第55話 大罪 ラヨシュ

 母が閉じ込められているという牢を見つけ出すのは、思いのほか簡単だった。マリカ王女に従って、ラヨシュはこれまでにイシュテンの広い王宮をほぼくまなく探索している。そんな彼も足を踏み入れたことがないところとなると限られるから、そのどこかに牢があると考えられるという訳だ。北の方、と大雑把ながら方角を言われただけで、彼は既にあの辺りだろう、と脳の内に地図を描くことができていた。


 ――来たばかりの頃は、迷ってばかりで……何もかもが眩くて……。


 特に薄暗く、これまでほとんど足を踏み入れたことがなかった一角を目指しながら、ラヨシュは歯を食いしばっていた。全力で走る苦しさからというだけではなく、何かを噛み締め、呑み込まなければ頭がおかしくなりそうだった。腰に佩いた短剣ががちゃがちゃいうのもうるさくて、手でしっかりと抑え込んで、走る。


 いつの間にかすっかり馴染んでいた王宮の庭園も通路も、どこもマリカ王女と共に遊んだ記憶がよみがえる。かつては、犬のアルニェクも彼らの足元を駆け抜けて、少し先でちょこんと座ると主たちが追いつくのを待ったものだ。

 そんな、彼自身が壊してしまった和やかな光景を思い出すと、胸の痛みで息ができなくなるような思いがするのだけど――もちろん、泣き言を言って足を止めることなど彼には許されていないのだ。倒れてしまった王妃のため、母君の傍らで泣いている王女のためにも、母が何をしでかしたのかを聞き出さなくてはならない。


 王女が言っていた通り、牢の周囲では見張りの兵が明らかに多かった。逆に、兵が多いから牢の場所をはっきりと知ることができた、と言った方が良いかもしれない。他の建物と比べても数段堅牢で、かつ装飾を排された石造りの建物は、確かに罪ある者を封じておくために作られたのだろうと思わせた。土台の方に目を凝らせば、鉄格子らしき隙間が見えるのも、王女の証言と合致する。後はどうやって母と接触するか、だが、それこそが難題になるだろう。


「ここに捕らわれている者の息子です。王妃様のご慈悲で、最後に会わせていただけることになりました」

「何……? そのようなことは聞いていない」


 牢の入り口に立つ兵に声を掛けてみると、露骨に顔を顰められた。処刑を控えた――そうに違いない――囚人を逃がすような不始末はあってはならないし、そもそも子供が王妃の言葉を借りることなど不審でしかないだろう。だが、ラヨシュは努めて平静を装った。声が上擦ったり震えたりしないよう、腹に力を込めて自分よりはるかに高いところに位置する兵の顔を睨め上げる。


「聞いていないのも当然のことです。クリャースタ様が産気づかれたとのことで、あちこちが慌ただしいですから。子供ひとりでは役に立ちませんし、処刑も間近だから今しかないだろうということで特別に時間をいただくことができました。疑われるなら、どうぞ王妃様に――」


 王妃の言葉を疑うのか、と。言外に兵士を脅しながら、ラヨシュの胸は他の者にも聞こえるのではないかというほど強く早く高鳴っていた。侍女からちらりと聞いたばかりのクリャースタ妃のことを、よく知っていることであるかのように語るのも、母の処刑に自ら言及するのも怖かった。王の子が生まれれば恩赦を得る罪人も出るのかもしれないけど、母の罪の重さを思えばその中に入ることはないだろう。いや、そもそも、クリャースタ妃の御子は無事にこの世に生まれ出ることができるのだろうか。侍医が出払うほどの有様では、何かよほど良くないことが起きているのではないだろうか。それに、何より――


 ――王妃様は、今……!?


 王妃は、今は彼に言葉を与えることができるような状態ではないのだ。あれほど青い顔をして、身動きすることすらない人間を、果たして助けることなどできるのだろうか。イシュテンで最高の知識と技術を持つ侍医たちだって、クリャースタ妃の方にかかり切りになっているというのに。彼がこうしている間にも、王妃はまだ息をしているのだろうか。その傍らで、王女はどれほど心細い思いをしていることだろう。


「お願いです、どうか……」


 強気を保たなくては、と思っても、なぜか兵士の顔がぼやけて歪んだ。幼いとはいえ男が人前で涙を流すことなどあってはならないのに。しかも、目の前の男が見たら母との別れを悲しんで泣いていると思うに違いない。そんな感情は、もはや欠片もないというのに! 王妃と王女を苦しめる母に対しては、怒りしかない。彼が悲しむとしたら仕えるべき方たちのためだけだ。でも、それは今は言ってはならない。母に会わせてもらうため、牢に入れてもらうためには。


「どうか……!」


 彼にできるのは、ただ万感を込めて乞うことだけだ。怒りも悲しみもない交ぜになって、牢の扉に立ち塞がる兵士の心を動かせる力になるようにと、切に祈りながら。そして相手の目が泳ぎ、迷っている様を見つめる間は、永遠のようにも思われた。


「……仕方ないな。くれぐれも、大それたことは考えるなよ」

「え――」


 兵士が彼よりも背が高いのは幸いだった。痛いほどに首を上げて、懸命に瞬きをして。睨むように相手を見つめていると、涙の雫が零れ落ちる前に諦めたような溜息が降ってきたのだ。


「一番奥の房だ。さっさと済ませろ」


 堅牢な建物の見た目に違わず、兵が開いて見せた扉は厚かった。内部の壁も、隙間なく石材が積み上げられて、囚人を決して逃さないという意思を感じさせる。手に押し付けられた鍵も大きく重く、対応する錠の頑丈さを容易に想像させる。

 鍵を抱きしめるようにして恐る恐る中に足を踏み出すと、すぐに下に続く階段が口を開けていた。そこから這い上がる湿った冷気も淀んだ臭気も、ひたすらに禍々しいものだった。




 母と会うのは久しぶりだった。王妃の命によって、アンドラーシに手紙を届けて以来――彼が、ティゼンハロム侯爵を裏切って以来、直接会うことはおろか手紙を交わすことさえしていない。ただ王や王妃やアンドラーシから話を聞かされるだけ、それも母の処遇に関する話がほとんどで、息子である彼について何か言っていたということは全く伝えられていなかった。

 主家を裏切った後ろめたさ、それを糾弾されるかもしれない恐れ。それでも母である人へのほのかな思慕、そして暗く湿り悪臭漂う牢獄で、あの人がどう過ごしているのかという哀れみ。最奥の房に辿り着くまで、ラヨシュの心中には複雑な思いが渦巻いていたのだけど――


「あら、お前なの」

「母様……」


 ――なんて、変わっていない……。


 重い扉を押し開けて、牢の中に入り、母と目が合って――そして母が表情も変えずに呟いた時、ラヨシュは暗澹とした思いに襲われた。

 見た目の話で言えば、大きな変化が生じていた。薄闇に浮かび上がる母の頬は削げ、化粧気もなく、さらにろくに身体を清めることができないからだろう、どす黒く汚れていた。髪もほつれた上にべったりと身体に貼りついて老婆のようだし、身に纏うものからして擦り切れた襤褸ぼろのような有様だった。それは、見るだけでも痛ましいし、正直に言って怯まずにはいられない。

 でも、仮にも息子の姿を認めた時の感情の動きのなさ、犬猫や虫がいるのを見つけた、という時と全く変わらないさらりとした物言いは、いかにも母らしかった。とても母らしくて、親子の情と言うものをわずかにでも大事に抱えていたのも無駄だと思い知らされる。


「何の用ですか。マリカ様方は、どう過ごされていますか」

「マリカ様に、を渡されたとか……」


 彼と母の間に、もはや挨拶などは不要だった。再会を喜ぶ言葉も、同様に。母のやり方は絶対に間違っていると思うけど、忠誠の対象だけは彼と同じだ。全ては王妃と王女のために――その一点だけが、彼らを辛うじて繋ぎ合わせているようだった。


「ええ。……使い方を、お伝えしなければならなかったわね。その時間がなくて少し心配だったわ。お前がいて、良かった……!」

「マリカ様が、母君様のお茶に貴女の薬を入れてしまいました」

「え」


 母の頬が、王女の名を聞いて緩み――そしてすぐに、彼の言葉に強張った。目を見開き唇をわななかせるその表情に、ラヨシュの嫌な予感はいよいよ強まる。王妃はもう目覚めることはないのではないか、という予感。あまりにも恐ろしくて、王女の前で口にすることも、心の中で考えることすら憚っていたものが、彼の中でこごっていく。恐怖だけではない、怒りも憎悪も膨れ上がって、弱り切った母に向けて放たれる。


「元気が出る薬だからと、母君様のために、と……。一体、何をお渡ししたのですか!? 母君を想う王女様の御心につけ込んで……! 王妃様は倒れられて身動きもされないお姿で――助ける術は、ないのですか……!?」


 激情を叩きつけるつもりだったのに、でも、王妃の姿を思い出すとラヨシュの声は弱々しく立ち消えた。助けることなどできないのだろう、と思ってしまったのだ。あんなに青褪めてぐったりとしていたのに、治すことなどできるのか。このような場所に押しかけるより、王女の傍についていて差し上げた方が良かったのではないだろうか。彼はどうして、あの方をひとりにしてしまったのだろう。


「そんなの、無理よ……」


 母の唇から、ぽろりと呟きが漏れる。それはまるで、ひび割れた陶器から欠片が毀れ落ちるかのように。そこに潜む絶望の深さが、ラヨシュの直感を裏付けてしまう。


「キツネノテブクロ、トリカブト、スズラン、蛇の毒も茸の毒も混ざっている。森の呪い婆の秘薬――助かるはずがない……!」

「母さ――」


 髪を振り乱して叫ぶ母に、ラヨシュは思わず手を伸ばそうとした。支えが必要なのかと思ったから。でも、母はその手を羽虫でも叩き落とすかのように撥ねつけた。異様なまでに瞠られた母の目が彼を捉え、歪められた唇の間から白い歯と赤い舌が覗く。そうして吐き出されるのは、つぶてのような呪いの言葉だった。


「王かあの女に飲ませるはずのものだったのに! 憂いを除くための薬だったのよ。あの方を助けるためのものだったのに――どうして、マリカ様が! お前が、ついていながら……!」

「――貴女がしたことです!」


 掴みかかってくる母の手の、爪だけはまだ綺麗な桃色だった。それでも先の欠けた部分は鋭く、彼の肌を裂いた。その痛みをむしろ怒りへの燃料として、ラヨシュは母を突き飛ばした。


「この上陛下やクリャースタ様を害してどうなるというのですか……! その嫌疑が、王妃様に掛からないとでも!? 貴女がしようとしたのは、あの方々を窮地に陥れるだけ――それも、今となっては最悪の結果になってしまった! 王妃様のため? 貴女がクリャースタ様を憎んでいるだけでしょう!」


 彼の力は大したものではないはずだったが、それ以上に母は弱っていたのだろう、あえなく石壁にぶつかると苦痛によってか喘ぎを漏らした。だが、それも一瞬のこと、すぐにまた狂犬のように吠えてくる。


「そんなの……お前が罪を被れば良いことでしょう。お前風情が、命を惜しむというの!? 不忠者――犬を殺したのも打ち明けたそうね、マリカ様たちのお心を乱すなんてなんてことを……っ!」


 不忠の謗りは、かつての彼なら何より恐れたことだろう。母に見損なわれるのも。でも、今となってはそれこそ犬が吠えるのと同じ、うるさく無意味な音の羅列に過ぎなかった。母の語る忠誠とは誤りなのだと、彼ははっきりと悟ってしまっているから。


「それは、間違いだったからです! 罪を償わなければならないと思ったから! 貴女は、罪を認めるということをしないのですか!?」

「主のためを思ってすることが罪なはずはないでしょう!」


 彼の心からの叫びも、母を揺らがせることはできないようだった。あるいは、非に気付いていてもなお、目を背けようとしているのか。目を血走らせて喚く母は、開き直っているとしか見えなかった。自分のしでかしたことをいかに受け止めるか、償うか。ラヨシュでさえも自らの非に気付き、悔やみ、苦しんだというのに。この人は、忠義の名のもとに全ては免罪されると信じ込もうとしているのだ。


 ――この人は、何て……。


 何て、愚かなのか。このような人を信じ続け、慕い続けていた彼も、また。最後の最後に至るまで、母親らしい情を、ほんの欠片でも期待していたということも。考えるべきは母に従うことでなく、何が正しいか、何が王妃たちの幸福になるかだったのだ。自分の頭で考えることができていれば、他者の犠牲の上の幸福などあの方たちが望まないと分かっていただろうに。


「貴女のその考えが王妃様を……! 不忠というなら貴女の方だ!」

「違う!」


 少しでも悔いたところを見せて欲しいのに。身を切るような後悔の痛みを感じて欲しいのに。母はまた言下に彼の糾弾を否定した。引き攣り罅割れたその表情が、しかし、ふと緩んで微笑みを浮かべる。ラヨシュはいつの間にか短剣を抜き放って母に突きつけていた。牢の薄闇の中でも眩い白刃の煌きが、妙に目に刺さる。


「ああ……不忠の上に不孝者でもあるのね、お前は……。良いわ、好きにしなさい。マリカ様がいらっしゃらないこの世に一秒たりともいたくない……!」

「これは――私は」


 短剣を抜いたのは全くの無意識のうちのことだった。母を脅そうとも、まして害そうとも彼は考えていない――つもり、だった。だが、母は口では詰りながら、笑みを深めて彼の方へ足を踏み出した。彼に、というか――彼が掲げた短剣の切っ先へ、自らを、差し出すように。


「怖気づいたの? 愚かな子供……! 私は、恐れたことなどないわ……!」


 意外なほどの力強さで母の手が彼のそれを捉え、左胸へ、心臓の位置へと導いた。


「っひ――」


 刃が布地を裂き肉を裂き、骨を削り内臓に刺さる。手に伝わるその感触は、藁を巻いた丸太を突いたり兎などの小動物を捌くのとは全く違った感触だった。剣身を丸々呑み込んだ肉体は、しかも、彼を生んだ母のものなのだ。

 刃越しに伝わる母の内臓の柔らかさに慄いて身体を引こうとする――が、痩せた腕が蜘蛛のそれのように絡みついて許さない。ラヨシュの記憶にある限り初めての母からの抱擁は、血腥ちなまぐさく狂気と執念に満ちたものだった。


「マリカ様のお供をしなくては……常緑の草原でも……」


 手を濡らす血を、抱きすくめてくる母の腕を振り払おうともがくラヨシュは、でも、譫言うわごとのような、あるいは夢見るようにうっとりとした母の声に、やっと我に返る。恐怖と恐慌を払って胸に湧くのは、母への怒りと反発だ。

 王妃は、まだ辛うじて息をしていた。王女は、泣きそうな顔をしながらも母君の無事を必死に願っていた。生死の狭間で必死に戦っている王妃を簡単に諦め、王女の心痛を軽々と踏み躙るかのような物言い。罪を顧みずこの期に及んでも忠臣を気取る厚顔さ。それを赦せないという思いが、ラヨシュの手に力を与えた。震えることなく短剣の柄を握り、目にも力を込め、既に死後の世を見つめているかのように茫洋とした母の目を、睨む。


「違う。貴女はあの方と共には行けない。常緑の草原ではなく、常闇の荒野に彷徨うのだろう」


 ――そして、私も……!


 言い切ると同時に、ラヨシュは短剣をより深く母の身体に刺し、そして捻った。アンドラーシに教えられた、確実に敵の息の根を止めるための技だ。内臓を掻きまわす感触、一層濃くなる血臭に吐き気と目眩を覚えながらも、力を緩めることはない。母殺しの大罪を彼の身に刻むのだ。母と共に常闇の荒野じごくに行けるよう。死の後であっても、決して王妃たちの妨げとならぬよう。


「私と一緒に……!」

「嫌……止めなさい……!」


 母はきっと、彼の想いなど理解しない。でも、王妃と引き離されるというところだけを聞き取ったのだろう。先ほどは打って変わって、息子を突き放そうと手が拳を握りラヨシュを襲う。けれど、母の身体には既に短剣が深く刺さり、血が大量に失われているのだ。抗議の声ももはや微かなもの、抗うどころか、ラヨシュが突き刺す勢いそのままに固く冷たい石の壁に押し付けられる。


「私が、お供しますから……!」


 泣きながら、ラヨシュは母に何度も短剣を突き立てた。抗う声と動きが止むまで、そして止んでからも。


 気がつけば、狭い房はせ返るような血の臭いに満たされていた。息をするだけで、母の血の味を口の中に感じるかのよう。荒い息を吐きながら床に膝を突けば、血溜まりがぐしゃりと小さな飛沫をあげた。


「すぐに、行きます……」


 既に血濡れた服の袖で涙を、次いで刃の曇りを拭うと、ラヨシュは短剣の切っ先を自身の喉に向けた。

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