蒔かず刈らず紡ぎもせず ~ただいてくれるだけで~
空の鳥をよく見なさい。
種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値があるものではないか。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたはなおさらのことではないか。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは、明日自らが思い悩むだろう。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
マタイによる福音書 5章26節~34節
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これは、イエスの『山上の説教』と言われる内容の一部である。
原本が失われている上に、聖書の著者の価値観や教会の都合などにより、だいぶ変形してはいるが、この文章からは、覚醒者イエスの言葉としての片鱗がうかがえる。
イエスは言う。
働きもしない鳥や、紡ぎもしない鳥さえも、生きていけている。
しかも、鳥は十分な食物を与えられ楽しそうに唄っている。
野の花は、宇宙にきれいに着飾ってもらっている。
それは、鳥がそのような見返りにふさわしい何かの努力をしたからではない。
野の花が、着飾ってもらえるに足る何らかの労働をしたからではない。
鳥はただ鳥であるというだけで。
野の花は、ただ咲いているだけで。
ただ在る。それだけで完全であり、あらゆる宇宙の恩恵を受けるに足るのだ。
私たちは、この宇宙次元の中で(井の中の蛙のように)『働かざる者食うべからず』という常識感覚を作ってしまった。そして、『等価交換』という価値観も。
現在の貨幣制度も、その二つの価値観の名残である。
いくら善人でも、どんな事情があっても、その人が千円しか持っていなかったら千円以上のものは買えない。
どんな事情があったとしても、だ。
そこの辺の悲哀を描いたのが、飢える弟妹のためにひとつのパンを盗み、十数年も牢獄に入れられたジャン・バルジャンの登場する『レ・ミゼラブル』である。
我々はもう、小さいころから、この価値観を叩き込まれる。
おつかいに行って来たら、お駄賃をあげますよ。
ちゃんと宿題したら、おやつを食べてもいいわよ。
通信簿が良かったら、夏休みは遊園地にでも連れて行ってあげましょうかね——
人間の周囲を取り巻くものは、人間のようには働かない。
例えば、私たちの周囲に無数に存在する、『モノ』たち。
手帳、机、ポット、新聞紙、お皿——
それらのものは、働かない。ただ、じっとしている。
人間の役に立っているから、働いているぞ! というのはこの場合ズレた議論である。それはあくまでも、人間側の都合から見た話であり、人間側のひとり相撲視点である。人が扱って勝手に「役に立ってくれた」という感想を抱けるだけであり、モノそれ自体は受け身で、何もしていない。
なのに、我々を取り巻くすべてのモノたちは、何も生み出そうとしていないのに、存在できている。存在できている、ということは何らかのエネルギーによって存在が保たれている、ということだ。
それを、ベタな言葉で表現すると——
●すべては、愛によってその存在が支えられている。
無条件に、その価値は認められている。
だから、人間の思い込みのように——
何かを成さなければ、その存在だけでは価値があると言えない、なんてケチくさいことは言わない。
それが、この豊穣の宇宙である。
話がそれるが、私は『限りある資源を大切にしよう』という言葉を聞くたびに、間違っちゃいないんだけど、笑える。宇宙って、地球ってそんなにケチくさいところ?
世界の豊かさは有限で、その中で節約してやりくりしないといけない——
そういう個々の集合意識こそが、その現実をつくっているのに?
そう認識して、その現実を守ろうという行為こそが、さらにその世界のありようを強化しているのに?
「これボクの」「これ私のだから、取っちゃダメ!」なんて言って、恐れからケチくさく囲い込んでさ。そこに他を慈しむ心なんてこれっぽっちもない!
そういう意識の本質は、『恐れ』である。
もちろん、資源を大切にしてよいし、節約してよい。その自由が人にはある。
ただ、それが喜びから出ているかどうか、である。心からそうしたくてやっているのか、である。
資源が尽きるかもしれない、皆で使うには足りないかもしれない、という恐怖からではないか? 同じ足りないなら、せめて使えるのは自分でありたいと戦う。
そういう恐怖は、「宇宙が我々に無尽蔵の豊かさを与えてはくれない」と怖がる信頼のなさから来る。
なんと、もったいない発想だろう!
宇宙は、無限に豊かなのに。
我々の価値観で言う『働かざる者』に行き渡っても余りある豊かさが本来あるのに。そこをガタガタぬかすやからが多いのは、限られた豊かさ、という範囲内で分配することしか知らないから。
そこであっちは余分に得る資格があるの、こっちは少なくあるべきだのというショボい議論になる。
イエスの言う通りなのだ。
鳥も野の花も。この宇宙に存在するすべてのもの、当然私たちも——
『存在できている、というだけで愛のエネルギーを受けている証拠なのだ。
宇宙に愛されているからこそ、今ここに在れているのだ。
もうそれだけで、宇宙のあらゆる豊かさを享受するに足る資格がある』
私は、この価値観を貫く上で心配されているようなことはないと信じる。
例えば、「ただあなたがいるだけで素晴らしい」なんて価値観を認めてしまったら、怠け者がつけあがって労働しなくなり、世界はより混乱する、というようなことが。なぜなら——
『命である以上、どんなに遠回りしても
どんなにそれらしくない振る舞いを、自由により選択しても——
必ず、命本来の輝きの元に返ってくる。
必ず成長・拡大・発展の方向に向き直る。
必ず、血の命ずるところの情熱に行き当たる。
必ず、喜びとワクワクの道にたどり着く』
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野の花(植物)は、知的生命体である人間よりも、仏教で言う悟りに近い。
動物も近いが、植物には及ばない。
動物はまだ、殺そうとしたら自分を守ろうとするし痛がる。
植物は、刈り取ろうと鎌をあてがったら「イテッ」とか言って身をよじるだろうか? そんな現象があれば、かなり笑える話である。
ってか、いちいち痛がられては、可哀想で穀物を収穫できたものではない。
「死」によって、この宇宙は支えられている。
それがまた新たな命を生み、循環していく。
それを100%受け入れているのが、万物。(人間を除く。動物も、ある程度まで)
人間だけが、目にも止まらぬ変化の流れの一瞬を無理やり切り取り、過度に大事にし、それが崩れ去ることを何よりも苦しみ悲しむ、という悟りの観点からは実にへんてこりんな生き物なのだ。
悟りを別の難しい言葉で言うと 『無為』という。
何もしないこと。自分に対しても、他に対しても。
それこそが、「存在」がたどり着く在り方としての最高到達点。
聞きなれた言葉にすると、「ただ在る」ということ。
言葉では簡単でも、その実現と到達は我々には難しい。
難しいというより、その境地は「来るときにしか来ない」ので、自力ではどうしようもないのだが。
ただし、この議論は今この地上で生きる我々には大して意味がない。
なぜなら、今私たちが目にしているような状況を、社会システムを(現実を)生んでしまったからだ。目の前にあって、もうそれは消えてくれないからだ。
根底から今の世界を覆す勇気が我々にないのなら、この現実を生きるしかあるまい。そう決めるならば、悟りの最高点である「無為」は現実的ではない。
無為を貫けば、この世界では廃人である。役立たずの、ごくつぶしなのである。
この世界では、他に干渉してなんぼ。目に見える形で、どれだけ褒められることをしたか(実績を生んだか)で価値が測られる。無為なんてのは、論外である。
価値あるものを生み出すか、意味のある行動を取るかしないと成り立たない世界。
だから、この世にあって無為を体現できる者は数が少ない。
覚者の言う無為は、厳密には「本当に何もしない」ということではない。
じっとして死ぬまで動かぬなら、存在しないほうがマシである。
事実、宇宙のどこかにはそこまで精神性が到達した生命体があって、24時間ジッと動かないのだそうだ。
その状態がついにイヤになって、死にたくて死にたくてずっと自らの存在が消えることを願っているが、その願い叶わず、消え去ることもできず石のように「ただ存在している」という生命体もあるのだとか。
それは極端だとしても、人間にとって意味のある無為とは、何か?
『まったく何もしないことが無為なのではない。
それを、この世界で貫いたら破綻する。なぜなら、「立ち止まることが、運動をやめることがゆるされない世界」だから。
だから、結局何かしないではいられない。
いられないが、その取る行動が「自然体」でできる。
頭を痛めて考えずとも、すっとどこからか湧いたオーダー通りに行動がとれる。
心のオーダーと実際の行動の間に、ズレや隙間がない。
するかしないかで葛藤する時間やくるしみが、ほぼない。
そういう境地においては、何もしないわけではなく何かはするが、「我」はほぼ使っていないので、行動はしていながらも「無為」に近い境地に留まれる』
蒔かず刈らず紡ぎもせず。ただありのままに在り。
そんな野の花や草の境地には遠く及ばないが、今日も私は自然体で生きる。
心のどこからか湧いてくるオーダーの通りに。素直に、無理せず。
動いてはいるが、完全に魂のオーダーに従っているので、無為に近い。
そのような在り方が、悟りである。
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