02 テトラポッド

「たまには、ここ以外にも行ってみない?」

 開口一番そう言った柊に、半袖のTシャツを着た花は分かりやすく眉を潜めた。ここ数日、ずっと晴れている。雲一つない空には月がぽっかりと浮かんでいて、流れ星が時折落ちていった。

「帰るあたしを送りもしないくせに」

「……別にここから動けないわけじゃない。送ることはできないけど」

「薄情もの。そうでなくたって補導されるから行くわけない」

「……じゃあ、あそこのテトラポッドまで歩こう」

 そう言えば、花は大袈裟にため息をいたあとに渋々といった様子で頷いた。砂を蹴るスニーカーはもうボロボロで、靴紐もろくに結ばれていない。一瞬立ち止まった柊にも頓着せず、花は唇を尖らせてさっさと歩き出してしまった。

 鞄ひとつもたない彼女の髪を、服を、潮風が揺らす。その光景に目を細め、一瞬後に早歩きして花の隣に追い付けば、彼女は泣きそうな顔をした。潮の満ち引きで湿った砂浜に彼女の足跡がくっきりと残る。すり切れた靴底の模様が微かに浮かんでいた。それすらもいずれ波に攫われ、なかったことになるのだろうか。

 テトラポッドが連なる景色は、柊には懐かしいものだった。入院ばかり繰り返して、高校に入るころには数か月に一度しか外出が認められない生活だった。体育祭や文化祭と呼ばれる青春も、友情も恋も、味わうことはない。そもそも、昔から体が弱く鬼ごっこやドッチボールなどをしているクラスメイトに混ざり外で遊べなかったせいで、柊の友達など片手で数えられる程度しかいない。それも、中学に上がって入院がちになってしまえば、花を除いて疎遠になっていた。そしてその花も、今ではほとんど縁がなくなってしまっていたわけだ。

 小学生の頃は手を繋いで、この浜辺を歩いたものだった。横にひとり分空いた距離は、柊から埋めることはできない。僅かにこっちを向いた花に微笑みかければ、彼女はそのまま勢いよく前を向いてしまった。

 久々に会ったからと言って、距離感が元に戻るわけでもないらしい。ふと俯けば、ずっと前に買ってもらったはずなのに、入院ばかり繰り返しているせいでほとんど履くことはなかったくすんだ黄緑色のスニーカーが目を刺した。彼女のぼろぼろの靴と自分の新品に近い靴を見比べて、柊は少し胸が痛くなった。

 テトラポッドまでたどり着けば、彼女はひょいと軽々自分の体を持ち上げてその上に乗った。不安定な足場であるはずなのに、慣れた様子でその上を歩く彼女の姿は、月を背にしていてどこか眩しかった。深い蒼に染まる空模様の奥で星が散っている。

 テトラポッドに体重を預けるようにして花を眺める。花は、しばらく無言でテトラポッドを渡り歩いていたけれど、じきに小さな声で言った。

「……アンタも来なさいよ。どうせ、もう・・、来れるんでしょ」

「ああ、……うん、今行く」

 言われて、柊も軽い足取りでテトラポッドに乗り上げた。

 随分と外に出ていなかったせいか、いまの自分が何ができるかさえ忘れてしまっていたようだ。そもそも、昔の自分では、高さのあるテトラポッドに乗ろうなんて体力の必要なことをしようとは思わなかっただろうけれど。

 花はそんな柊の様子に、貫いていた顰め面を少し緩めた。

「わ、とと……」

「……危なっかしいんだから」

「ごめん。こういうの、慣れてなくて」

 まったく、と言って、ふたつ向こうのテトラポッドで花がカスかに呆れたような顔をした。それに微笑み返せば、はっとした様子で彼女の表情は翳る。立っているのは慣れないからとテトラポッドに座り込んだ柊から目を逸らすと、花はさらにひとつ向こうのテトラポッドへと移動してしまった。

「……笑ってはくれないんだ」

「…………約束破りに見せる笑顔なんてないしかける言葉もない。初めの日にも言ったでしょ」

「ごめんね」

「ねえ、そろそろ教えてよ。アンタ、今更何の用事なの」

 悲痛な色を伴った彼女の声が、波の隙間に消えていく。曖昧に笑って答えを濁した柊に、花は苛立ちを隠すことはなかった。そのまま、まるで羽を持っているかのように軽々と彼女はテトラポッドを行き来する。

 波の音と、彼女の息遣い以外が存在しないこの場所で、柊の声はよく響いた。それなりに離れている彼女に向けて、柊は膝に頬杖を突きながら言う。

「……それでも、ここには来てくれるんだ」

 小さなつぶやきに、花の肩が大袈裟に揺れた。足を踏み外すんじゃないかと不安になったのもつかの間、彼女はバランスをとるかのように隣のテトラポッドへと飛び移る。それからぱっと振り向くと、伏せがちな瞳のまま、心臓から捻りだしたような声で返事をする。

「……──バーカ」

 それだけ言うと、彼女はぴょん、ぴょんとテトラポッドを移動して砂浜に飛び降りて、さっさと走り去ってしまった。

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