豚に真珠 ~真珠を豚に投げるな、とは~

 神聖なものを犬に与えてはならず、真珠を豚に投げてはならない。

 それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。



 新約聖書 マタイによる福音書 7章6節 



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 実は、聖書のこの文章が、おなじみの『豚に真珠』ということわざの由来になっている。どんなに貴重なものであっても、その値打ちを知らない者には、何のありがたみもない——。

 そういう意味で使われる。

『猫に小判』という言葉の仲間である。



 当時、イエスの教えは斬新すぎ、かつ時代を行き過ぎていて、固い頭の人間には理解されず、かえって非難中傷を浴びたはずである。

 イエスは覚醒者として太い神経を持っていたが、弟子たちまではそうはいかなかっただろう。そんな時、今日紹介したイエスの言葉で、彼らを慰めることができよう。

 上記の聖句を分かりやすく言い換えると、次のような感じになる。



「お前らがオレから聞いている内容は、凄すぎるんだ。

 値打ちが高すぎて、理解されないことの方が多いだろう。

 だから、批判してくる犬(値打ちの分からないザコ)なんか相手にするな。

 放っておけ。

 そんな奴らの相手なんかしていたら、同レベルに成り下がるぞ」



 でも、私は覚醒者イエスがこんなことを言うなんて思えない。

 私自身もそうだが、覚醒者である以上、すべてが同価値に認識できる。

 この宇宙に存在する物は、すべて価値があるから、存在することができている。

 あるべきでないものは、この宇宙にエネルギーをもって存在できない。

 そういう意味では、イエスを受け入れる者もそうでない者も、同価値である。

 豚も真珠も、覚醒した命には同価値である。

 悟りのマスター・イエスが、値打ちを分かっている者と分かっていない者を裁くかのような言葉を、あえて口にするだろうか?

 そう考えた時、私にひとつのインスピレーションが湧いた。



「イエスは、確かにこの言葉を口にした。

 しかし、解釈を我々が間違った。

 豚に真珠、つまり価値のある物を、分からない者に与えるな、という意味ではなかった。イエスの真意は、別にあったのだ!」



 さて、イエスのお話には、ひとつの傾向がある。



●それは、何でも大げさに話す、ということ。



 誤解を恐れず、言いたい放題言う人だった。

 ヨハネ福音書には「自分の血と肉を食べなければ、救われない」 という恐ろしい言葉が載っている。でも、それは文字通り人肉を食せということではない。本当に言いたいのは、「私の言葉を素直に受け入れなさい」ということだった。

 それを、このようなすごい表現で言ったのだ。

 また、いくつか例を挙げるとこういう発言もある。



●金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。

 (マタイによる福音書19章24節)



●この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。

 (マルコによる福音書11章23節)



 イエスが極端な表現を用いるねらいは——

 それくらいのスケールでものを言った方が、相手の意識に残りやすいからである。



 ……ということは、である。

 豚に真珠、の聖書箇所について、別の見方の可能性が生まれる。



 イエスにとっては、真珠の価値が分かる弟子たちも、分からない豚(群衆・批判者)も同価値だった。

 だから、イエスの中に人を価値判断して差別化する意図はなかった。

 ここでイエスが言いたかったのは——

「お互いの立場を批判せず、尊重し合いましょう」

「それぞれのあり方が、自由が守られるべきです」ということ。



 あんな値打ちの分からんやつらに負けるな。お前らは、優れた教えを認めた者たちなのだから——

 これは、後世の信者(聖書記者)が、自分はイエスを救い主として受け入れているぞ、信者じゃないヤツにはイエスの言葉の値打ちは分からねぇよ~だ、という優越感から、イエスの言葉を異教徒への「見下し」に都合よく利用しただけ。

 イエスが豚と真珠、という言葉を用いたのは、大げさに言いたかっただけ。

 落差の大きい、対照的なものを引き合いに出したほうがインパクトある、と思っただけ。でも豚も、真珠も、同価値。



 豚は豚で、豚の世界を大事にすればよい。

 真珠は真珠で、自分たちの世界を気持ちよく生きればいい。

 それを、豚が真珠を理解できないでかみつくのはよくない。

 真珠が、「この豚め、値打ちが分からんのか」と下に見るのもよくない。

 そんなことのないように、それぞれが気持ちよく生きる権利を認めようね。

 


 自分を正しいとして、聞く姿勢のない相手に自分の正しさを押し付けず——

 それぞれが、自分の信じたいことを喜びによって信じ、下手に干渉せず——

 棲み分けをして、気持ちよく生きていきましょう!


 

 ……と、これが今回の聖句の結論。



 イエスに、人を差別化する意図はなかったのに——

 キリスト教信者の中にある、「イエスを信じる自分こそ正しい。しかし世の中には分からず屋が多い」という意識が、本来はない意味を、イエスの言葉に勝手に付与してしまったのだ。

 図らずも、人々のもつ「エゴの課題」が、あぶり出しにされた形だ。

 何かを強烈に信じ、それを真理だと信じ込んでしまった者が、それを認めない人々を憐れむ、あるいは下に見るということは、いつの時代にも起きる。



 私も、こうやって発信していると、色々な反論、中傷に遭う。

 でも、自分を正しいとして、「値打ちの分からん奴らめ!」などとは思わない。

 彼らは彼らで「神」であり、宇宙のシナリオの流れの中で最善を歩んでいる。

 起こるべきことが起こっているだけ。

 だから、私は私で好きに発信して、気分よく生きるからさ。

 あなたはあなたで、気分が悪くなるなら私の文章なんてわざわざ読まないで、気分を良くさせてくれるものを相手にしたら? そうしたら、そのほうがお互いにとって利益じゃない? 世界は広いから、あなたと私が今後一生関わらないで済むような広さはある。



【結論】神聖なものを犬に与えてはならず、真珠を豚に投げてはならない、とは



 豚も真珠も、存在としての個性(一形態)に過ぎず、大きな視座からは同価値。

 そこに優劣の差はない。

 それぞれの立場が、他者に自分の正しさを押し付けず主張せず、お互いを尊重しながら、自由を認め合いながら生きるほうが、よくはありませんか?

 単に、そういうススメなのである。

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