蒼光の街

深瀬空乃

01 海原に誘う

 それは、彼女と出逢って三日目の、蒸し暑い夏の日のことだった。

 シュウは、砂浜に座り込む彼女を見て、静かに目を細める。もうとっくに日は沈み夜は深まり、パトカーが通れば補導されてしまうような時間帯だった。もっとも、暗い岩陰に隠れるようにして蹲っている彼女のことを見つけられるわけなどないけれど。

 こんな場所には、街灯の光も届きやしない。月明かりだけが透明な水面に反射して、世界を幻想的に染め上げていた。

「……ハナ

「…………なによ」

 放っておいて、と言いたげな声色に、柊は軽く頬を掻いた。花は暇つぶしにか足元にある貝殻を拾っては海に投げ捨てる、無意味な作業を繰り返している。ぼちゃん、と音を立てて海に還された貝殻が、波に攫われて遠くへと流れていった。

 肩の上で雑に切りそろえられた不ぞろいの黒髪が、生ぬるい風に靡いていた。ボーダーのノースリーブに短パンを履いている彼女の足は、背の高い草の中でも通ったかのように怪我だらけだ。痛々しくて、見ていられるものではない。

「絆創膏とか持ってないの」

「あっても貼らない。知ってるでしょ」

「怪我の放置癖くらい、治ってるかなって思っただけだよ」

「治るわけない。あたしは何も変わってない。アンタと違って」

 柊につっけんどんな返事をしてから、まるでいじけた子供のように顔を顰めた彼女の隣に、柊は小さく息をきながらゆっくりと腰を下ろした。夏の熱を纏う彼女は、柊に小さく舌打ちをしたものの隣から退く様子はない。潮音だけが幻想的に響いている。川でもあるまいし、蛍なんて風流なものは居ないけれど、車の音ひとつしない深夜の海辺はどこか神秘的とさえ言えた。

「……最後にここに来たのいつだったっけ。懐かしい」

「アンタが初めて入院する前。小学生じゃないの」

「そっか、そんなに前か。ここ、花の好きな桜貝がよく落ちてたよね」

「……忘れた」

「…………今も集めてる?」

「別に桜貝なんか好きじゃないし」

 ぼちゃん。またひとつ、花の投げた貝が波の隙間に落ちていった。

 家が隣同士の幼馴染である彼女は、しばらく会わないうちに柊に対して随分と心を閉じてしまっていたようだということを、ここ数日で柊は痛いほど理解した。幼馴染と言っても、親同士の仲がよかっただとか、そういった家族ぐるみの関係性ではない。たまたま隣に住んでいて、たまたま幼稚園から中学校まで一緒だった、あくまで個人の友人だ。それでも、一緒にいる時間はほかの誰より長い、互いの理解者であった。柊の記憶では、腹を割って本音で話せるくらいには花と仲が良かったはずなのだけれど、どうやら暫く会わないうちにそんな関係性も終わりを迎えていたらしい。

 中学二年生から、元々体が弱かったことで入院がちになった柊の見舞いにも、花はよく来てくれていたのを覚えている。少ないお小遣いで花束を買って来てくれたこともあったし、学校でなにがあったかを話してくれることも多かった。ぶっきらぼうな喋り方ではあったけれど、今相対している彼女よりかは笑顔が多かったはずなのだ。

 彼女と離れたのは、高校に上がるときのことだ。この街から離れた大病院に、柊の入院先が変わった時。地元の市立高校へ進学した花と電車で幾駅かを挟んだ都会で寝泊まりすることになった柊では顔を合わせることも滅多になくなり、一年半が過ぎていた。再会が叶ったのは二日前、高校二年生の夏休みの人の出払うお盆の今だ。丑三つ時、一人静かに砂浜に佇む彼女に声をかけた、そんな或る意味ロマンチックな邂逅だった。

 隈の酷い彼女の目が大きく見開かれたことは、きっとずっと忘れないと思う。

 夜が明ける前に、彼女はまた家に帰らなければいけない。口を固く結んだ花が言葉を発さないので、柊もただ黙っていた。ふたりの間に落ちる沈黙は、波の音が取り持ってくれていた。

 柊は、落ちてくる髪を耳にかけながら、横目に花を眺める。潮風に揺られるまま、儚さを象徴するように眉を潜めた花は、その視線に気が付いてか否か口を開いた。

「……菫のこと、聞かないわけ。薄情もの」

「……花が話してくれるなら、聞きたいよ」

「今年から全寮制の中学に入った」

「そっか。良かった」

 膝を抱えた彼女が端的に語るのは、彼女の妹のことだ。昔から随分と大人びていた彼女の妹の無事に、柊は小さく息をく。少し癖毛の交じる花と異なり、柊と似てさらさらと靡く菫の黒髪は、遠い記憶の彼方に覚えていた。花とは一年半だが、菫とはもう今年で三年半、顔を合わせていないことになる。きっと今後も会うことは無いのだろうけれど。

「……それで、花は?」

「わざわざ聞くわけ。サイテー」

「そうかもね。ごめん」

「見ての通りだよ」

 花は忌々し気に呟いて立ち上がった。露出の多い服を着ているせいで、彼女の腕や足は月明かりのもとに晒されている。自分の体躯を見せつけるように両手を広げてみせた花に、柊は眉尻を下げた。

 彼女のスマートフォンの電源はとっくに落とされていて、現在の時刻は分からない。それでも、こんな遅くに高校生の娘がひとりで自由勝手に家を出られる家庭環境がどんなものかは語るまでもないことだ。柊の知る花の家庭は、確かに決して良好とは言えない環境だった。期待はしていなかったけれど、改善されては、いないらしい。

 不自然に細い腕がひらひらと宙を舞う。太陽を知らないはずはないのに、彼女の肌は不健康に真白かった。

 何も言わない柊に機嫌を損ねたのか、単にもう時間が来たのか。また小さく舌打ちをした花は、突然柊にくるりと背を向けた。

「……帰る」

「…………わかった。また明日、ここでね」

「……そろそろその暑苦しい格好辞めてよね。見てるこっちが熱中症になりそうなんだから」

「うん、ごめんね」

 そう吐き捨てて、花はすたすたと迷いのない足取りで帰路を辿っていく。彼女が蹴り上げた砂は潮風に攫われて、海の一部となっていった。薄手のカーディガンの裾から細い指を覗かせて、柊は花の後ろ姿にいつまでも手を振っていた。

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