出過ぎた言葉 ~然りか否かでよい~


 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。

 それ以上に出ることは、悪から来るのである。



【マタイによる福音書 5章37節・口語訳】



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 上記の聖句は、以前の記事で一度取り上げたことがあるが、重要なメッセージがあるのでもう一度扱いたい。



 古いニュースになるが、こういう事件があった。

『遺棄、家族に手伝ってもらった・長野19歳殺害事件』

 長野市のスポーツインストラクター寺沢龍太郎さん(当時19)が殺害され、当時17歳だった男2人が殺人容疑で逮捕された事件で、2人のうち1人が「家族に手伝ってもらい、寺沢さんの遺体を新幹線高架下に埋めた」と供述していることが捜査関係者への取材でわかった……という内容。



 私は新聞ではなく、ネット上のニュースサイトでこれを読んだ。

 そこには、読者がコメントできる機能が付いていて、こんな感じの意見が投稿されていた。



「犯人を説得して警察に出頭させるのが普通の家族だろ!」

「まともな家族は遺体を遺棄することを手伝ったりはしない。頭が腐ってる!」

「手伝った家族の心境が理解出来ない。家族の財産没収の上、死刑確定。」



 こんな、低レベルなコメントの羅列。

 こういうコメントを残す人たちは、犯人とその手伝いをした家族を人でなし・理解できないとこきおろし、自分は彼らとは違う「まともな」エリアに住まう常識人・普通人だと自負しているのだろう。裏返せば、「自分はこんなやつらとは違う」という優越感を持っているのだろう。



 いや、むしろ心配なのはこういうコメントをする人の頭だよ。



 ペテロという、イエス・キリストの第一弟子だった人物がいた。

 彼は、師から 「私はそのうち十字架にかかって死ぬことになる」と言われた時、そんなことがあるはずがない、と言った後に、こういう言葉を付け加えた。

「私はたとえ、先生と一緒に死ななければならなくなったとしても、先生のおそばを離れません!」

 他の弟子たちも「そうだそうだ」と言ったらしい。本当に、愚かなことである。

 で、実際にイエスが逮捕されると、弟子は皆逃げて散り散りになった。

 ペテロなどは、「お前、あのイエスの弟子とちゃうん?」と見とがめられて、「いいや、あんな人知らないっす。見たことない他人っす」と、三度もウソをついた。



 思うに、このコメントをした人たちは、当然だが 「我が子に殺人を告白され、死体遺棄を手伝ってくれと実際にお願いされたことのない人たち」であるはずだ。「経験あります」 って言われたら、逆にビックリである。

 この件で、犯人の家族をボロカス言う資格があるのは、実際にそういうシチュエーションに直面しても、手を貸さないで自首するようにすすめることができた実績のある人である。

 いるか? おらへんやろ。

 あとは、この犯人に殺された人物の遺族や関係者だけにしか、その資格はない。



●だから、誰にもその犯人の家族を人間のクズのように言う資格はない。



 実際に、その場面になってみないと分からないってことが、この世界には多い。

 それをわきまえている人こそが、本当の意味で「謙虚な人」である。

 だから、さっきのコメントの主たちは、謙虚のけの字も分かっていない。

 もちろん、犯人や犯人の家族がしたことがまったく問題がない、という話ではない。殺人は殺人である。そして死体遺棄幇助も、れっきとした「悪いこと」である。

 そこは、法に従って適正な裁きを受けるべきである。

 ただ、私が一言申し上げたいのは……



『深い事情なんて、その場面を体験した当事者にしか分からないんだから。

 事情を知り得ない第三者は、法に従ってするべきことを粛々とすればよいのだ。

 悪いことに対しては、それなりに決まった対処を適正にしていけばいいのであって、それ以上に「犯人やその関係者の人間性」に言及し、ボロクソにこき下ろすのは『出過ぎた行為』であるということ』



 ちなみに、筆者の父なども、子どもを誘拐したとか殺人犯のニュースを見た時の口癖は「こんなやつ死刑や!」である。みんな分かっていない。自分の真の人間性が暴かれるような、裸にされるような試練にまだ遭ってないから、その時を迎えしてしまった人たちのことを悪く言えるのだ。

 あなたも、実際にそのような場面に遭遇したら、分からないよ。

 中島みゆきの歌ではないが、「君のためなら、僕は悪にでもなる」ということもある。もちろん、そんなもの最終的には相手のためにはなってないが、その状態にある人に分かれと言うのも酷。

 愛情が深すぎて、かえってこういうことになってしまう場合もあるのではないか。

 もちろん方向性は歪んでいるが、これも家族が必死に家族であろうともがいた戦いだったのだ。



 だから、殺人罪、殺人幇助罪でいい。それで粛々と法的措置を行っていけばいい。

 それ以上に、犯人につばをかけるような行為は、慎むべきである。

 もちろん、社会問題として「この事件を終えてみて、今後我々にできることは何か」を前向きに考えるのはよいことだ。だが、犯罪者をつるし上げ、その非人間性の悪口を言いまくるのはおかしい。逆に、そっちの人間性を疑う。

 身内を犯人に殺された遺族が言うならまだしも、完全に対岸の火事であり野次馬である無関係者の出る幕ではない。

 見苦しいから、出しゃばるな。



 今日取り上げた聖句で、イエスは現代人にこう問いかけている。

 


「あなたが実際に見たり、その場にいて体験したことでないなら、そういうすべてのことに関しては「はい」か「いいえ」だけでコメントしなさい。

 それ以上に、体験もしてない他人の立場に関して、あなたの解釈からの勝手な感想や価値判断を差し挟むのはやめなさい。とりわけ、相手の人格的尊厳を著しく損する恐れのある内容なら、口をつぐみなさい。

 もしかしたら、あなたはそういう状況に置かれたことがないから、今のコメントが平気でできるだけで、本当にあなたがその立場になれば、何を選択するかは誰にも分からないからである。

 だから、自分に絶対の確信がないこと(かつ実績のあること以外)は、軽々しく評価しないがよい」

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