右の目罪を犯す時には ~姦淫するなかれ~

 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。

 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。

 体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。

 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。

 体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。



 マタイによる福音書 5章27~30節



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 クリスチャン時代に、イエスが救い主であること、そして聖書が素晴らしい書物であることは受け入れ認めながらも、最後までよく分からなかったのが、聖書のこの箇所である。

 このイエスの言葉は、特に男性には厳しすぎる。

 誰もが、ホイホイと結婚をし、神にゆるされるその関係だけで性の満足を得ることなど、現実問題として難しい。

 人の体が生殖できるように整うのは早く、実際に結婚できるのは少し後だ。

 中高生の、元気はつらつの男子諸君に、エッチな目で女子を見るなと言う方が無茶である。彼らに、隠れてエロ本を読むな、AVを見るなと言う人がもしいるなら、悪魔よりも残酷な人である。

 そもそも、エロ本やAV見るとかいう次元以前に、道行くきれいな女性を見てちょっとでも何か色欲的なことを思っただけで「アウト」なのだ。この壮絶な基準を守るなど、現実的ではない。誰もできないのではないか?



 この箇所を真面目に読むと、情欲を持って異性を見るな、ということだ。

 それすら、「悪い」ことだ。罪である、と。

 私たちの世界の感覚なら、「それは別によい(よいというより、仕方がない)」である。その罪で逮捕されることはない。

 もちろん、一線を越えて具体的な行動(女性を襲う、痴漢する、盗撮する) に出ると、それは犯罪である。そこは許してはならないが、特定の彼女もいない若い男が、道で美女とすれ違った時に目で追うな、というのはちと可哀そうすぎる。



 よって、予防策として、バーチャルな世界(本、ビデオ、風俗など)でその欲望を解消させることによって、現実に問題を起こさぬよう、そういうものがひとつの産業(商売)として成り立っている。

 そして、それらを大いに利用しても、別に厳しい宗教でもやってない限り、その人にとって罪でもなければ大いなる過ちでもない。しかし、厳格なクリスチャン男子は、かわいそうなことに苦悩することになる。

 イエスのこの言葉を聞くたびに、自分がキライになるのである。

 信仰者は、イエスは絶対だと思っている。

 向こうが間違ったことを言ってるとは、微塵も想像しない。

 聖書が間違っている、とは絶対考えない。

 だから、イエスの言葉通りできなかった若いにーちゃんは——



「イエス様、ごめんなさい!

 また、情欲に負けてしまいました!

 AV見ながら、こっそり●●してしまいました!

 同級生の大好きなあの子と、●●するのを想像しながら、ひとりでいたしてしまいました!

 悔い改めます! もういたしません!」



 イエスは言う。右目がエッチなものを見ようとするなら、えぐって捨てろと。

 右手がなにを握ってなにするなら、切断して捨てちゃえ、と。

 罪を犯して地獄に行くより、障がいをもっても天国へ入る方がいいだろ? と。

 よく、こんな教えを我慢して聞いていられますね! こんなバカなことが何の問題にもならないほど、イエスの影響力は絶大だということか。

 こんな内容が見直されもせず放置されるほど、聖書が絶対視されてきて、人々は、盲目になってしまったのか。

 あ、イエスの言う通り目をえぐったから、盲目になったのか。(ここ皮肉です)



 人間の性的な営みに、罪悪感が影を落とすことほど残念で、もったいないことはない。今日は、若者を苦しめるこの罪作りな聖句を、筆者流に解釈し直してみよう。

 これで、宗教的戒めによるいらぬ罪悪感から、男性諸君が解放され——

 性という世界が、あなたの負い目ではなく喜びの道になることを祈る。



 まず、イエスが本当に「エッチな目で異性を見ることすら、ヤッたのと同じ罪だぞ!」と糾弾するような無慈悲なことを言う人物かどうか、考察しよう。

 以下の文章を読んでほしい。やはり聖書に載っているお話である。



 ……朝早く、(イエスが)再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。私たちの教えの中では、こういう女は石で打ち殺せと、決められています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

「主よ、だれも」 と言うと、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


 

 ヨハネによる福音書 8章2~11節



 非常に有名な話である。

 人間に対する、イエスの優しさがよく分かるエピソードである。

 この、姦淫の女を「罪に定めない」と言うイエス像と、「女を見てエッチなこと考えるだけで、心の中とはいえレイプしたのと同じだぞ」と詰め寄るイエス像が、どうしても一致しないのである。

 こう反論する人もいるだろう。

 イエスは、罪を犯す前だから、避けられるようにするため厳しく言うのであって、罪を犯してしまい、それが事実となってしまった者に対しては優しいのだと。



 また、こうも言うかもしれない。

「悔い改め」というものが鍵だ、と。

 つまり、この姦淫の女は、罪を「悔いて」いる。素直に認めている。

 イエスはあくまでも『罪を罪としてゆるす』のであって、罪が罪ではない、罪などないというわけではない。

 冒頭のお話で言うと、情欲をもって女を見ること自体は罪だ。しかし、それをしてしまった人物が罪を認めて悔い改め、イエスにすがるなら、ゆるされる。

 これがイエスの言う「わたしもあなたを罪に定めない」ということなのである。最初から罪など誰も犯していないのではなく、イエスを通して罪ゆるされる、という構図なのだ。

 だから、カトリック教会には、神父に罪を告白する『懺悔(ざんげ)』なる儀式がある。



 私は、「悔い改め」という言葉ほど、バカバカしいものはないと思っている。

 歴史上、「悔い改まった人」なんているのか?

 その時はしおらしくなって、「もうしません!」などと涙で決心するのであるが、ほとぼりが覚めた頃、またやっちゃうのだ。で、また「悔い改め」 。

 改まらないんだから、それってただの「悔いの連続」じゃん!

 そうツッコミたくなる。

 いい加減、気付こうよ。ムダなことしてるって。

 そもそも、前提となる常識や情報がおかしいからだ、って。



 ではここから、冒頭に紹介したイエスの厳しい言葉の、新時代版解釈に移っていこう。まず、ひとつめの指摘。


 

●イエスは、『姦淫が悪いこと』だなどとは一言も述べていない。



 でしょ?

 一行目。

『あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。』

 これは、あくまでも「世間ではそう言われてますよね?」 程度の意味だ。

 世間が(姦淫はいけないことだから)するなと言ってる、と指摘しているに過ぎない。そして二、三行目。

『みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』

 イエスは、単なる観察結果を申し述べているだけ。

 エッチな目で女を見ることは、もうやっちゃったのと同じだよ。

 つまり、これとこれとは同じ、という指摘をしているにすぎず、『だからどうだ』を言っていない。ここでイエスは、価値判断を何ら提示してはいない。



 だから悪いことだとか、やるなとか——

 そういう価値判断的な内容には、触れていない。

 禁止も、していない。



 つまり、読む側の人間の問題なのだ。

 文化風習的に、「情欲はいけない (子を成すため以外の)」という感覚がしっかり根付いている人がこれを読むと、この文章にイエスの価値判断 「姦淫は、情欲で他人を見るのは悪いことだよー」 という指摘などなくても、勝手に「悪いことだ」 と言われていると受け取る。

 読者側の意識上の前提のせいで何の疑問もなく、そういう決めつけとすり替えが起こる。

 誰も、イエスがここで 「ただの事実関係を指摘しただけで、それがダメだとは一言も言っていない」ことに気付かない。勝手にそう読み込んで いるのである。



 でも、そう考えるとすぐ次の疑問が湧いてくる。

 後に続く、イエスのこの言葉の解釈だ。 



「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。

 体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。

 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。

 体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」



 文章の感じから、イエスがはっきり言わないまでも、エッチなことを考えたりしたりすることはダメだ、というニュアンスでしゃべっているように聞こえる。

 さて、ここからは筆者流の解釈。

 実は、前半部(姦淫とは何か、の指摘)と後半部(右目捨てろ、右手切れという具体的勧め)は、本来関係ない。別々で言われたことが、聖書が何度も編纂される過程において合体してしまっただけ。

 本来別で言われたことがくっつき、読者が混乱することになった。

 ちなみに、後半部は何が言いたいのかというと——



「あなたの、内側の意識こそが大事だよ。

 外側のものに、内側が負けそうになる時。

 外のものに、あなたの人生の主人としての選択を邪魔される時。

 気を付けなさいよ。」



 それこそが、イエスのメッセージなのでる。

 では、具体的に考察していこう。

 ……もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。

「右の目があなたをつまずかせる」とは、言い換えれば——



●あなたの意識の内側、本心から出たものではなく、世界の外側から来る情報によって惑わされ、あなたが自分主権の判断を選択できなくなりそうな時



 ……である。

 私たちは、イエスでなくても、誰でも神(のごとき価値を持つ)である。筆者の悟りによれば。

 個々人が意識、というものすごい宝を内に持っている。

 そこからの声に従い、生きることこそが目的である。

 外の情報に自分が人生の主導権を奪われるのではなく、惑わされず魂のホンネに従うことが、この三次元地球ゲームの勝利条件である。

 だからイエスは、本来この言葉を「情欲への戒め」として言ったのではなく——



 あなたが人生の主人公として、自分の心からしたいことを選べるように、気を付けなさい。

 この世界には、(人生ゲームだから)あなたにそうさせまい、とする障害が登場するだろう。

 見えるもの、聞くものがあなたを恐れさせたり、自分をダメだと思わされたり。

 自分の外のものを神としたくなる誘惑に、襲われることもあるだろう。

 そんな時は、思い切ってそんな外の情報を切って捨ててしまいなさい。目に入ってくる有害な情報を食い止めなさい。あなたを貶め、不安にさせる情報なら耳をふさいでしまいなさい。そんなものを一旦心から締め出して、自分のむき出しの意識に立ち返ってみなさい。

 たとえあなたが、自分を押し殺して外のものに同調することで得をしたり、うまくいったりしても、そんなものは、本当の豊かさではない!

 それは、あなたを幸せにしない。

 表面的な安定を得ながら、地獄のような空虚さを味わうかい?

 それとも、そんなものよりも魂の声に従って、「自分が主人公の人生を生きる幸せ」 にするかい?

 後者を選べる生き方ができる。それが、天国ってもんなんだよ。



 あなたの右の目が……の部分のイエスの言葉は、以上のように翻訳できる。



 では、今回のまとめ。



 イエスが言いたかったのは、情欲が悪いということではない。

 ここは、もともとそういうものを汚らわしいとする宗教的風土に育った聖書記者が、イエスの言葉をそのような物差しで見、思い込みから「情欲はダメ」という文脈で勝手に紹介してしまったものである。

 イエスは情欲を責めたのではなく、倫理道徳や勝手に決めた宗教的戒め(律法)にがんじがらめになり、自分が本当にしたい選択ができない、言いたいことが言えないでいる人間たちにウンザリして、少々過激な言葉で指摘したのだ。



「情欲? 見て想像しただけと実際にヤッたのと違うか、って?

 こっからが良くて、ここからがダメだとか、そんなんオレから見たらどっちも同じだよ。だって、根本の思いの世界は同じだろ?

 もちろん、「オレから見て」ってことだよ? みんなはそうじゃないだろうよ。

 え、結局いいのか悪いのかどっちか、って?

 そんなもん、ちょっとは自分の頭で考えたらどうだ。見てムラムラするだけで罪ってことにしたら、この人間社会はいつか破綻してやっていけなくなるだろうね。

(※きっとイエスに全き清い神の救世主でいてほしかった聖書記者あるいは教会側が、故意にこの聖句を捏造した可能性は低くない)

 いい悪いなんて考えなくていいよ。逆に、いい悪いという基準から自分の価値を固めようとするなんて、バカバカしいよ」



 そして、イエスはまた別の機会にさらに指摘をした。



「見るもの、聞くもの(外部情報)があんたの本当の判断を惑わすんなら——

 それ、いっぺん忘れちゃいな。

 また外の行動が、あなたのした失敗が、神であるあなたを低めるなんて無礼なことをするなら、そんなこと、忘れちゃえ。もっと、楽しいことやこれからにフォーカスしな。(もちろん、やったことによっては大いに反省する必要はあるが)

 そんなもん引きずって、血まみれになりながらでも 、世間的成功とか安定という看板が欲しいかい?

 オレはやっぱり、自由気ままに選択し、それでもって自分を誇れる生き方がオススメだなぁ」

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