主の祈り ~悪よなくなれ、ではなく悪より救い出してと祈らせたイエス~


~主の祈り~


 天にまします我らの父よ。

 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。

 御国(みくに)を来たらせたまえ。 

 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。

 我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

 我らを試(こころ)みに会わせず、悪より救いいだしたまえ。

 国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。

 アーメン。



 マタイによる福音書 6章9節~13節に相当



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 これは、クリスチャンなら暗記していて当たり前なほど、有名な祈りである。

 聖書の中で、イエスが「このように祈りなさい」と勧めている内容である。

 仏教の信心をもつ者が「南無阿弥陀仏」と唱えるように、クリスチャンにとっては人生で数え切れないほど口にするものである。私も、以前はそうだった。

 もう、口癖だったと言ってもいい。



 今日は、この祈りの全部を解説はしない。

 そんなことしたら、もっと記事量は膨大になる。

 今回取り上げるのは、ピンポイントで以下の一行である。



●我らを試(こころ)みに会わせず、悪より救いいだしたまえ。



 この祈りは、ちょっと不思議ではありませんか?

 この祈り全体は、「~になりますように」というニュアンスの言葉の羅列で成り立っており、平たく言えば「願望実現」を目指すものである。

 願望実現といっても、「金欲しい」とか「車欲しい」という自我の欲に関わることではなく、あくまでも神や世界のためになる内容であったり、個人に関する願望でも「日ごとの糧」や、心の在り方における願望だけで、実につつましく清い。


 

 お願いというのは、するのはタダである。

 10円のあめちゃんが欲しいと祈っても、1億円欲しいと祈っても、かかる労力は同じで、しかもどちらもタダである。じゃあ、どっちにします?

 世間が好きな「思考(意識)が現実化する」という流儀から言えば、同じ思考するならちょっとよくなるより、だいぶよくなることを考えるほうがいいに決まっている。同じ、神様が聞き入れて実現してくれる可能性があるなら、デカい内容な方が当然お得だ。

 ましてやイエスは、一番「そのシステム」に関して熟知している人物のはずだ。

 だったら、なぜ?

 なぜ、「我らを試(こころ)みに会わせず、悪より救いいだしたまえ」と祈るよう勧めた?

 これは、願望実現の割には消極的だ。



(この世界から)試み(試練)がなくなりますように。

 悪が滅び、無くなりますように。



 これが実現する方が、より根本的ではないか?

 なのにイエスは、「試みに会わせないでくれ」と祈らせている。

 裏返せば、「試みはこの世界につきもので、なくなるものではない」ということを認めている。

 そして、「悪が滅びますように」ではなく、「悪より救ってください」である。

 これも、イエスは「この世界から、悪と呼ばれる何かがなくなることはない」という前提をもっていることになる。あるのはもうしょうがないので、あとはあなたがうまくそういうのにぶち当たらないとラッキーだね、というようなことだ。

 


 もちろん、この祈りの最初にある 「御国(天国)が実現する・天の御心が地に成就する」までの期間限定的祈りである、との読み方もできる。天国ができたら、キリスト教の言い分では悪は滅びるので、救い出すもなにも悪が無くなるんだし、試みもなくなるだろう。

 にしてもだ。だからって今、おとなしく悪がなくならないことを前提に祈りますか? 今現在手に入らないから、という現実に実に聞き訳よく従って、高望みをしない? なんか、イエスらしくない、と思いません?

 高望みをしないのなら、祈りや願望の意味ってあるの?



「世界から戦争がなくなりますように」「大統領になりたい」「宇宙飛行士になりたい」——。

 これらの、子どもが口にすれば微笑ましい祈りも、まったくもって愚かだという話になる。だって、現実性のかけらもないのだから!

 でも、願望実現の王道からすれば、「無理だ」「現実的でない」という思いの方こそ、余計なのでは? 純粋に信じて、もう実現したかのごとく思えばいいのでは?



 イエスほどの「奇跡の達人」が、なぜ「試みをなくす・悪をなくす」というような根本的解決になる命題を祈らせなかったのか? なぜ、大変な目に遭いませんように、悪いやつにひっかかりませんように、とあくまでも「回避」という消極的な願いにしたのか?

 実はもう、その答えは先ほど触れた。



『ムダだと分かっていたから。

 人間にとっての空気や水と一緒で、この世界に「在る」宿命になっているから。

 何をしたって、なくならないから。

 それがあるからこそ、この世界で「生きる」という意味があるから。

 でなければ、そもそもこんな世界作らなくってよかったのだ』



 遊びたかった。ただの「ひとつ(ワンネス。大いなるひとつ。究極の存在原因)」が、個別性および多様性・そしてその個別視点の無限の可能性を見たかった。

 絶対性が、相対性を夢見たのだ。そして、このような世界ができた。


 ※この宇宙を直接創造したのは究極存在ではなく、もっと下位の霊的存在である。究極原因が社長だとしたら、宇宙創造を行ったのは係長レベル、だというたとえで考えてもらうとちょうどよい。


「相対性」とは、分かりやすい例で言えば「光と影」である。

 まったく正反対であるのに、実は双方がないと成立しない。熱さがあるから「冷たい」と思えるのであり。冷たさがないと「熱い」と判断もできない。

 言い換えればこの世界は「陰陽」という言葉で表現でき、すべての存在が相反する極と極の間を色々にさまようことで、様々な形、性質を表現している。



 ちなみに、「悪」というのは存在しない。

 それは人が、自分たち人間が構築したこの世ゲームのルールに照らし合わせて「ルールに違反している」と認識した事柄に引っ付ける解釈であり、立場の違う人になればそれが悪ではなくなることがあり、かえって「善」となることもある。

 意地悪な言い方をすると、悪とはその悪と呼びたい何かに関わってしまった「当事者に近い人間」だけが強く感じるものであり、ちょっと関係が離れた人間になると「ふ~ん、そりゃいけないよねぇ」くらいの感想しか持ってくれない。誰もが同じレベルで認識できないのが悪であり、これは定義が不可能である。



「悪や辛いこと、苦しいことはなくならない」と聞くと、何だか嫌な、損した気分になるかもしれない。しかし、そんなもの実体はないものなのだ。逆に言えば、実体はなくただのあなたの解釈なのだから、気付きにともなう視点の変化により容易に「その実体のないお化けを消す」こともできる、ということである。

 それが、この世というゲームである。

 だから、追い詰められて無差別殺人をする人間に偶然出会ってしまって殺されたくないなら、「どうか悪から私をお救いください」ではなく、「どうか特殊な事情を背負った人から私をお救いください」が適切な祈り(?)である。



 マリオが、ゲーム開始時に「クリボーに引っかかりませんように。穴に落ちませんように。ピーチ姫を救いだせますように」と祈りつつ走り出すようなものだ。

 ゲームだから、クリボーもカメもクッパもなくては困る。面白くない。

 障害がなければゲーム(人生)ではない。だから、我々としては少々消極的でも「悪いことに巻き込まれませんように」でいいのだ。

 そして、今日一日幸せだったら感謝。明日以降は、まったくもって分からない。

 そういうこと(悪・きつい試練)が一切なくなりますように、なんてのは公共的精神性としては立派だが、地に足のついていない甘ちゃん宗教になる。 

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