ありのままが完全 ~神のように完全になれ、の真意~
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書 5章48節
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これもイエスの言葉であるが、これまたずいぶんな内容である。
ちょっと見、あの思いやり深く「ゆるし」を体現したような、優しいイエスの言葉とは思えない。
文字通り受け取ると、うんざりしないだろうか。
キリスト教で天の父と言えば、天地宇宙を創造した偉大な「父なる神」である。宗教的概念の常識で言えば、神とはパーフェクト(完全)な存在である。欠けはない。
だったら、イエスは、こう言っていることになる。
神が完全な方だから、お前たちも同じように完全な者になれ——。
「ムリムリムリムリ、絶対ムリ!」
(T▽T;)
どう考えても、私たち人間は「完全」という概念とは程遠い。
逆立ちしても無理だ。
でも、マスター・イエスは私たちを苦しめるために言葉を使うことはないはず。
そのような信頼を基準に考えれば、この言葉に対して別の視点を発見できるはず。
では、イエスが人間に「神のように完全無欠になれ」という無理難題を言っているのでないなら、この言葉には、どういう真意が隠されているのか?
実は、読み手である私たちの側と、発信者であるイエスの認識がズレていたのだ。
『完全』という言葉の意味解釈において。
まずは、私たちの側が勝手に抱いている「完全」という言葉の意味は、これ。
●欠けたところや足りないところがまったくないこと。
欠点がない。どこから見てもパーフェクト。
どんなにあらを探しても、一点の曇りもない。
そんな意味で読むから、イエスから「完全になれ」と言われたらヘコむ。
そんなぁ! だって何だか、だってだってなんだもん! (?)
ムリだ。あり得ない。そんな感想しか出てこないであろう。
でも、日本語の聖書で「完全」と訳されている当時の言葉は、今とは別のニュアンスを持っていた可能性がある。つまり、イエスが実際にこの言葉を言った時の、その時代の受け手の頭の中にある辞書と、現代人の辞書との間に違いがあるのだ。
「完全」 という言葉を辞書で引いた時に、二千年前と現代では書かれてある情報が違うのだ。
では、イエスが認識していた「完全」とは何か。
●ありのままであること。
余計な手が加わっていない、自然そのままの状態であること。
人口の力や無駄な圧力により本来の形が変形されておらず——
原型をとどめていること。
語源としては、「原石」にある。
石は、川の水に流され洗われ、かどが取れてしまったら皆似たり寄ったりの丸い石である。
ダイヤモンドをはじめとする宝石も、磨かれれば美しい輝きを持つ石になる。でも、完成された宝石は、大きさや磨き方による形の違いくらいで、そう個性はない。
人工的に手を加えられたものは見た目にきれいでも、その石本来の在り方(個性的な形)は失われてしまっている。没個性化するのである。
だから、イエス当時における「完全」という言葉の本当のニュアンスは、「失敗しない、何も間違いや欠点もない」ということでなく、「余計な手を加えないありのままそのまま」ということだったわけだ。
イエスは、完全無欠な欠けのないパーフェクト人間になりなさい、と言ったのではない。イエスはむしろ、そんな機械のような人間などになってほしくはなかっただろう。先ほどの解釈で行くと、イエスは本当はこう言ったことになる。
「あなたは、あなたらしくいなさい。
他の何かにならなくてよろしい。
それであなたらしさ、という宝が失われてしまうくらいなら——
研磨してこようとしてくる世の中の外力に、屈するなかれ」
例えば、今の世の中。
学歴社会である。学歴社会とはいえ、一昔前とはちょっと変わってきて「実力主義、成果主義」というものが多分に入り込んできている。
この世界がもつ、人の価値を測るためのものさしは全然正確ではない。
そんな正確ではないと分かり切っているものに、無感覚に人は従っている。
抗うのが面倒だし、疲れるからね。
そんなことして浮くよりは、大きな流れに乗ったほうが楽だし得だからね。
この世界は、例えると「誤った向きに流れている、流れるプール」と言える。
流れに逆らわず身を任せれば、楽は楽だ。
でも、行きつく先に関しては、覚悟しなさいよ、ということ。
確かに、常識を身に付け、世の中の流儀や他人の思惑に自分を合わせて行けば、上手にこの世を渡っていけるかもしれない。しかしそれは、水流に洗われた丸石と同じである。どれを見ても皆同じような感じ。
もちろん、この世界に生きていて、まったく水流に洗われない、ということは不可能だ。大なり小なり、世という幻想から学び吸収したことを受け入れざるを得ない。
でも、そこで知恵が必要だ。
例え、水流に洗われかどが取れるのは避けられないとしても——
それを最小限にとどめられるよう、注意深くあれ。
「自分らしさ」を表現できる最低限の形は、死守して残すのがいい。
ウルトラマン、を例にとって考えてみよう。
ウルトラ兄弟はたくさんおり、それぞれ姿形はビミョーに違う。
しかし。彼らが一目見て 「ウルトラマンだ!」というふうに見えるためには、ある共通項があるのだ。
例えば、基本シルバー地の肌に、赤の模様。
(赤とシルバーの比率逆転タイプもいる。セブンやタロウ、レオなど。最近は青とか黒とかも使われるようである)
丸形の目か、メガネタイプの目。
胸のカラータイマー。
これらの約束事を離れてしまうと、もはやウルトラマンに見えなくなる。
たとえば、「ミラーマン」「ファイヤーマン」「スペクトルマン」「サンダーマスク」など。(古い作品ばかりで申し訳ない)
こうなるともうウルトラマンには見えない。
確かに巨大ヒーローなんだが、ウルトラマンに見える、という最低限の約束事を破っているからである。そこまで変形させちゃったら、ダメである。
なので、この世ゲームで自分らしさを保ちつつしかも楽しく生きるには——
世に合わせるために行う研磨や矯正に関しては、最低限を維持すること。
そして、自分らしさを表現できる領域を越えて、自分を何かに合わせようとしないこと。その一線は越えない、と決めること。
ウルトラマンとしてのデザインの約束事を破ったら、ウルトラマンに見てもらえないように、あなたが必要以上に世の基準や要求に迎合しようとしたら、それは「あなた」ではなくなる。
単なる操り人形であり、世の望むものをひたすら生み出す生産マシーン。
だから、あなたがあなたであるために、「越えてはならない一線」は死守せよ。
その戦いは、決して容易ではない。しかし、その戦いから逃げて楽をした結果の方が、あとあとより辛いことになる。
ここまで考えると、イエスのある言葉がしっくりくる。
※あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
マタイによる福音書 5章13節
イエスのメッセージは、完全無欠になれ、という酷なメッセージではなく——
あなたがあなたらしくあるために、生きて世に適応するためとはいえ、自分らしさを失うほどにやらないように気を付けてね、という気配りだったのである。
だが一方で、こういう言い方も世には存在する。
「磨かなければ、だたの石 (原石) 。
何の価値も生まれない。
しかし、研磨してきれいな宝石になった時——
初めて、大いなる価値を生み出す」
だから、何の努力もしないそのままはダメよ。
磨いてこそ、世に通用するものにしてこそ、はじめて宝になるのよ。
これはずいぶん、原石が大事だという今日のお話とベクトルが違う。
でも、いいのだ。
人は、矛盾していると感じるかもしれない。
でも、どっちも本当なのだ。
この世界には、無数の個性をもった人間がいて、無数の異なる状況に置かれている。たったひとつの切り口では、全員にぴったりなメッセージなど不可能。
一見矛盾するが、色々な表現のバリエーションや言い方があってこそ、その人が今陥っている独特の「偏り」 に対応できる。正解は、ひとつではないのだ。
あなたに、どちらの言葉が必要なのか?
それは、あなた自身が一番よく知っている。
自分が励まされ、力が湧く方が、今のあなたに合ったメッセージである。
どちらであっても、そこに正誤や善悪はない。
生きる、という行為のゆえにかどをすり減らされることはあっても、あなたが、あなたである形が確認できますように。
そうできたなら、それがあなたにとっても私にとっても、宇宙にとっても、一番の喜びです。
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