嫌われ者になれ ~あなたは地の塩~


 あなたがたは地の塩である。

 だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

 あなたがたは世の光である。(以下略)



 マタイによる福音書 5章13節



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 有名な聖書の言葉である。

 これには、「あなたがたは地の塩」である、という言葉のあとに「あなたがたは世の光である」という文章が続く。つまり、同じことを異なる表現で二つ言った、ということ。

 あなたがたは地の塩であり、また世の光。そう読んでいただいてかまわない。

 ここでまず、頭に入れておいてほしい前提。


 

 地の塩=世の光=良いもの



 キリストは明らかに、地の塩と世の光を「良いもの」としてものを言っている。

 そして皆に、「地の塩、世の光であれ」と呼びかけているのだ。

 では、一番重要な考察に入る。

 地の塩、とは一体何か。何かの例えだとするなら (実際に私たちの肉体は塩の固まりではない)、何の比喩か?



 普通に予備知識なく読めば——

『味のある人間になれ』とかいう風に、この文章を理解するかもしれない。

 塩は、料理の味付けに必要不可欠だ。これがないと、料理は味気ないものになる。

 光もまた必要だ。人生に、また、様々にままならぬことが起き、ともすれば暗い気持ちになりがちなこの世界に、心の闇を照らす光は必要だ。

 キリストは私たちに、世を良くしまた意義あるものにする人であれ、と励ましている。人生を味付けする塩、世を照らす希望の光であれ、と願っていると読める。

 今のは、予備知識なく読んだ場合を想定して言っており、信仰的観点やあれやこれや余計な情報が入っているクリスチャンはまた違う読み方をするだろう。それまで書くと蛇足になるので、今回は放っておく。

 では、今から筆者流解釈に入る。

 とは言うものの、実は一部の聖書学者も提唱している読み方である。



 ここは、日本だ。

 平和で豊かな日本で読むから、分からんのだ。

 新約聖書は、二千年も昔に、雨季と乾季のある砂漠や荒野がゴロゴロしている風土の中で書かれた。農業をする上では、温帯湿潤気候の日本よりも条件が厳しくなる。

 日本にいるから、「きっと晴れる~明日も晴れる~♪」 などという歌ができる。

 雨よりも、晴れを望むような。雨のちハレルヤ、なんて歌もできるくらいだ。

 そんなホンワカしたことを考えられるのは、雨に恵まれた日本だからだ。



 中東の嫌われ者の代表格を挙げれば、塩と光である。

 あちらは、土地に塩分を含む場合が多い。

「死海」なんてものが存在する土地柄だからね。

 土地に塩分があれば、作物ができにくい。

 ゆえに、農業に適する土地を、日本以上に必死に探す必要がある。土地を掘って塩の結晶でも出てこようものなら、「畜生またかい!」と顔をしかめる。

 あと、雨が少ない。ということは、雨雲を待ち望む。イコール晴れはハズレ。

 イコール、光にはもうウンザリ。

「あーあ、また雨はナシかよ!」

 晴れた空を見上げていい気分、などというわけにはいかない。



 ここで、第二の前提。



 地の塩=光=嫌われ者



 これと、第一の前提『地の塩=世の光=良いもの』という前提と合体させてみよう。



 地の塩=世の光=嫌われ者=良いもの



 驚くべき結果が出てくる。

 キリストは、私たちに「嫌われ者になれ」と言っているのだ。

 そしてどうも、それは「良いこと」であるらしい。

 でもここは、読み方に気を付けたい。

 単純に嫌われ者になれ、という風に受け取るのは賢くない。



「嫌われてでも、好きなことをしろ。

 人生の主人公としての、自分の判断や選択を大事にしろ」



 いつ何時でも嫌われるように振る舞え、ということではない。

 そりゃ、平時は皆と仲良くしたほうが、和をもって尊しとしたほうがいいに決まっている。

 ただ、周囲に合わせることで自分のしたいこと、望む選択肢を選べないという事態になった時には、例え嫌われてでもあなたの気持ちは優先すべきだ、ということを言いたいのだ。

 恐れず、自らの思いに正直すぎ、最後には反感を買って十字架にかかったキリストらしい言葉だ。

 当時と比べありがたいことに、今は言論の自由があり、多少わがままに生きても殺されるまでのことはない。嫌味を言われたり、多少の不自由をこうむる程度で済む。

 昔だったら、支配的だった宗教的考え方に反することを言おうものなら、皇帝や領主の悪口でも言おうものなら、命自体が危なかった。

 もちろん、命あってなんぼ、という考え方は決して間違いではない。

 でも、人生の選択の主人しての両翼をもがれて、そんな人生のどこが面白いのか? 翼の折れたエンジェル、は嫌だ。



 皆、キリストの言うこととやってることが逆なのだ。

 嫌われないために、自分の思いを隠す。信念を曲げる。

 でも、キリストはそうまでして守る価値が「嫌われないこと」というものにはないと言う。

 あなたが、世界で一番大事なものを犠牲にしてまで大して価値のないものを守ろうとしているのを見て、イエスは警告を与えている。よくよく、自分のやっていることの本質に気が付きなさいよ、という。



 筆者も、人間だ。

 嫌われるよりは、好かれるほうがいいに決まっている。

 でも、それゆえに言いたいことが言えなくなるとしたら、私は迷わず 「嫌われないこと」の優先順位を下げる。そして、言いたいことを言い、したいことをする。

 私は、今回のキリストの言葉には大賛成である。ルパン賛成!である。

 このシュミレーションゲームのごとき世界において味のある、世界を面白くする 「嫌われ者」 でありたい。



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