人を裁いてはいけないのか ~イエス本人は結構裁いているけど?~

●人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。



 マタイによる福音書 7章1~2節



●律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。

 律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。 

 (以下、延々と裁きが続く)



 マタイによる福音書 23章13~29節



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 たまたま、「聖書に人を裁くな、と書いてあるのですが、どう捉えたらいいですか? 日常生活において、どのように生かすといいですか?」と聞かれた。



 まず、問題を最初から破壊するようでなんだが、聖書に書かれてある言葉がすべてイエスが本当に言ったことである、という前提がそもそもないのである。

 確たる証拠も根拠もないのに、信仰により「聖書に書いてることは最初から疑わない前提」になっているので、ほぼ誰もが無条件で信じる「VIP待遇」となっている。まぁ、仮にイエスが言ったんじゃなくても、「より良い生き方のコツ」としてこの「裁くな」はどうなん? ということなら、これから解説する意味がある。



 既出の記事で、「覚者(この場合イエスを指す)の言葉など場当たり的で、一貫性や整合性など気にしていない」と書いた。イエスの話はほとんどが『対機説法』だ、という話題の時である。

 仮に、上記に紹介した聖句を、どちらもイエスが言ったものだと仮定する。



●最初の聖句では、「人を裁くな」と言う。

●しかしある時には、そう言っているイエス自身が人を裁きまくっている。



 ここで、この矛盾に関する一番くだらない解釈は、これである。



 イエスは、人間と言うより言わば神。

 神なので、無明の中にいる下々の人間同士ではお互い様なので「裁くな」とアドバイスした。なぜなら、彼らは不完全なので、裁きを誤るからである。

 でもご自身は完全・完璧であるので、神が何かを裁いてもそれは正しいので、いいのだ。



 これ言ったら、おしまい。(笑)

 これで片付けたら、脳細胞が劣化する。

 そう考えたらもっとも楽だが、一番人間が成長しない解答。

 すべては、「TPO」 という言葉で語ることができる。

 Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)。

 時と場所、場合に応じた方法・態度・服装等の使い分けを意味する言葉である。



 イエスは、普遍的な法則や定義を語ることは好きじゃなく、(むしろそんなものはないと知っていた。だから、自分で書いたものを何も残さなかった) 相手の顔を見て、その人の個性、過去、現在の状況を知ってから、おそらくは相手に一番よかれと思うことを言った。

 だから、個々のケースを言葉だけ聞いて、同じ俎上に載せると、何だか言ってることテキトーやなぁという印象を受けてしまうことになる。



 イエスの言葉が時々違うことを言ってるように感じるところは、イエスの目の前にいる人間が違うからである。語る対象が違うからである。

 例えば、テレビ放送や本などは、誰が見ても読んでも同じ言葉が伝わる。

 その代わり、「相手の顔を見ていない」言葉なので、役立たなかったり反発を食ったりする。だから、相手の顔を見ずに不特定多数に発信する手法を取る場合、非難覚悟でないとやめるべきである。

 指導者や有名人は、あこがれたりうやらましがる対象ではなく、「険しいいばらの道」であることをわきまえて、なおそれでも目指したい者がなるべきである。



 イエスは、民衆から王にまつり上げられかけたが、辞退した。

(というか逃亡した)

 人の上に立ってしまうと、その集団の規模にもよるが、大勢の人間の顔も見ず、じっくりひとりひとりと話もしないまま、何かの言葉を全体に向けて発さないといけなくなる。

 それによって、ミクロレベルで不幸になったり、その言葉のせいで人生が狂う者も出る。でも、王などになったら、あまたいる国民のどこかの一人が自殺したりしても、王はいちいち関知していられない。

 イエスが怖がったのは、おそらくそこである。あくまでもイエスは、現場主義でいたかった。ちゃんと目の前の誰かに向き合って、言葉を投げる人でありたかった。



 だから、イエスが『裁くな』と言ったそこだけを取り上げて、金言としなくていい。別でイエスは、気に食わんやつを散々こきおろしているのだから。

 何度も言うが、TPOだ。

 今、このタイミングと状況で、それをするのが適切かどうか。

 逆に、それをしないことでどうなるか考える。今はよくても、長期的にマイナスではないか?



 例えば、子どもが悪さしたら、大人は叱りませんか?

 ケンチャネヨ、って言いますか?

 やっちゃいけないことは、根拠を示して諭すべきでしょう。

 一時は、その子に嫌われるかもしれない。でも、後々のためにも要るでしょう。

 逆に、「裁くのを控えたほうがいい場合」もある。

 それが「余計な一言」になる場合。相手にも言った本人自身にも、マイナスしか生まない場合である。ただこれも難しい問題で、人間側でその時「余計な一言」と感じても、後でやっぱりあれは当たっていたし言ってもらってよかった、と評価が変わり得る。



 人殺しの可能性を無くすために、刃物をこの世から全廃しますか?

「裁くな」を真理として守ろうとすると、それと同じことになる。

 リスクを回避する代わりに、もっと大きな大事な何かを失うことになる。

 だから、人が人らしく生きるためには、必要と思う時には思いきって裁く。

 そして時には冷静になり、自分を顧み、一言多くないかを考えてみる。

 それくらいのバランス感覚で生きていたら、そこまでイエスの言葉を気にしないでいいのではないか。彼の言行録は、実は本当にテキトー(いい意味で)なのであるからして。



 ある時は情欲を否定し、そういう目で他者を見たら、それは実際に相手とヤッたのと同じだと言ってる。あなたの右手が罪を犯すなら切って捨てろ、右目が罪を犯すならえぐって捨てろ(AVもエロ本も見れない)とまで息まいている。

 でも、姦淫(売春)の現場で捉えられた女性にはやさしく、「私はあなたを裁かない」 と言っている。それくらい、個々の言葉を比較すると矛盾するのだ。

 おそらく、情欲に関する厳しい言葉は、個別のケースで 「それくらい強く言っておいてちょうどいい」ような、その問題に取り憑かれているような人物に対してのものかもしれない。

 それが、なぜか人類全体へのメッセージであるかのように、聖書に収録されてしまった、とかね。



 スクールウォーズという昔のTVドラマの中で、校長先生がこう言う。


 

『人を殴ることがゆるされるケースが、この世には二つだけある。

 ひとつは本人、またはその周囲の人間に危害が及んだり、命の危険性が生じる場合。もうひとつは、「殴ることで、それが最終的に相手にとって益となり、かつ相手と自分との信頼関係も損なわない、という確信ができた時」。さぁ、君の場合はどっちかね?』



 だから、裁くというのも同じだ。

 考え方の根っことしてはやはり、このふたつのケースに集約される。

 日常で、街でマナーの悪い人を見たり凶悪なニュースに触れて「裁いてしまう」とか、そんな細かいことはよろしい。もうちょっと、おおらかに考えていい。

 他人の感情や人生を、大きく左右してしまうことになる言動に関してだけ、気にしたらいい。



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