神と富とに仕えることはできない PART 1 ~『富』の定義が間違っている~
だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書 6章24節
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最近流行りのスピリチュアルの主張とは、ちと相容れない言葉である。
なぜなら、精神的な在り方(内面)と、経済的な面(外面)の両面共に豊かになることをうたっているのが、ここ最近のスピリチュアルの主流だからだ。
昔でこそ、「清貧」とか「ボロは着てても心は錦」とか、心の豊かさと経済的な豊かさが違うものとして語られていた。いや、どちらかというと聖職者やそれに準ずるスピリチュアルの分野でメシを食うような人間は、大金を稼いではいけない、というような印象まで一般的であった。
現在でも、それは払拭されたとは言えないが、昨今の「稼ぐ」指導者たちのおかげで(?)心の豊かさがあってそれが現実の富と連動している、という理屈が市民権を得た。
逆に「金儲けの額がすごいほど、おさめた成功がすごいほど、そのスピリチュアリティも本物である証し」みたいに思われることも。
そんな時代にあって、このイエスの言葉を聞くと、ちょっとした違和感を覚える。
「えっ、神と富に仕えることはできるでしょ?
てか、神の願いは私たちが豊かになることじゃないの?
だったら、別に両方を追うことは矛盾でもなんでもないんじゃないの?
イエス様って、ちょっと頭固い? 発想が前近代的?」
……と、そんな感想にもなりかねない。
さて、ここから私なりにイエスのこの言葉を補足解説してみよう。
ここでイエスの言う神とは、現代の我々の世界観に引き寄せて言い換えると、単純に 「スピリチュアリティ」という言葉に置き換えることができる。そう考えると、イエスが言っているのは 「スピリチュアル(精神的)な在り方と、お金儲けは両立しない」という訳し方ができる。
こう言うと、おカタいガチガチの宗教者には「そうだそうだ」と喜んで大賛成されそうだが、まぁ待ちたまえ。私はイエスのこの言葉を理解する上で、「富」という単語の定義が曲者だと思うのだ。
「富」を単純に「お金」だと理解してしまうと、宗教やスピリチュアルで金を受け取るな、儲けるなという超怖い理解になってしまう。それは、どう考えても言い過ぎだ。だから、イエスの言う「富」とは、このように理解したらいい。
●多すぎるお金。
●その人物なり養っている家族なりが、十分に文化的生活が保障され、なおかつ少々の余裕があるという状況を維持するのに必要な額を上回る収入に関するもの。
富を、お金そのものとか財産そのものと考えるから、混乱する。
人によって、不足していたりあるところにはありすぎていたり、と状況が違うため、一口に富と言っても「必要で決して余分じゃない富なのか、それとも有り余っていて生活や多少の贅沢をしてもそれでも残るほどの富なのか」が違う。決して同列には語れない。
だから、イエスの言葉は、それを踏まえたら次のようになる。
「あなたがたは、スピリチュアルな在り方を貫きたいと思うなら、稼ぐ額はそこそこにしなさい。
でないと、あなたが自分と家族を支えるのに十分な額以上のものを手にする時、またあなたが自由に自己表現できるという恵み以上の人気や地位を与えられる時も、気を付けなさい。
弱いと、あなたはかなりの確率で魔境に誘われる。
(実際に、強いように見えて実際は弱く、見事この罠にはまる者が多い)
あなたは、神と身の丈に合った適度な富とに仕えることはできる。だが、神と生きるのに十分なもの以上の額の富や権力とに仕えることはできない」
ただし、ひとつ例外がある。
大本意識(神)は、この世界にあらゆる体験を残らずするためにやってきた。
ということは、分離した個々にあらゆる役割を託すので、中には大金を動かすことがそもそもの使命なキャラもいる。人類のトップの地位に立つ役割の者もいる。そういう場合は、身の丈に合ってないとか、多すぎる富だという批判は当たらない。
自分が起こしている現象のすごさや、引き寄せているチャンスや富のすごさをウリに注目を集めているタイプのスピリチュアル指導者は、難しいものに手を出してしまっていると言える。
だって、もし仮に現状から下がってしまったら、自業自得でそれはその人のパワーダウンと見られ、看板の価値が落ちるからだ。だから、常にその人気度合いとチャンスをつかみ続ける、という芸当を続けられねば維持できない。
今が絶頂の人は、自分が今より悪くなるとか想像すらできないだろう。こんなことを言うと、「あなたってそんな考え方しかできなくて可哀想」とか言ってこられるだろう。「自分を本当に信頼していれば、絶対に大丈夫」とか言うのだろう。
●あなたが、意識的な在り方として完全でも、物事というのはダメなときはダメになることがある。世の中は、「バタフライ効果」「縁起」というふたつのキーワードに支配された世界だからだ。
これは、皆に同意を求めたい内容ではない。
これが真実で、意識次第で何でもできる、という考えを愚かだと言いたいわけではない。ただ、人生のある時点で胸に手を当ててみて、あながち筆者の言うこともどこか本当なのではないか? と思えた人にだけ、同意していただいたらいい。
そうじゃないうちは、いくら議論しようが説得しようがムダだから。
これは真理や法則という類のものではなく、ただの考え方に過ぎないが、不自由なく暮らせるだけの富があれば、それ以上はよほどの器の人物でない限り、必ず重荷になる。
だから、子どもの学資金や老後の必要分を引いても数千万も億もあるような宗教指導者やスピリチュアル指導者は、どっかに寄付しちまいな。それか、どっかーんと大勢のためになる使い道に注ぎ込みな。
地震や大雨とかの被災地域への寄贈、とかがいいと思う。
イエスのもとに、「自分は完璧だと思うが、何が足りないか」と聞きにきた裕福な青年が、イエスに「全財産を貧しい人に施して、私に従え」と言われ、拒否して帰ってしまったという話があるが、かなりの資産をもつ宗教指導者はこの話を自分のこととして考えなさい。
我こそは世界の精神的指導者だ、とおっしゃるなら、自分が自己表現をできる環境にあり、自分も家族も不自由なく暮らせる以上のカネは全部、世界のために世の闇を照らすための活動に使うと宣言してみろ。
私が知らないだけで、そういう宣言をして活動なされている方がどこかにいるのかもしれない。いたら、その人は本物である。私は素直に、頭を下げるだろう。
ただ、知っている範囲では、聞いたことがない。
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