信頼のばったもん ~大切な人を愛するなんて、誰だってしてる~
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。
徴税人でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。
異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
マタイによる福音書 5章46~47節
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今回は、「信頼」というものについて考えてみたい。
この世界は、実に「信頼というものへの誤解」に満ちているからである。
多くの人は、まがいものの信頼を信頼だと思って、平気でいる。
辞書で引くと、信頼とは——
信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。
そう書いてある。このことに関して、異論はない。まさにその通り。
しかし、世間においてはその「信頼の仕方」が問題なのだ。
例えば、ある電気メーカのキャッチフレーズに、こうあるとする。
『技術と信頼の東芝』
慣れ過ぎて、気付かない人も多いが——
ここで信頼、という言葉が使われているが、その前提は何か?
「今までに、確かな実績が継続して示されている」
……と、そういうことである。
だから、信頼されているのである。
消費者は、その実績を根拠に、ああこのメーカーさんなら安心ね、となる。
つまり、信頼という行為が成り立つのに、一定の根拠が必要なのだ。
これが、激安ショップで売られているような、聞いたこともないメーカーのものだと、警戒する。
「これ、ホントに大丈夫なん? すぐ壊れるのんとちがう?」
そう、疑ってしまう。だって、そこには信頼に足る根拠がないから。
もちろん、今例に挙げたような心の動きが悪い、とは言わない。
実際、生活する上で(買い物する上で)普通はそうするだろうからである。
だから、「そんな発想をせざるを得ない世界」にしてしまったことが、問題。
そこを、これからの私たちの意識の在り方を変えることによって、変化を生み出していくのだ。
無条件に信頼できる世界に。
信頼、というのは築き上げるのがなかなか大変である。
今、電気メーカーの例を挙げたが、実に数十年の歳月がかかる。
その間、お客様を失望させないように不断の努力が要る。
でも、そうやって血のにじむような思いをして築いた信頼も——
たった一回の不祥事で、簡単に壊れてしまう。
何か、割に合わないよな。
築くのは難しく、築いたものが壊れるのは実に簡単。
これは、メーカーに限ったことでなく、人間関係においても同じこと。
信頼関係を築くのは簡単ではない。しかし、崩れるのはちょっとしたことでも起き、また一瞬で終わる。
私が、世間における信頼がまがいものだという理由を、整理しよう。
①信頼するには、それに足る根拠が必要、という前提。
②築くのが大変、という前提。
②たった一度の過ちで、どんなに築くのに歳月のかかった信頼でも簡単に壊れる、という前提。
みんな、こんなくだらないものを「信頼」と呼んでいるのだ。ちょっとしたことで簡単に崩れ去るのは、たとえ相手が悪い場合にせよくだらない。
日常深く考えてみないので、自覚しないので、そんなものを「信頼」だと思って甘んじている。
例えて言うと、ブランド品のばったもんで大喜びしているのと同じである。
ばったもんじゃなく、本物で喜ぼうよ。
では、これよりほんまもんの「信頼」について語ろう。
筆者推奨 『信頼の定義』
①信頼に、一定の根拠は要らない。
②築くのが楽。簡単。一定の根拠を必要としないから。
③相手の行動 (失敗、裏切り) によって左右されない。崩れない。
特に、③が重要である。
信頼ある会社が不祥事を犯して、バッシングにあう。倒産に追い込まれる。
そういうのを、「これまで信頼してきたのに」と言ってはならない。うそこけ。
要は、「オレらが信頼できるように、ちゃんとせえよ」と要求し続けてきただけ。
で、その無言のプレッシャーに耐えきれず、ボロが出た瞬間——
人々は待ってました、とばかりにその責任を追及する。
これじゃ、消費者じゃなくて暴君だ。
この世界では、買う側(お金を払って利用する側)の権利があまりにも強すぎ、本来のバランスを欠いている。一方売る側は下手に出すぎ、矢面に立つ人間は精神的苦痛に苛まれる。
もはやそこには、信頼というものの本来の美しさはない。
一度の過ちで消えるような信頼なら、もともと信頼などなかったのだ。
ただの、エゴとエゴとの牽制のし合い。それだけの話。
冒頭の、イエスの言った言葉を思い出してほしい。
……自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。
異邦人でさえ、同じことをしているではないか——。
これと同じことが、「信頼」という行為についても言えるのである。
確実な根拠があるものを信頼したところで、あなたがどんな優れたことをしたと言うのだ?
そんなもの、誰だってできるじゃないか。
悪人だって、信頼に足る部下は信頼するぞ。
築き上げるのは大変で、壊れるのは一瞬?
バカな。豊穣の世界における本物の「信頼」はそんなものではないぞ。
本物の信頼はな、根拠を必要としないんだ。
ただ必要なのは、ハートのシグナルを受け取る事だけ。
そして、「信頼したい!」 その思いだけあれば、簡単に成立する。
そして、一度信頼が築かれたら、相手にどのような現象的変化があっても、関係ない。本当の信頼は、外の現象に左右されない。
されるとしたら、そんなもの信頼ではない。
皆さん、いかがだろうか。
対比させれば、どちらが本物かは一目瞭然。
ニセモノの信頼は、築くのが大変。
ホンモノの信頼は、築くのが簡単。お互いのハートがオープンであれば。
ニセモノの信頼は、十分に安心できる根拠が要る。でないと信頼という行為に踏み切れない。
ホンモノの信頼は、根拠など要らない。宇宙のすべてを受け入れるのであるから。
ニセモノの信頼は、たった一度の過ちや失敗でも、簡単に壊れる。そもそも、もろいニセモノだったから。
ホンモノの信頼は、何が起ころうともその根幹は揺るがない。
信頼の中心軸が、幻想としてのこの世、というもろい場所にないから。
『贈る言葉』という歌の歌詞にもある。
信じられぬと嘆くよりも
人を信じて傷付くほうがいい
信じられぬと嘆く方が、大多数の皆さんの信頼の現状。
傷付くかもしれないけど、根拠が十分でなくても「信じたいから信じる」 。
それが、新時代における「信頼」 。
もちろん、詐欺と分かっていても無理して信じろとか、アヤシいメーカーの商品でも思い切って買え、という話ではない。懸命な読者諸君は、そんな揚げ足を取るような読み方はなさらないだろうと「信頼」している。(笑)
人を、命を信じるのであって、行為を信じるのではない。
ここを押さえておかないと、誤解してやみくもに信じだす人が出てくるので。
相手のやることなすこと、すべてにYESを言うことが信頼ではなく——
ダメなことはダメ。従いたくないことは従わない。
ただ、その人が命として、必ず素敵になっていく。今の状況もひとつの通過点で、気付きを経て必ず豊かになっていく。そういう認識をもちつつ、あとはフツーに対応するのだ。
だから、私も読者さんを、こちら側から信頼している。
記事を媒介として繋がる皆さんを、無条件に信頼している。
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