第56話 血 シャスティエ
「クリャースタ様、息を止めないで! 御子も息が詰まってしまいます!」
耳元で叫ぶ侍女の声に答える余裕は、シャスティエにはない。身体の内側から下腹を襲う痛みは激しく、息を殺さなければ耐えられないと思ってしまう。でも、もちろん胎児に害を為すことなど望まないから、侍女が伸ばす手を強く握って意識して深く呼吸する。そうすると全身の力が緩み、呼吸で胸が上下する度に痛みが身体を引き裂くのがより強く感じられた。
――前の時とは……違う……!
痛みのゆえに、時間が引き延ばされて感じられているなら、良かった。でも、フェリツィアを生んだ時よりも、今回の痛みは明らかに強く、そして長引いていた。彼女が横たえられた寝台の傍を行き交う侍女や侍医や召使たちの慌ただしさも、前よりも焦りや緊張を伴っているように思えてならない。彼女の身体に施される処置も、そうだ。
髪を梳き汗を
訳も分からないままに飲み下させられる苦い薬は、何のためのものなのだろう。彼女の脈をとっては熱を測り、足の間を覗いては難しい顔をしているのは、どういうことなのか。シャスティエの、夫の子は――無事に、この世の空気を吸うことができるのだろうか。
「まだ……ダメ、なの? 出して、あげたいわ……!」
痛みと焦りに駆られて、いきみたいと訴えると、侍女のツィーラが首を振った。侍女の中でも年配で、先王の側妃たちの出産に立ち会ったこともあるというこの女は、離宮では最も経験のある者のはずだった。黒松館の襲撃も生き延びて、そう簡単に怯むことなどないはずなのに、でも、皺を刻んだその顔はどうも強張っているように見えてならなかった。
「いいえ、まだお身体が整っておりません。御子も頑張っていらっしゃいます。どうか御心もお身体も楽にして、お待ちくださいますよう……!」
――そんなの、無理よ……!
痛みを逃すために荒く息を吐きながら、シャスティエは心の中で叫んだ。永遠に終わらないのではないかとさえ思える痛みが耐え難いのはもちろんのこと、子供のことを思うととても正気ではいられなかった。ただでさえ月足らずで破水を迎えてしまったのに、この異常な痛みと長引く陣痛だ。懸命に生まれ出ようとしているはずの胎児に、良い影響を及ぼすとは思えなかった。
「子供は大丈夫なの? 私のせいなのでしょう……! ちゃんと生んであげられるの……!?」
「クリャースタ様、息をしてください!」
叫ぶ間には、当然息を止めていることになるし、身体も強張らせてしまっている。それを侍女の叱咤で気付かされて、シャスティエは慌てて息を吸い、意識的に四肢の力を抜いて寝台に身体を沈めた。でも、柔らかな羽毛の感触も、決して彼女の慰めにはならない。間断なく身体を苛む痛みと――心を裂く、後悔の前には。
――私の、せいだわ……。
不貞の噂を払拭したいと思う余りに、子が早く生まれれば良いと願ってしまった。フェリツィアが無事に生まれたからと、毒も陰謀も退けることができたからと、後は子の誕生を待つばかりだろうと信じ込んでしまった。でも、それは思い上がりに過ぎなかったのだ。ブレンクラーレで倒れて以来、胎児を子宮に留めるために周囲の者たちも、何より王も、最大限の努力と配慮を示してくれたというのに。母であるシャスティエの心がけひとつでその全てを無に帰すのだとしたら、誰に対しても顔向けできないことになってしまう。
――どうか、無事に生まれてきて。可愛い顔を見せて……!
痛みに
とにかくも息をしようと務めながら、シャスティエは夫の姿を思い浮かべた。多忙を極めるであろう今、ここに来てもらえることは望めないけれど。イシュテン中に流血を強いた乱の後で、王の子の誕生は希望になるはずなのだ。国のためだけではない、妻から奪うばかりだと気に病んでいた夫に、与えられたものもあると示してあげたかった。フェリツィアを得て復讐の念が揺らいだ彼女だ、次の子を抱いてならばあの言葉も楽に言えるのかもしれないのに。いまだに伝えることができていない、愛しているという言葉を。
「クリャースタ様……クリャースタ様、お気を確かに」
「ん……」
痛みと疲れに朦朧としてぐったりとし切っていた頃、低く柔らかな声に語りかけられてシャスティエは目を開いた。別に眠っていた訳ではない。眠れるはずがない。ただ、目を閉じていた方が痛みをやり過ごしやすかったというだけだ。眠るというか、束の間意識を失うことはあったかもしれないけど、それもすぐに痛みに叩き起こされるという、繰り返しだった。
声の主は、侍医の中でももっとも年嵩の者だったはずだ。フェリツィアの時も今回も、何かと助言を受けたから馴染みの者ではある。イシュテンの男には珍しい穏やかな物腰も、我が身と我が子を委ねるに足ると信じることができる。今も優しく丁寧な語り口を崩さないのは、シャスティエを慮ってのことのはずだ。ただ、その侍医の笑みが心からのものではなく、どこか強張って見えるのは――疲れに霞んだ目が見せる幻なのだろうか。
「お気付きでしょうか、破水からもう丸一日以上経っております」
「……」
返事をするのも億劫で、聞いていると示すためにシャスティエはゆっくりと瞬きをしてみせた。時間の感覚はとうに失われていたけれど、異常なほどの時間が掛かっているのだけは理解していた。薬のほかに口にしたのは茶や白湯や汁物くらい、なのに空腹を感じることがないのも、良くない兆候なのだろうということも。
「まだ、なの……?」
浅い息に胸を上下させながら、シャスティエは弱々しく尋ねた。破水して羊水が喪われた分、両手で抱え込む腹は幾分萎んでいるような気がする。こうなった以上は一刻も早く生んでやらなければ危険なのだろうに、でも、今の彼女にそれだけの体力が残っているだろうか。胎児がもがくのを感じる度に、まだ生きていてくれることに安堵して、そして二度と動いてはくれないのではないか、死んだ子を生み落とすことになるのではないかと震えるのだ。
子宮が開かず産道が整わないうちにいきんでも、かえって長引くし子を苦しめるだけだと言われて、ただひたすらに痛みに耐えてきたのだ。全ては彼女自身と子供のためだと理解はしていても、薬の味はともかく脚の間を夫以外の男に覗かれ触れられるのは耐え難かった。この痛みも恐怖も屈辱も、やっと終わりが近づいているのだろうか。
シャスティエが縋るように見つめる先で、侍医は確かに頷いた。励ますように手を差し伸べて――無論、治療以外の目的で王の妃に触れる非礼は犯さなかったけど――身を乗り出してくる。
「はい。長い時間をよくぞ戦われました。後は御子が無事に出てきてくだされば。お姿が見えれば、私共もお手伝いができるのですが……今少し、おひとりで耐え忍んでいただかなけれればなりません」
「大丈夫よ……あと、少しなのだもの……」
もう少し、と。先を示されたことで希望が見えた。残った気力をかき集めて、シャスティエは脚を広げ呼吸を整え、身体を裂かれる痛みに備える。
――前もやったことよ……子供のためだもの、頑張らないと……!
生まれ出ようとする胎児を、母が手助けしてやらなければならないのだ。息を詰めないように、と。頭の中で念じながら、踵で踏ん張って腹に力を込めようとする。でも――
「クリャースタ様……!?」
「あぁ……」
侍女の悲鳴が響く中、シャスティエの踵は虚しく寝具の上を滑った。体勢を整えてもう一度、今度こそ、と思っても、思うように身体に力が入らない。
「なん、で……っ!」
この間も絶え間なく続く痛みに耐えながら、何とかいきむ体勢を取ろうともがく。でも、それは陸に上げられた魚が跳ねるような無為な動きでしかない。滑らかな絹の
「クリャースタ様、落ち着いて……! 御子も、降りようとなさっていますから……!」
「でもっ、このままでは……っ」
出産という大事に、体面など気にするべきではないのだろうけど――違う、これは見た目の問題ではない。いきむことができないほどに体力が喪われているのだとしたら。そう思うと、今度こそ息をするのも忘れてシャスティエは悲鳴を上げた。そこへ侍医たちも駆け寄って、暴れる側妃を抑えつけて言い聞かせる。
「我らは控えておりますので、御身のご心配はなさらずに。必ず、お救い申し上げます」
「私のことより子供のことよ! 赤ちゃんは、どうなるの!?」
叫ぶ力だけは残っているのが情けなくて、我が子を案じる想い、焦りと不安と恐怖と相まって涙が溢れてくる。泣くまいと息を詰めるのもまた、胎児への害となってしまう。涙を堪えて懸命に呼吸を保つシャスティエに、侍医がぽつり、と呟いた。先ほどまでのにこやかさとはかけ離れた、硬い声で。
「……陛下は、万が一の場合は母君の御命を優先するように、と命じられました」
「そんな……」
しばらくの間、シャスティエの耳の届くのは自身の荒い息遣いだけだった。嗚咽のような音も、少し混ざってしまっているか。侍医の言葉は彼女を打ちのめし、侍女たちも誰も、咄嗟に架ける言葉を見つけられないかのようだった。
「クリャースタ様! 陛下も、クリャースタ様を案じられるからこそ、苦渋の命を――」
「そんなことは分かっているわ!」
イリーナが沈黙を破ったのは、シャスティエを案じ、王を庇うためだったのだろう。王の言葉を、子を見捨てるものだと捉えた彼女が、傷つくか怒るかするのを慮ったのだ。でも、侍女の思い遣りを察した上で、シャスティエは鋭い声を上げた。先ほどよりもずっと力の篭った、腹の底から出た声だった。同時に、身体の奥から尽き掛けていた気力が湧いてくるのが分かる。
――そんなことは、させないわ……!
シャスティエだって分かっている。王が望んで、あるいは軽々と赤子を見捨てる決断をするはずがない。妻と子の命を天秤に掛けて、どちらかを選ぶことなど本当はできるはずがないのだ。それを敢えて選んでくれたのは、ふたつの命の重さを真摯に考えてくれたからに違いない。その想いに感謝こそすれ、どうして恨んだりできるだろう。
「クリャースタ様――」
「触らないで! ちゃんと生むから!」
侍医が差し伸べた手を撥ねのけて、シャスティエは噛みつくように叫んだ。この者も彼女を案じてくれてはいるのだろうが、胎児を殺すための処置に着手しようというなら、触れさせる訳にはいかなかった。
「ですが」
「もう少しだけ待って。赤ちゃんが無事に生まれれば良いのでしょう。私が、頑張るから――」
侍医がことさらに優しい声と態度を作っていた理由が、今なら分かった。なるべくシャスティエを刺激せず、無事にお産が済むことを願っていたのだろう。王の命令を実行するような事態にならないように、と。けれどシャスティエの消耗ぶりを見て、最悪を想定しなければならないと考えを変えたのだ。
子供がまだ無事でいるのか、どれほどの猶予があるのか、シャスティエ自身も不安で仕方ない。でも、子供を死なせることに頷くことは、母としても妻としてもできなかった。万が一にもそのようなことになれば、王はまた自らを責めて妻に心を閉ざすのだ。大切な存在を奪ってしまった、などと言って。
「――させないわ……!」
子供を死なせることも、夫の心にこれ以上の重荷を負わせることも。あらゆる障害を、やっと乗り越えたはずなのに、この上通わぬ心に思い悩むようなことはしたくない。何ものにも胸を翳らせることなく、子供の誕生を祝い、愛を語るのだ。
今度こそ、不甲斐なく崩れ落ちたりしない。子供の命が危ないとなれば、そして夫の心を救うためとなれば、どんなことでもできるはずだ。
ひとつ、大きく息を吸うと、シャスティエは改めて脚を踏ん張り腹に力を込めた。
「ああああああっ」
何度目にいきんだろうか、身体が芯から裂かれるような痛みが膨れ上がり、脚の間にずるり、ぬるりという感触を感じた。同時に、身体がふ、と軽くなったような、道が通ったかのような感覚もある。長い陣痛を越えて、産道を越えて、赤子がついにこの世界の空気に触れたのだ。
「頭が見えました! もう少しです!」
叫んだのが誰か、男か女かももう分からない。ただ、いよいよ終わりに近付いているという直感に駆られて、シャスティエはまた腹に力を込めた。髪を振り乱し、獣のように恥じらいも何もかなぐり捨てて叫びながら。早く、子供に息をさせてあげなくては。これ以上愚図愚図してはいられないのだ。
「ご無礼を――お手伝い申し上げます!」
そう言ったのは侍医だろう、脚の間に人の手が触れるのが分かった。外からも、赤子を取り出そうと力を貸すのだ。もしかしたらそうなってしまっていたかもしれないように、鉤かなにかで赤子を引き裂いて引きずり出すのではなく。安全に、生まれさせてあげるためのこと。
――早く……!
「――ああ……っ」
赤子の頭が
――赤ちゃんは……!?
生まれ落ちた瞬間、彼女の子供は泣かなかった。時間が掛かり過ぎてしまったのか。遅すぎたのか――侍女たちによって寝台に横たえられながら、シャスティエは霞む目で必死に赤子の様子を窺った。侍医の腕の中でまだ血塗れでぐったりとしている彼女の子を。弱々しくもその子は何とか動いていて、尻を叩かれると、口から羊水の名残を少し吐き出し――そして、確かに産声を上げた。フェリツィアの時とはまるで違う、力強さなどない小さな声だったけど。でも、とにかく、自らの力で息をしてくれたのだ。そして――
「クリャースタ様! 男の子です! 王子殿下でいらっしゃいます!」
――ああ……!
侍女の誰かが叫んだのを聞いて、シャスティエは深く息を吐いた。頬に涙が伝うのが分かる。子が無事に生まれた安堵、喪うことを恐れた日々の心細さ、彼女と子のために払われた犠牲――そんな全てが胸に押し寄せて、そして溢れてきたかのようだった。
はらはらと涙を流しながら寝台に横たわる彼女に、侍医が歩み寄って恭しく跪いた。
「無事のご出産、心からお慶び申し上げます――ですが、母君様には今少し、休んで頂く訳には参りませぬ」
「……ええ……」
侍医も明らかに表情を緩めているものの、完全に油断し切っている様子ではない。シャスティエも初めてのことではないから分かっている。子を生み落としてなお、彼女の腹にはまだ胎盤が残っている。それを排出し切るのに、また多少の痛みと出血に耐えなければならないのだ。
とはいえ、子の命が懸かっている訳でもないこと、後片付け程度のことだ。痛みも陣痛ほどではないはずだ。だからシャスティエは力を抜いて、寝台に身体を委ねた。疲れた身体に絹の感触は心地良く、すぐにも眠ってしまいそうだった。――その、はずだったのだけど。
「なぜかしら……とても寒い……」
期待していた温もりが得られなくて、シャスティエは戸惑いにゆっくりと瞬いた。季節は初夏だというのに、震えが止まらないほどの寒気がする。侍女と侍医に異常を伝えようとしても、舌が上手く回らなかった。疲れだけが理由ではない。なぜか、周囲の全てが遠ざかり、ぼやけていくような気がした。底知れぬ穴に吸い込まれて、どこまでも堕ちていくかのような。
「クリャースタ様……!?」
「これは……
「クリャースタ様、血がっ!」
脚の間から水をぶちまけたような音が聞こえた。もう羊水は残っていないだろうに不思議なことだ。微かに聞こえる悲鳴からすると、血、なのだろうか。この量の血が、一体どうして、どこから流れ出したのだろう。
ぼんやりとした疑問は、形になることなく解けて消えた。赤子の泣き声が聞こえないのは、弱い子だからか、泣き止んだのか。
――お乳を飲んでくれると良いのだけど……。
生まれたばかりの我が子のことを案じながら、シャスティエの意識は闇に溶けた。
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