狭き門から入れ ~狭くても総員突入せよ~


 狭い門から入りなさい。

 滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。


  

 マタイによる福音書 7章13~14節



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 このイエスの言葉は、よく表面的に捉えられて誤解される。

『救われる数は決まっていて、そう多くはない』というふうに。

 超難関有名大学の、入試だと考えてもらうといい。

 合格する人数が決まっていて、その定数を試験の点数の高い者から数えていき、ちょうど定数に達したところで、そこから下を不合格として足切りする。

 


 今の時代、「地球に住む人々の二極化」が進んでいる。

 めっちゃ過激に描くと、「中身あり」と「抜け殻」である。

 中身あり、とは自分でモノを考え、自立した思考と意思をもち、社会にある程度は自分を合わせつつも、肝心なところでは自分の「したいこと、望み」を大切にできる者のこと。

 抜け殻とは、目先のことに心奪われすぎて、立ち止まって考える暇もないまま、その日その日をとにかくルーティンワークに従って「半自動的」に生きる者。意思決定の際、自分のホンネの望みより周囲の期待や、波風を立てない方向へなびく。

 こう書くとめっちゃ差別してるみたいだが、究極には「中身あり」も「抜け殻」もどちらも同価値である。演劇においては、主役も脇役も善役も悪役もどれも必要であり、優劣はない。

 ただ、折角「地球人生ゲーム」という舞台に立つのだから、同じ役をやるんならどっちがいい? ということを問うているに過ぎない。

 


 今の混沌の時代、狭き門とは「中身あり」のほうに入ることである。目に見えて分かりやすい横軸(現実の充足)だけでなく、縦軸(精神的充足)をも見出し、バランス良く生きる側のほうである。

 一方の「滅びに通じる門」とは、表向き宗教やスピリチュアルなどやっていて、「自分は本質をちゃんと分かって、つかんでいる」という自己認識に浸っているが、じつは背骨無し、自分軸なしのスッカラカン。結局、表層的な心地よさや成功などに比重を置き、そちらのためなら内側の宝や警告さえも無視する。

 もちろん、目に見えて分かりやすい権力や富といったものを追う競争に血道をあげ、心が置き去りになっている人物も同じこと。

 せっかく目覚まし時計をかけたのに、そしてちゃんと時間通りアラームが鳴って時計はちゃんと義務を果たしたのに、あなたが一度止めてからまた二度寝しちゃっている……みたいな感じ。



【補足】


 ここは結構重要なのだが、「中身あり」であることの判定条件として、特定の宗教やスピリチュアルをやっている・いないはさほど重要ではない。

 世で言うところのスピリチュアルとは無縁な方でも、「中身あり」 は多い。

 宗教やスピリチュアルを知識的に知らない・縁がないというだけで、ちゃんと軸を持って生きている人。人として魅力的な方々も多い。

 一般人でも、ぜんぜん問題ない。

 逆に、宗教やスピリチュアルをやっていてもそこに入れない者が多い。



 基本的な生き方は、「中身あり」も「抜け殻」も同じに見える。

 どちらも、基本「心地よさに生きる。自分の好きなことをする。」

 ただ一点違いがある。そしてその違いは致命的である。

 たとえば、滅多に当たらない「くじ」があるとしよう。

 沢山引いても、なかなか当たらない。

 しかし逆を言えば——

「滅多に当たらないが、でも引き続けば当たる時には当たる」。

 あなたの日常生活で、その大部分では「素直に心地よさを感じるもの」を選んで大丈夫だ。

 しかし、本当にまれに、あなたの成長のためや人生ステージの進級試験のように、「一見、あなたにとって心地悪さとして、都合の悪いことという装いで訪れる重要な人生イベント」 が起きることがある。

 その時である。「中身あり」と「抜け殻」で差が出るのは!



 中身ありは、あなたがすぐに感じる心地悪さを、「ニセモノであり、自分を惑わす心地悪さ」であると喝破する。その出所は自分が楽をしたい、傷付きたくないというエゴからのものであり、その心地悪さの膜の向こうに、「本当にはそれこそが自分のしたいことである、あるいは今の自分に必要なものである」 という、奥の奥を見て謙虚に知ることができる。

 しかし抜け殻は、直感的に感じるその「あなたを成長させず、今のままにしておくための策略としての心地悪さ」に見事引っかかる。そういう残念な選択をしておいて、「自分は直感に従った! 心の声、心地よさに従った!」とか言って、まるで褒めてくれと言わんばかりである。



 イエスは、「中身あり」になる人間は少ないよ、と決めつけているわけではない。

 ただ、難しいよと言っただけである。枠が決まっているとは言っていない。

 門が狭いというだけで、ちゃんとお行儀よく並べば、何人だろうがちゃんと入れる。イエスの言う「狭き門」をちゃんと説明すると、以下の通りになる。



 大学入試の合格者判定の基準において、定員が決まっていて上から数えて下を切るということなら、どんなにいい点を取っても他がもっと高い点なら落とされることがある、という寂しい現象が起きる。

 しかし、「中身あり」になる基準、つまり狭き門から入れる条件は——



●とにかく一定のある点数を取ること。



 それだけである。

 そのラインさえ超えたら、たとえ大人数だろうが全員合格である。

 イエスは、限定的人数しか救われないと言っているのではなく、「誰でも一定条件さえクリアすればOKだけど、簡単じゃないよ。僕が世の中を見る限り思うのは、うかうかしたら結構な人数が落ちるんじゃないかな?」という彼なりの見通しを述べただけである。



 イエスの見通しの通りになるの、悔しくない?

 だから、映画「もののけ姫」のキャッチコピーではないが、「生きろ。」と言う。

 もちろん、この場合の生きろは、鼻から息をして生物学的に生存だけでもしておけ、という意味もある。ゲームにエントリーだけでも最低しておかないと、その後の展開がないからね! 生きていてこそ、いいことも起きる。

 あともうひとつは、あなたに次々と襲い掛かってくる表層的な現象・感情の波に呑み込まれるな、ちゃんとあなたが二本の足で踏ん張って、その波の奥にある物事の「核」をつかみ取れる人であれ、ということ。

 ここぞという時に、表層的な損得・好き嫌い・安っぽいプライドを超えた選択ができる勇気があるか、である。

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