明日のことまで思い悩むな ~不安にまつわるエトセトラ~
明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
マタイによる福音書 6章34節
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「心配」という言葉は、どうも最近のスピリチュアル業界の人や自己啓発の指導者には人気がないようだ。
最近、心配を目の敵にするようなメッセージが世には多いと感じる。
心配は、百害あって一利なし。あなたにとって「毒」にしかならない、とか。まったく不必要で、一瞬でも早く「シッシッ」と追い払うもののような扱いである。
あと、心配に囚われると「波動が下がる」とか。
まぁ「恐れ」ということとも絡めて、よくない要素と考えられている。
私は、こんなに嫌われている「心配」が、ちょっとかわいそうになってきた。
よく聞くのが、物事の悪い側面ばかり見る人は、そもそも心に怒りや不満があったり、否定的な感情があるからだ、という理屈である。逆に、物事の良い側面を見れる人は、心に感謝があったり、平安であったり満ち足りていたり、肯定的に見る余裕のある心だからだという。
そういうことを言う指導者には、無意識に「物事の良い側面を見れてるオレはちゃんとできてるぜ。悲観的な部分だけ見るやつさぁ、心が貧しいんでねぇの?」みたいな、無意識下のな見下しがある場合がある。
この理論の怖いところは、物事に批判的であったり否定的であったり、悪い側面を見るケースすべてを「その人のネガティブの反映」と決めつけてしまいかねない危険性を伴う。
たとえば、旧約聖書でノアという人物は、山の上に箱舟を作る自分をバカにする人々に 「お前たちがそんな行いばっかりだから (神の目から見て悪さばかりなので)、洪水が起きようとしている。助かりたければ、箱舟に乗れ(でもって作るの手伝え)」 と言った。
それは、ノアが 「物事を何でも否定的に見る偏屈おじさん」 だったから、人々を見てその悪いところばかりにフォーカスしたから、そういうネガティブな指摘をしたのか?
●いいや、「事実」だからだろう。
何かを批判する人は批判するような心の在り方をしているから、という理屈は下手をすれば、たとえ事実を指摘しただけのことでも、「いいや、あんたの心が貧しくねじくれてるからそんな批判をするんだ」と言いくるめられかねない。
歴史上、時代の混乱や迷走を憂い、国のために人々のためにあえて「批判」をした人物もいた。宗教改革で有名なルターは、神とイエスを、聖書を愛するからこそ、形骸化し世俗化した当時のローマ・カトリック教会を厳しく糾弾した。
決して、心が負のエネルギーにやられているから物事の悪いところが目に付くのだ、という単純な理屈に当てはまらない、愛ゆえの「事実の指摘」があることを忘れてはならない。
正しい批判だけせよ、でもなく『批判そのものがいけない・批判はどんなものでもすべてダメ』という一部のスピリチュアル界における風潮には、怖いものがある。
あなたは、テストで50点取った答案の、マルの部分だけを見て「良かった」と言いますか? マルだったところ、間違っていたところも含め全体で「50点」だと把握しませんか?
で、バツの問題から目を背けず、間違っていたところは間違っていたと認めて、やり直して次に同じ間違いをしないように向き合いませんか?
物事の良い側面を見て、悪い側面は見ない、というのは、50点のくせにマルだけ見て、そのちっさすぎる世界で喜ぶ、という結果になる危険があるということである。
心配は一切いけない、毒でしかない(それ以上の価値はない)も、同じように言い過ぎだと思う。
心配という字を分解すると、『心を配る』と書く。
つまりは、他人に関心を寄せていて(大事に思っていて)、その人物が幸せであるように気にしている、ということである。何かその人の幸せを邪魔したり、傷付けたりする恐れのあるものはないか? とアンテナを張っているのである。その状態が本来意味する「心配」。
確かに、心配という行為には「必要以上に配し過ぎ」という危険が付いて回るので、嫌われることが多い。心配のし過ぎは一種「病的」とも言え、せっかく相手の幸せを思うからこそする「心配」が、かえって相手に不快な思いをさせたり、下手したら相手の不利益を招くことだってある。
でもそれだって、エスカレートしていくような「度を越した心配のし過ぎ」に注意しろという話であって、心配そのものは悪者でも何でもない。
●心配というものは、無くすためにあるものではない。
しっかり心配して、それでもその心配があなたを脅かさなくなるほどに「行動」すればいい。それが、「心配いらない」と心から思えるような判断材料になればいいのだ。
イメージで言うと、比較の棒グラフだ。
「心配」を指し示す棒の長さより、「信頼 (きっと大丈夫。うまくいく)」 を指す棒の方が長さで勝る、という感じである。決して、心配を消滅させて、という話ではない。
そんなの、無理である。
もう人生において心配などしない、と豪語する者よ。あなたは、自分の言葉に責任を持たないいい加減なやつと言われても仕方がないよ。
今後本当に、心配しない? 絶対?
死ぬまで心配しない、なんてことはあり得ない。
そりゃ、自分へのごまかしだ。
あなたさ、今人生にそれほど大した問題もなく、恵まれているから 「心配なんて無用の長物」なんてことが言えるんだ。年端のいかない子どもが一晩帰ってこない、なんてことがあってみなさい。あなたごときの「心配などもうしない」なんて、軽く吹き飛びますからね!
二晩帰ってこなくても、「いいや、心配するからその低い波動と負のエネルギーが、相応の現実を引き寄せるんだ!」とか言って、ホンネで明るく笑って生きられますか? そんなことができる人の親って、いるの?(探せばいるんだろうね)
できるというなら、あんたはすごい。是非、スピリチュアル業界にデビューして、活躍していただきたい。(笑)
心配などもうしない、と心に誓った人よりも——
心配することを自分にゆるせる人の方が、人として何百倍も魅力がある。
心配がいけないんじゃない。「心配するのはよくない」と決めるあなたがいけないのだ。
健全に心配する、ということは可能なのである。
時として心配という感情も、素敵な愛のドラマを生むこともある。
とにかく、心配だったら何でもいけないかのような、デリカシーのない白黒ハッキリさせた話はくだらなさすぎる。繰り返すが、心配が全くなくただ 「信頼だけ」 なんてのは、空想科学小説と同じである。誤魔化しているか、本当に苦労のないセレブな人生を送っているかでないと、そんな恥ずかしいことは言えない。あくまでも——
心配と 「心配だけど、それでもきっと大丈夫」 が同居していて、辛うじて 「大丈夫」 が勝っていることこそが、大事なのである。ただ信頼だけなんてのは、楽ちんすぎる大丈夫で当たり前の状況でしかあり得ず、そんな信頼に強さなどない。
冒頭のイエス・キリストの言葉を最後にちょいと解説して終わろう。
「明日のことまで思い悩むな」 → 「今日 (いま) のことなら悩んでいい」
「明日のことは明日自らが思い悩む」 → 「今日のことは今日にいるあなたも、今日とともに悩め」
「その日の苦労は、その日だけで十分である」 → 「まだ起こってないことはいいから、目の前のことは真剣に思い悩め。今日の分は持ち越さず、ちゃんと今日苦労しろ」
まだ起こってもいないことを心配しないのは、よいことだ。
でも、今の目の前の現実の 「明らかに心配なこと」 を、心配ないなどと誤魔化すな。良いところだけ見て終わりにせず、ちゃんと現状と問題点を見据え、王道な解決法を割り出せ。
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