第57話 ひとり眠らぬ夜を ファルカス
ファルカスの胸にしがみついたままの姿で、マリカはやっと寝入ったようだった。泣き疲れて目を開けていられなくなった、と言った方が正しいのだろうか。ひと口ふた口しか呑み込まなかった食事に混ぜた薬も、効果を発揮したのかもしれない。
「陛下――」
マリカを寝台に引き取ろうというのだろう、手を伸ばしてきた侍女を、しかしファルカスは首を振って下がらせた。彼の膝の上では休まらないかもしれないが、娘の手はしっかりと彼の服を握っている。無理に剥がせば目を覚ましてしまいそうだった。そして意識を取り戻せば、またマリカは泣き始めるに違いないのだ。もう母がいないということ、父に置き去りにされかけたということに怯え絶望し取り乱す娘の姿を、彼は既に何度も見ている。
娘の傍にいてやりたいと思いつつ、王であるゆえに放り出すことのできない政務が彼を待っていた。マリカを執務室に連れていくにも、まだ乱の後始末は完全には終わっておらず、傷ついた幼子に聞かせるべきでない話、見せるべきでない父の顔もあった。だから彼は心臓を抉られる思いで、必ず戻るからと言い聞かせて娘を置いて行かざるを得なかった。今は、為すべきことは取りあえず終えた夜のこと、娘が熟睡するまで見守ってやりたかったのだ。
『お父様……ごめんなさい、ごめんなさい……! 私の、せいで……!』
女主人を喪ったこの一角は、夜になると静寂がことのほか身に迫る。だからだろう、ファルカスの耳には娘の悲痛な叫びが何度となく繰り返されていた。同時に目にも蘇る光景がある。あの日、倒れて動かない妻の傍らで泣き叫ぶ娘の姿もまた、彼の脳裏に焼き付いて離れない。何者も恐れないはずの彼をして、二度と見たくない、聞きたくないと思う姿であり声だった。けれど忘れることはできないし、そのようなことを望むはずもない。あまりにも早く彼のもとから去ってしまった妻の記憶は、たとえ最期の無残な姿であろうとも、失くしてしまうには惜しかった。何より、彼の罪や無思慮や愚かさの結果、招いてしまったことだ。口を拭ってなかったことにするなど、そうして悲しみに酔うなど、許されるはずがないのだ。
ミーナは、ファルカスの腕の中で、マリカに手を握られながら息絶えた。看取ることができたのはせめてもの慰めだった、などとは言えまい。彼が駆けつけた時には、妻は辛うじてほんの微かに息をし脈を繋いでいるというだけの状態だった。
あの柔らかな微笑み、はにかむ黒い瞳、心労に痩せてなお滑らかさを保った頬、紅い唇、彼を呼ぶ声、穏やかで控えめな言葉遣い。彼の妻の美質は、最期の時までに失われてしまっていた。長く当然のように享受していたそれら、これからもずっといてくれるものと――疑いと恐怖を越えて――信じかけていた愛しい存在は、彼の手からすり抜けて行った。最後に言葉を交わしたのが何日前だったか、乱の帰結のほかに、夫婦として何を語ったのか、あまりに突然の別離に、きちんと思い出せないほどだった。そして彼は思い知らされたのだ。日々、何気なく過ごしていた時間がいかにかけがえのないものだったのか。そして、いかに容易く失われてしまうのかを。
――なぜだ? なぜ、このようなことになった……!?
彼の胸に渦巻く疑問への答えは、マリカからも侍女たちからも得られなかった。マリカは泣くばかりで断片的な言葉からは事態を把握することができなかったし、侍女たちも何も分からないの一点張りだったのだ。
『ミーナが毒を持っているはずがないだろう! 毒を渡した者がいるはずではないのか!?』
冷たく硬くなっていく妻の身体を抱きながら、声を荒げなければならないのはおかしいとしか思えなかった。父の怒声に娘の嗚咽がいよいよ激しくなるのも、決して彼の本意ではなかった。側妃の離宮からやっと呼び戻した侍医のひとりは、ミーナの容態を見るなり首を振った。もう手の施しようがない、と。どの道助からぬものならば、せめて妻の最期を安らかに見届けてやる方が良かったのかもしれない。
――このようなことがあって良いはずがない……!
侍女や侍医に怒鳴り散らす彼は、無力さではマリカと良い勝負だった。王の権威も鍛えた武の技も、死にゆく妻を救うにはなんの役にも立たなかった。
『まだ若く、病もなく健康だった――それがなぜ、このように簡単に……っ!』
まだこれから、だったはずなのだ。リカードと、そしてほかならぬファルカス自身が隠していた世間というものに触れて、傷つき心を痛め、それでもミーナは自らの足で歩き出そうとしていた。父親を殺した悲しみを、彼が癒したいなどと考えるのも決して許されぬことではないと、ようやく信じかけられるところだったのだ。ふたりの妻とそれぞれの子供たちと、誰にも引け目を感じさせず幸せにしたいと――そのためにどうすれば良いかと、考え始めていたところだったのに。乱の後始末と政務の合間に、この先のことを思い浮かべるのが――浮かれてはならないと自戒しつつも――ささやかな楽しみになっていたのに。
――全て、思い上がり――だったか……。
戦いで勝利したというだけで、全てが思い通りになると信じていた訳ではなかった――はずだった。しかし、結局のところ彼は油断し切っていたのだろう。シャスティエは無事に子を生み、ミーナもマリカも少しずつまた笑顔を見せてくれるだろう、などとは、決して定まった未来ではなかったのだ。
だが、彼が思い上がっていたとして、どうしてその代償を払うのが妻たちでなければならないのだろう。彼の妻のひとりは産褥の床でいつ終わるとも知れない苦しみに悶え、そしてもうひとりは一秒ごとに血の気と体温を失って確実に死へと近づいて行っている。どちらも彼のせいでいらぬ悩みと苦しみを負い、それでもなお彼を愛してくれたというのに。なのになぜ、彼女たちが苦しむ他所で、彼はのうのうとしていられるのだろう。
起きていること全てが信じがたく受け入れがたくて、ファルカスはひたすら立ち尽くすことしかできなかった。
マリカの寝顔を見下ろし、夜の静寂に聞き入りながら、ファルカスはまだ悔やみ続けている。
――もっとちゃんと、見送ってやれば良かった……。
子供のように喚くだけでなく、ミーナの顔を見て手を握ってやれば良かった。そもそも、政務の忙しさを言い訳にせず、リカードのことでの気まずさを顧みず、もっと会いに来ていれば良かった。ミーナが倒れたその場に彼がいたなら他にできることもあったかもしれないし、侍医が見つからぬなどということにもならなかったかもしれないのに。
「――陛下、こちらへ……」
今度こそマリカが熟睡したのを見て取ったのだろう、声をかけてきた侍女に応えて、ファルカスは娘を抱き上げた。運ぶ先は寝室だ。ちゃんとした寝台の上で、せめて一夜は安らかに眠り心身を休められると良い。
「陛下はお休みにはならないのですか……?」
「これから離宮に行く。夜明けまでには――マリカが目を覚ますまでには、戻る」
王の身を案じてか、目覚めてひとりだと知った時のマリカを宥める苦労を思ったのか。侍女の控えめな申し出に、しかし、ファルカスは首を振った。既に深夜の時刻、離宮の者たちを煩わせるのは間違いないだろうが。
「ですがこんな時間に――」
「非礼を咎める者などおらぬ」
もの言いたげな表情の侍女にそれ以上の言葉は与えず、ファルカスは娘の寝顔に背を向けた。
彼が言ったのは、王たる者に苦言する者はいない、などという意味ではない。シャスティエは、いついかなる時でも言いたいことを口にする。不安に怯えて心の均衡を失っていた黒松館での日々であったらともかく、夜更けに侍女たちを起こすなと、きっと眉を顰めていただろう。だが、それも彼女が健在であったならの話だ。
ファルカスはもうミーナの声を聞くことはできない。穏やかな微笑みを眺めるのも、抱きしめるのも、子の成長を共に見守るのも。そしてシャスティエについても同様に、彼は言いようのない恐怖を感じている。彼のふたり目の妻の、笑顔や甘やかな声はおろか、機嫌を損ねた時に顔を背けた時の首の細い線、怒りを訴えようとした時の不穏な眉の角度、水晶の剣のように鋭く切りつけてくる抗議や諫言の言葉。そんな、かつては生意気だと感じていた仕草さえ、見たり聞いたりすることは二度とできないかもしれないのではないか、と。
彼がミーナのもとに駆け付けている間に、シャスティエはめでたく男児を生んでくれた。めでたいと――それ自体には、間違いないのだろう。迂闊な臣下の中には、ミーナに起きたことを知らずに祝いを述べる者もいるほどだ。あるいは、知らない振りをしているのか。
だが、ファルカスは手放しで喜ぶ気にはなれなかった。早すぎる出産は、母体に長い苦しみを与えただけでなく、その身体の内側にも深い傷を負わせたらしい。子を生み落とした直後に、シャスティエは大量に出血に見舞われ――命は取り留めたものの、いまだ子を抱くこともできず目を覚ましていないのだ。
彼はふたりの妻を等しく愛することができると思っていた。しかし、それこそが最も大きな、そして根本的な過ちだったのだろう。ふたりともが死に瀕して苦しんでいる時、どちらに寄り添うべきか、どちらの傍にいてやるか、などと。答えのあることではなかったのだ。ミーナの死の時に傍にいてやりたかった、という思いは間違いではないはずだ。だが、もしもシャスティエもこのまま目を開くことがなければ――その選択すらも、彼を生涯に渡って苦しめるのだろう。
従者が掲げる小さな灯りを頼りに、ファルカスは離宮への道を辿る。深夜だからというだけでなく、王宮は静まり返り、息を潜めているかのような空気さえ漂っていた。王の子が、それも待望の王子が生まれたのだ、本来ならば夜を徹しての宴が催されるところだったのだろうが。王妃も、子の母である側妃も不在となれば、そのような席を設ける気にはなれなかった。
それに、王宮の誰もがまだ混乱の只中にいるのだ。王妃の死から既に数日経ったというのに、何が起きたのかはっきりと掴めていない。部屋の状況から分かることといえば、ミーナが倒れる直前にリカードの妻子――つまりは母や姉から来た手紙を燃やしていたということくらいだ。一体何を記して娘や妹を脅したのかと、詰問の書状を幽閉場所に送ってはいるが――返事が何であろうと、そして力ない女たちにどのような罰を与えようと、ミーナが戻ることはないのだ。
そもそも、ミーナが毒を口にしたのが、自らの意志によるものか否かさえ、確かなことは分かっていなかった。ファルカス自身は絶対に違うと信じているし、マリカの切れ切れな言葉からも間違いないだろうと思う。だが、事情もミーナの人柄もよく知らぬ者ほど好き勝手な憶測を口にしては彼の勘気を被っていた。
『父君のことをよほどお気に病まれたのでしょうな……』
『王子を儲けられたクリャースタ様に譲られるおつもりだったのでは?』
ミーナを悼み、王を慰めるつもりで言っているようだからなお質が悪い。ミーナは父の所業に悲しみ苦しみつつも彼と生きると言ってくれたし、側妃と隣り合うことも受け入れてくれた。娘の前で苦しむ姿を見せるような真似をするはずもないし、何より、シャスティエが男児を産み落とす前にミーナは倒れていた。真実は分からないながらも、自害ではあり得ない――はずなのだ。
だが、軽々しく空々しい言葉を並べる者たちを叱責する時、彼は必要以上に声を張り上げてはいないだろうか。まるで痛いところを突かれでもしたかのように。
――いや、実際俺のせいだ。
自身と従者の足音を聞きながら、ファルカスは奥歯を噛み締めた。この数日、涙にくれる娘を宥めながら、何度となくそうやって怒りや嘆きや悲しみ、そして何より罪の意識を呑み込んだのだ。
王の立場に誤りは許されない。だから彼は自ら口に出すことはないし、声高に王を咎める者も誰もいない。だが、彼は誰よりも自身の罪を知っていた。どのような経緯でミーナが毒を手に入れ、そして飲み干したにしろ、彼の目の配りよう、些細な行動のひとつかふたつで結果は全く変わっていたはずなのだ。
例えばあのエルジェーベトという女のことだ。マリカの嗚咽の合間にその名を聞き取って、慌てて牢に人を向けてみれば、女は牢の中で息絶えていた。もともと死すべき罪人とはいえ、裁きによるものではない刃を与えた者もまた、瀕死で石の床に横たわっていた。女の息子であるはずのラヨシュという少年は、マリカのたっての願いもあって今は手厚く看護されている。その子供が目を覚ましてまともに口が利けるようになれば、多少は真実に近づけるだろうか。だが、それも死者を蘇らせる奇跡をもたらす訳ではない。ただ、多少の手柄があるからと罪ある者に死を与えるのを躊躇った彼の罪が、より一層際立つだけだ。
女の死体を引き裂いて野に撒いたところで何の意味があるだろう。最も罪がある者、ミーナの死を回避し得た者――彼自身が何ら罰を受けることなく生き続けているというのに。
離宮に着いたファルカスを迎えたのはイリーナだった。深夜にも関わらずきちんと身なりを整えていたのは、昼夜を問わず赤子たちとその母を看る者が必要だからだ。彼もそれを知っていたからこそ、この時間に訪ねる気にもなったのだ。
「――変わらず、か?」
「はい。……御子様方は揃って眠っていらっしゃいます。どうぞ寝顔を見て差し上げてくださいませ」
挨拶もそこそこに短く尋ねると、金茶の巻き毛の娘は顔を歪めて頷いた。これもまたこの数日に決まりきったやり取りだった。母の容態に触れる代わりに、子供たちに会うことを勧めてくるのも、この娘に限らず侍女たちが決まってすることだった。目を閉じたまま窶れていく一方のシャスティエの顔を見下ろすよりは、成長目覚ましい赤子を見る方が楽しいだろうという気遣いではあるのだろう。だが、赤子が愛らしければ愛らしいほど、母親がその姿を見ることができないという事実がファルカスの胸に重く圧し掛かる。侍女たちもきっと同じ思いをするのだろうに、自らの心と他者への配慮はまた別だということらしかった。
「王子殿下は今日もしっかりとお乳を飲まれて……泣かれるお声も、日に日にしっかりとしてきておりますわ」
「そうか……」
眠る赤子たちを起こさないよう、ごく抑えた声で囁くイリーナに、ファルカスも小さく頷いた。
おぼつかないながらも自分の足で歩き回り、遊び方も色々と覚えてきたフェリツィアと違って、生まれたての王子は飲んで泣いて眠るのだけが務めだ。活発すぎる姉と一緒にしては眠れないし泣かせてしまう場面もあるとのことで、これまでは離宮を訪ねても並んで寝ているところは見られなかった。無垢な赤子、それも血を分けた姉弟であるふたりの安らかな寝顔は、傍で見る父親の胸を熱い想いで詰まらせる。フェリツィアも王子も、生まれるまでの困難が並ではなかったからなおのことだ。
「無事に育つのならば、良かった」
子を諦めようとする侍医を制して、シャスティエが出産の意志を通したと聞いた時、ファルカスはなぜだと叫びたくなったのだ。苦渋の決断をしたというのに、子の命と天秤にかけてまでも妻を失いたくないと思ったのに、どうして当の本人がその想いを無にするのか、と。しかし憤りをぶつけようにも相手が深い眠りの中ではどうしようもない。しかも月足らずで生まれた息子は、当初はいかにも弱々しく頼りなく、母子共にこの地上を去ることになるのではないかと恐れたものだったのだが。だが、小さく生まれたからこそなのか、息子は会う度見違えるように大きくなっているように思えた。
――シャスティエ……お前は俺に怒ったか? 失望したか……?
陣痛に疲れ切っていたシャスティエが、子供の命が危ういと知らされて目に力を取り戻したのだと侍医たちから聞いた。彼の言葉が妻を発奮させることができた、と思えば良いのだろうか。だが、それは怒りによってだろう。あの女が子供と引き換えに生き延びることなど望むはずはなく、非情な命を下した彼にさぞ憤ったに違いないのだ。
どちらかひとりしか助けられない場合に、妻の命を選んだこと――決して正しいとは言わないが、間違っていたとも思わない。だが、そのためにシャスティエが恐怖や怒りや絶望を抱いたまま出産に臨み、そして眠り続けているのだとしたら。万が一にも、目覚めないのだとしたら。こちらの妻に対しても、彼は取り返しのつかない罪を犯したことになる。
「あの……」
と、イリーナの目に促されて、ファルカスは赤子たちの寝室から追い出された。起きている時なら遊んでやることもできただろうが、今の彼にできるのは子供たちの眠りを妨げぬよう静かにしているくらいなのだ。
寝室の扉が閉ざされて、赤子を起こす恐れがなくなってなお、イリーナは抑えた声で彼に問いかけた。
「王子殿下のお名前は、どうなさるおつもりでしょうか……?」
――そのことか……。
侍女がひどく言いづらそうに切り出した理由は、よく分かった。生まれて数日も経つというのに、王子にはいまだ名前がない。諸々の儀式や記録にまつわることも滞るから、臣下や官吏からも催促されていることではある。直に接して世話をする者たちにしてみれば、殿下だの若君だのという呼びかけは、味気なく堅苦しいとも思うのだろう。それは、よく分かる。
だが、その上でファルカスは短く素っ気なく侍女の訴えを退けた。
「母親に無断で名付けるものではなかろう」
「はい。ですが――」
子供たちに会った後、ファルカスが必ず足を向けるのはシャスティエが眠る部屋だ。それをイリーナも心得ているから、軽い足音が乱れることなくついてくる。しかし、シャスティエに似た訛りを持つ娘の声は、やはり舌に重石がついているかのように歯切れが悪かった。シャスティエが目覚めなかったらどうするのか、と。娘の忠誠心からも、夫である彼の心中への配慮からも、はっきりとは言えないのだろう。そして実際、ファルカスとしても決して聞きたくない言葉でもある。
「今しばらくは待て。そもそも月足らずで生まれた子だ、臣下に披露する機会もまだ先になるだろう」
忌まわしい進言を聞かなくても済むよう――だから、ファルカスはわざわざ足を止めて振り返ると、イリーナの若草色の目を見据えながらゆっくりと述べた。これ以上は言うな、と。言外の命というか懇願は正しく届いたらしく、侍女は悲しげに眉を寄せながらも頷いてくれた。
ミーナの亡骸を見てしまった後では、シャスティエの姿はまだ生きていると確かに分かるものだった。微かにとはいえ胸は上下しているし、手を握れば血が通う温もりを感じることもできる。だが、すぐに目覚めるだろうと希望を持てるほどの温かさではなく、雪の白さの頬も青褪めた唇も、色を取り戻すどころかますます褪せて冷え切って、やがて消えてしまうのではないかと不安を覚えさせる。
「薬と食事は?」
答えは変わらないと知りつつも、ファルカスはイリーナに尋ねた。意識がないままで無理に食べ物を呑み込ませるのは困難で、痩せていく一方の妻を見れば尋ねる必要さえなかっただろうが。
「飲み薬と、汁物の類ならどうにか。粥や、煮崩した肉や野菜もほんの少し。果汁や、蜂蜜を溶いた水でせめて栄養を摂っていただきたいとは思っておりますが――それだけでは……」
「そうか……」
ファルカスは、侍医にも何度も同じことを尋ねてしまっている。時にはまるで尋問のように、言葉や時を変えれば色よい答えが得られるのではないかと、縋る思いで。しかし、彼らの答えもシャスティエの状況も変わらないのだ。
薬と水分だけで命を長らえさせるには限りがある。シャスティエが目覚めて、自らの意志で食事を摂れるようになればまだしも、このままでは遠からず彼女の眠りは永遠のものになるだろう。
「お声を、掛けて差し上げてくださいませ。陛下のお声を聞いていただければ、きっと……!」
涙に声を詰まらせながらイリーナが乞うのも、毎回のことだった。この娘に限らず、侍女たちは口を揃えて彼の声ならば、と言ってくるのだ。最初に顔を合わせた時は仇として復讐の対象で、シャスティエの最後の認識でも、彼は子供を殺そうとした敵として捉えられているだろうに。
「……子供たちは健やかに育っているぞ。お前が諦めずに頑張ってくれたお陰だ。あの子らが成長した時に、母親がいないのでは何とする……!?」
シャスティエは、母として何にも増して子供たちを愛し、気に懸けていた。だから、声を掛けるとしたら子供たちのことに触れるのが最良だと思っていた。だが、ろくに食べず眠っていない疲れがさせたのか、ファルカスの口から、つい、余計な言葉がこぼれ落ちた。
「……もう一度目を開けてくれ。お前まで失いたくはない。シャスティエ……!」
すっかり薄くなってしまった妻の手を握りしめながら呼び掛けるのさえ、後ろめたさに胸を刺されずにはいられなかったが。お前まで、などとは。これでは、ミーナを失ったからせめてこちらの方は、と言っているのも同然、生死の境にいる妻にかけるには、あまりに不実な言葉だろう。
それでも失いたくないのは彼の心からの真実だった。ミーナが死ぬべきでなかったのと同様に、シャスティエもこんなに早く地上から去るべきではない存在なのだ。
彼が犯した罪をおいて、厚顔に
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