●マタイによる福音書の言葉

イエスがたとえを用いて話す理由

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。


 マタイによる福音書/ 13章 34節



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 イエス・キリストは何でもたとえ話で話した。

 聖書の中にも、実にたとえ話が多い。

 それはなぜかというと——



 何でも言葉で表現するということは、この無限の可能性をもつ世界に対して、そのどこか一面を限定的に切り取る、という結果になる。

 ゆえに、その言葉が今まさに必要なある種の人には、ものすごくヒットする。心を動かされ、大いに助けになる。

 でも、別の境遇にいる人、別の価値観をもつ人にとっては、しっくりととらえられない。それどころか、全然発話者の思いとはちぐはぐな理解に至ることもある。

 でも、イエス的にはそれだって尊重したいのだ。だって、自分の言葉を誤解する人も、イエスにとっては大切な一人だったから。

 極端な話、それも「誤解と言う名の理解の仕方のひとつ」なのだから。



 イエスは、自分の特異な能力を自覚していたので、その世界で自分が有名になり、ある程度の影響力をもってしまうことを予想していた。

 そんな中、もし自分が何かを断定的に言えば、そのイエスの「権威ある、正しい言葉」に、自分の素直な思いや心の声を黙らせてでも、従おうとする人々が出てくるだろうと予測した。イエスを尊敬するからこそなのだろうが、それはイエスの望むところではなかった。

 よって、たとえ話をすることによって、解釈に「遊び」の部分を持たせた。

 車や自転車のブレーキで言う、あの「遊び」である。

 ハッキリ言わないことで、そこに個々人の解釈の自由度を設けた。

 それは、イエスなりの優しい配慮であった。



 ……かと思えば、イエスが結構ズケズケと、はっきりした物言いをしていることもある。そこのところは、どう考えたらいいか?



 この世界で生きていくには、何でもオブラートに包んだような言い方ではダメだ。

「これ要る?」って聞かれて——

「そうだなぁ……要るような要らないような……かと言って要らないとも言えないような?」

「要るのんか要らんのんか、はっきりせい!」

 やはり、社会生活が成り立つためには(それ以前に日常会話が成り立つためには)、自分の立場(意見)というものをハッキリさせないといけない場面も多々ある。そういう場面では、イエスは遠慮なくモノを言った。

 これは白い、これは黒いといった風に。



 でも、気を遣って重要なことはたとえで言うほどの配慮深いイエスだ。

 ズケズケ断定的にモノを言う時に、ただ言いっぱなしであるということはない。

 イエスが断定的な物言いをする時、その言葉の裏には「聞く者に対する信頼」があるのだ。

 彼がたくさんの人と関係していく上では、ケースバイケースではっきりものを伝える必要もある。もちろん、あえて無限なる宇宙を言葉という限界のある表現手法で切り取るからには、誤解される恐れのあることは覚悟しなければならない。

 自分の断定的な言葉が、独り歩きして世界に誤解を与える結果になりかねない。そういう心配もあっただろう。

 でも、イエスとしては聴衆(人々)を信頼していたのだ。



「私が、皆が誤解しはしないか? と心配しすぎることは、それは根本的なところで皆を信頼していない、ということの裏返しだ。

 私は私として、自分の捉えている世界を好きに表明してかまわないはずだ。

 だって、それがこの人生という名のゲームなのだから。割り振られた「自分」という演劇上の役を、この地球という舞台の上で、思いっきり表現することが大事なのだから。

 大丈夫。皆、私の言葉を四角四面に受け取るのではなく、あくまでも自分を主人公として、私の言葉をその人なりの解釈で生かしてくれるはず——」



 さて。イエスの死後、二千年ほどがたった。

 今、私たちはイエスの信頼に答えているだろうか?

 イエスの思いとは逆に、キリスト教などという権威を作ってしまい——

 宇宙のある切り取られた一側面でしかない「教義」という名の固定された理解に、人々を従わせようとしてきた。

 そして、イエスがなまじカリスマ的なキャラクターだったせいで、それを信じる人がめちゃくちゃ多かった。この偉大な聖者の幻影は、世界を席巻した。

 そしてそれは時として、悲劇を生んだ。

(宗教戦争・十字軍・政治権力の裏付けとして利用される・漸進的な考え方などへの異端視など)



 どちらかというと、残されたイエスの言葉にしがみついてきた私たち。

 それらを、神の御言葉(みことば)として、金科玉条にしてきた。

 イエス、という一人の人間に過ぎない人物が表明した、生き方や考え方・世界観を、信者たちは自分より偉い位置に据え、借り物の人生を歩んできた。

 クリスチャンたちは、自分が人生の主人公というよりも、イエスのほうが、父なる神や聖霊のほうがその人の人生の主人公になっちゃっている。

 信者にしたら、自分なんて罪びとに過ぎない。つまりは、自分の意思や考えなんて頼るに値しない。だから、常に神の言葉(聖書)を持ち歩き、一方的に心の拠り所にするのだ。ま、その方が実はラクなんであるが。

 少しでも聖書を読まない日なんてできたら、その分自分がブレたり、信仰がズレたりしたんではないか? 汚れたんではないか? などとヘンな心配をする。

 自分の言葉を持ち歩かれるなんて、実はイエスが一番嫌うことだったのだ。まさか彼は、自分の言ったことが何千年後もあとの世界で読まれていて、無条件に崇められているなど夢にも思わなかっただろう。

 もちろん、聖書が読み物として楽しいから、というのはいい。しかし、聖書の方が自分よりも絶対に正しくて、ダメな自分を軌道修正するために持ち歩く、というのはイエスの望むこところではない。



 イエスやブッダを、「覚者(悟りを得た人)」と考えたとして。

 覚者の言葉に、あまり惑わされないほうがいい。

 覚者に対する誤ったイメージが、「彼らが完璧なことを言う」と錯覚させる。

 人によっては、覚者が「矛盾したことは言わない」なんて吹き出しそうなことを思っている人もいる。

 覚者のしゃべる言葉を一列に並べたら、無茶苦茶な話になる。

 なぜなら、今回述べた正反対とも言える二つのスタンスを、かわるがわる使い分けているのが覚者だからだ。整理してみよう。



①この世界では、ものの捉え方や解釈が自由であるために、ある程度断定的にものを言わないように気を付ける。


②しかし、必要があれば、恐れず自分の立場や自分の意見をはっきり表明する。



 イエスがたとえ話を多用したのは、①のスタンスに相当する。

 普段のイエスの講演会(トークライブ?)では、おおよそこれだった。

 でも、個人的に相談を受けたり(個人セッション? それともカウンセリング?)、弟子と一対一で向き合う必要などが出来た時に、あ~う~それはその~ひとつの~いわゆる~まぁどっちでもいいかな、ではお話にならない。

 もしもそんなカウンセラーがいたら、誰もお願いに来ないだろう。

 そこは、ガツンとハッキリ言う。自らの魂の言葉を。大勢が該当するような、大枠でのお話などではなく、まさに目の前の存在のための言葉を。

 だから、誤解を受ける可能性もあることを覚悟の上で、覚者は言葉を紡ぐ。

 


 例え悟りを得ても、肉体をもって生きている以上、「自分」という割り振られた演劇上の役は消えているわけではない。だから、その役割を続投する。覚者であっても、世界のすべてがあるがままにあり究極どうでもよくても、やはり自分を表現できるということは楽しいのだ。

 そこに使命感や大義名分もない。

 ただやりたいから。楽しいから。

 イエスが活動した理由は、そこにしかない。



 私たちはどうか。キリスト教の信者たちはどうか。

 イエスは、まさに自分自身を生きた。自分を主人公として生き、やりたいようにやり言いたいように言った。その結果彼は若くして亡くなったが、それでもそう生きれたのだから本望だったのではないか。

 聖書の教え(教会にとって都合のいい)の奴隷になるのではなく、自分が全力で生きて、その中で自分なりに内側で作った「信念」に従えばよい。完全ではないと言うのなら、常時学ぶ姿勢をもってバージョンアップし続けたらいいだけの話だ。

 イエスが望むのは、信者たちが死ぬ瞬間まで聖書を絶対として頼って生きるのではなく、いつかその人の内面そのものが「聖書」となって、そこを頼りに精神的に『自立』して生きることを願っているのだ。



 学校とは、いつまでも通うところではない。人生に必要ではあるが、学び終えていつか卒業するためにある。

 それと同じで、聖書はいつかそれを卒業して読まなくなるためにあるのだ。 

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