者の気持ちを汲んでいない言葉だと見抜かれるからである。

 そんな自分の優越感に気付いていないような、意識高い系人間も多い。



 ありのままでいい。

 やりたいことだけをやる。

 心の声に従う。



 これらの言葉は、大変危険である。危険物につき、取り扱い注意である。

 どんな人がそうするか、という『前提』が鍵だから。

 ありのままでは困る人もいる。

 その人にとってのやりたいことをやられたら、迷惑な場合がある。

 心の声に従った結果、とんでもない事件を起こされても大変だ。



 これから人類を変えられる何かがあるとするなら。

 スピリチュアルが現状を反省し、生まれ変わる機会があるなら——

 人の良心に依存する(いい人でないと通用しない)メッセージ内容は、もう引っ込めること。

 もっと、多様化した個々の在り方に寄り添う、マニュアルはあえてなしの「体当たり」実践にシフトしていくしかない。お節介だと言われようが、いいことだけを言って責任を果たした気になって「ああその人たち分かってない」と言って分かってる自分に安心する『放置プレイ』よりはまし。



 時代がここまで来てしまったら、覚者などの飛びぬけて立派な人物が大勢に語って影響を及ぼしていくよりも、ひとりひとりが草の根運動的に隣人を愛していくしか、もう方法がない。 

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