第54話 取り残されて マリカ

「お母様、お母様……っ!」


 マリカがどんなに呼び掛けても揺さぶっても、母は答えてくれなかった。床にくずおれたまま、胸元を手で掴む姿で苦しんでいるのだけが分かる。でも、何が起きたのか、何をすれば良いのかはさっぱり分からなかった。

 全身を震わせて、開いた唇から舌を覗かせる母の姿は、明らかに普通ではない。顔色もどんどん青褪めていくばかり、咳込むような音をさせたかと思えば食べたばかりの菓子を吐いてマリカを震え上がらせた。大人がこれほど具合が悪そうなのも、戻してしまうのも、彼女は見たことがなかったのだ。


 ――どうしよう、どうしよう……!


 母の背をさすることしかできない無力が悲しくて悔しくて涙が溢れる。侍女は悲鳴を上げてどこかへ走り去ってしまった。母を助けることができるのは今はマリカしかいないのに、苦しみを除いてあげる術が見つからないのだ。それどころか、彼女こそが母に苦しみを与えた張本人かもしれない――否、そうに違いない。マリカが淹れた茶を口にした瞬間、母は苦しみ出したのだから。


 ――どうして……!?


 それもまた、彼女には訳の分からないことだった。マリカは、母に笑顔になって欲しかっただけなのに。エルジェーベトとの、親しい侍女との別れを、せめて悼むことができるように。エルジェーベトから託された薬を飲んでもらおうと思っただけなのに。エルジェーベトが母やマリカに悪意があったのか、それとも彼女がとんでもない思い違いを犯してしまったのか。マリカに分かることは何ひとつとしてないけれど。ただひとつ確かなこととして、母は彼女の目の前で、彼女のせいで苦しんでいる。


「お願い、起きて! お母様っ!」


 何度目かに叫んだ時だった。母を覗き込んで俯いたマリカの視界に、影が差した。そして、とても聞きなれた声が耳に届く。


「王妃様……マリカ様! これは、一体……!?」

「ラヨシュ……!」


 ラヨシュは、自室に籠っていたはずだった。犬のアルニェクを殺したことへの罰なのだと言って。その彼が様子を見なければと思うほどに、彼女の声は建物に響き渡っていたのだろうか。扉に手をかけた姿のまま、ラヨシュは床に伏す母とマリカを見て目をまんまると見開いている。


「お母様が、大変なの! 助けて……」


 大切な犬を殺した相手にどう接するか、マリカはまだ決めていなかった。死を望まないのはもちろんだけど、今まで通りに遊んだり甘えたりできるかどうかは分からなかった。でも、そんなことは全て頭から吹き飛んだ。ただひとり、頼れる――母を救えるかもしれない存在に、縋らずにはいられなかった。


「何があったのですか!?」

「分からないの! お茶を飲んだら倒れられて……」


 ――違う、そうじゃないわ……。


 咄嗟の時、母の危機の時だというのに嘘を吐いた自身を恥じて、マリカは声を詰まらせた。茶を飲んだだけ、というのは事実ではない。侍女からはそう見えたかもしれないけれど、自分が何をしたか彼女自身は知ってしまっている。エルジェーベトに渡された薬を茶に溶かしたと、言った方が良いに決まっている。何があったか、全て伝えないと対処もできないだろうと、幼い彼女にも分かるのに。

 でも、言えなかった。ラヨシュは、多分彼女を責めないだろうけど、それでも、驚いた顔や気遣う眼差しを向けられるのが怖かった。彼女のせいで母を苦しませてしまっていると、知られることが怖かった。


「王妃様……失礼、いたします」


 母と同じように――苦しみの程度は絶対に全く違うだろうけど――息を乱して唇を震わせるマリカを他所に、ラヨシュは声を掛けてから母の身体を抱き起してくれた。吐いたもので汚れることがないよう、それに少しでも呼吸が楽なようにだろう、跪いて母の首を支えてくれる。部屋に閉じこもっていたというのに、ラヨシュはしっかりと身支度を整えて、従者の短剣すら佩いていた。心を落ち着けて、処分を待つつもりでいたのだと、そんな佇まいからも察してしまう。


「侍医は――侍女は、誰もいないのですか……!?」

「わ、分からないわ……多分、呼んでくれてると思う……」


 何ひとつ役に立つことを言えない無力さに、マリカの声は消え入りそうにか細いものになる。ラヨシュの方も、彼女を縋るような目で見ているのに。母を助けたいと思ってくれているだろうに、その手掛かりをあげることができないのだ。

 恐る恐る顔を上げて、周囲の気配を窺ってみても人の気配は薄い。最近、母と彼女に仕える者が少なくなっているのも災いしている、のだろう。祖父のことで彼女たちから離れた者もいるのだろうし、小母たちの一件以来、マリカも他人に世話を焼かれることが嫌になってもいる。親しくしていたはずの小母たちや――エルジェーベトやラヨシュも、彼女に見せていたのとは違う顔を持っていた。どうせ裏切られたと感じてしまうなら、誰にも構われない方が良いと思い始めていたところだった。でも、今は見ず知らずの人でも良い、誰でも良いから母を助けて欲しいと願ってしまう。


 ――エルジーは変わっていないと思ったの……それも、間違いだったの……?


 自身の行動を振り返れば、あそこで引き返しておけば、と思う場所が幾つもある。エルジェーベトに薬を渡されて、断っていれば。そもそも会いに行っていなければ。何もかも不確かで信じられないのが辛くて悲しくて、親しい侍女の変わらぬ優しい声に救われたと思ったのに。やはり何者も信じてはいけなかったのか――違う、子供の癖に何かが分かるとかできるとか、そんな思い上がりをしたのがいけなかったのだろう。認めたくないこと信じたくないことでも、父も母も結局正しかった。受け入れることができなかったマリカはどうしようもなく幼稚な子供で、意地と我が儘を通した末に母がこんなことになってしまった。


「あ、あの……王女様……それに、ラヨシュも?」


 と、上擦った女の声が耳に届いてマリカは勢いよく顔を上げた。母が倒れた時に走り去ってしまった侍女が、戻ってきたのだ。開け放されたままの扉に、最近閉じこもったきりだったラヨシュが外に出ているのを見て戸惑っているらしい。


「お医者様は!?」


 侍女が出て行ったのは、きっと医者を呼ぶためだろう。母を助けてくれるのだろう。そう考えて、マリカは跳ねるように立ち上がると侍女に駆け寄った。だが、侍女の顔色は冴えず、曖昧な笑みを口元に浮かべただけで首を振る。


「それが……クリャースタ様が急に産気づかれたとかで、人はそちらにかかり切りで……どこも慌ただしくて、どこへ行けば、誰を頼れば良いのか……」

「そんな……っ!」


 ――ひどいわ……!


 何がひどいのか分からないまま、マリカは激しい感情に突き動かされて足を踏み鳴らしていた。頼りにならない侍女がひどいのか、母が危ない時に誰もこちらを顧みてくれないのがひどいのか。父は一体どこで何をしているのか。自身が全ての元凶であるのも忘れて、世界の何もかもが理不尽に彼女と母に背を向けているように思えて、その理不尽が恨めしくてならなかった。


 侍女を詰りたかったし、そしてそれ以上に取りすがって乞いたかった。もっとちゃんと走り回ってくれるように。母を助けられるよう、もっと力を尽くしてくれるようにと。でも、マリカの心はあまりにも荒れ狂っていて、そこから言葉を見つけ出して、まして舌で紡ぐことなどできなかった。

 だから、声を出すのはマリカよりもラヨシュの方が先だった。


「王家付きの侍医の方々が無理でも、とにかく医術の心得のある方を……! 兵舎では怪我人の手当てをすることもあるし……学者の方は? 文書院とか……庭師なら、薬草のことも知っているかも……!」


 声が上擦っているのはラヨシュも侍女と同じだった。早口でどもりながらで、動揺しているのはマリカの目にもよく分かった。でも、この場で目を開けている者の中では、誰よりもしっかりとした意見で、はっきりとした提案だった。侍女の表情が明らかに緩んで、微笑みさえ浮かべたほどに。困り切っていた者にとって、どうすれば良いか道を示されるというのは救いなのだろう。


「そ、そうね……もっと、人を当たって、探さないと……」


 侍女はしきりに頷きながら、また走って部屋を出て行った。人を呼ぶような声がしたのは、他の使用人にもラヨシュの言葉を伝えているのだと思いたかった。すっかり少なくなってしまった使用人たちでも、手を尽くせば頼れるものを連れてきてくれるだろう、と。


 マリカとラヨシュは、耳を澄ませる犬のように揃って顔を上げて侍女の足音が遠ざかるのを聞いていた。どうか誰か助けて欲しいと、祈るような思いを多分同じく抱きながら。そして部屋が静寂に――母が苦しむか細い吐息と、子供ふたりの荒い息の音を除けば――包まれてやっと、ラヨシュはマリカを見下ろした。


「マリカ様、私も人を探しに走った方が良いのでしょうが……でも……」

「ラヨシュ!」


 目が合ったのを契機に、マリカはラヨシュに飛びついた。ふたりきりになった今でしか言えないと思ったのだ。それでも、誰も聞いていなくても、背伸びをしてラヨシュの耳元に唇を寄せて、囁くような小さな声でしか打ち明けることができなかったけれど。


「あ、あのね……私の、せいなの! お母様がこんなになってしまわれたのは! エルジーからもらった薬をお茶に入れてしまったの。きっとそれが……あの、良くなかったんだと、思うの……」

「母が……!?」


 そして打ち明けた瞬間にも、後悔の波がマリカの胸に押し寄せる。エルジェーベトはラヨシュの母で、しかも間もなく死を賜るのだとふたりとも知っている。こんな時にこんな形で、その名を聞かせるべきではなかったのだ。


「あの、ラヨシュ……」

「母に会われたのですね。どこにいましたか?」

「庭の、北の方……今まであんまり遊んでいなかったところ。見張りがたくさんいて……石の牢屋……地下牢よ。地面の高さに窓があって、話せたの……」


 すぐに謝ろうとしたのに、でも、マリカの舌が動くよりも早く、ラヨシュは険しい表情で問い詰めてきた。見たことのないほどの真剣な表情に、考える前に答えてしまっていたほどだった。ラヨシュがどうしてこれほど怖い顔をしているか分からなかった。彼の母のことを聞いて喜ぶのでも悲しむのでもなく、どうしてこんな顔をするのだろう。


「どのような薬でしたか」

「粉の……あの、元気になる薬だから渡して、って言われて……だから、お母様に差し上げなくちゃ、って思って……」


 詰問されるままに答えると、ラヨシュは険しい顔のまましばらく考え込んでいたようだった。額に皺が寄るほどぎゅっと目を閉じて――それが開かれた時には、すでに彼は何かを決意したらしかった。


「……では、母のところに行かないと……!」

「ラヨシュ? 止めて、置いて行かないで……!」


 マリカが訝しむ間に、ラヨシュは母の頭を床に横たえると立ち上がってしまう。その動きにも目を開けない母に心を痛め、案じて手を伸ばしながらも、マリカは彼に取りすがろうとする。手は母のために塞がってしまっているから、声だけで乞うて。

 でも、彼女が見上げる先で、ラヨシュははっきりと首を振った。


「申し訳ありません、マリカ様。本当なら他の者を、お傍にいられる者を探してからでないといけないのでしょうが。でも、ことは一刻を争います。母の……その、薬とやらが原因なら、母に聞けば何か手掛かりが掴めるかもしれません」

「でも……」


 ラヨシュの言うことは、多分正しいのだろうとは、思う。マリカの傍にいて欲しいというのは、彼女の勝手に過ぎない。王宮の造りをよく知っている彼のこと、彼女の傍で何もしないよりは、頼れる人を探してもらった方が良いに決まっている。まして探す相手がエルジェーベトとなれば、会いに行ける者は限られる。だって牢に捕らわれた囚人なのだから。息子が、王妃の大事で訪ねて来たのでもなければ、簡単に通してもらえるものではないはずだ。


 でも、それを分かった上でも、取り残されるのは怖かった。母とふたりきりにされるのが、彼女がしたことの結果を、ひとりで受け止めなければならないのが。


「マリカ様は、どうか王妃様についていて差し上げてください」

「うん……」


 母をひとりになどさせられないのも、分かる。分かるし、そんなことはできない、とも思う。もしものことがあった時には――どんなことか、具体的には考えたくもないけど――絶対に、傍にいる者がいなくてはならない。


「なるべくすぐ戻ります。……どうか、お気を確かに……!」

「うん。……ラヨシュ、お願い……!」


 ――嫌……行かないで……!


 分かった上でも叫びたかった、口をついて出そうになった言葉を、マリカは必死に飲み込んだ。彼女の我が儘で、貴重な人手を無駄にする訳にはいかないのだ。ラヨシュには、行ってもらわなければならないのだ。

 どうか早く戻って欲しい。そう、心から願いながら、マリカは駆け出したラヨシュの背を見送った。




 今度こそ本当に静まり返った部屋の中、母の頬に恐る恐る手を伸ばすと、手に触れる感覚は驚くほど、恐ろしいほど冷たかった。


「私の、せいだわ……」


 その母の頬に、ぽたり、と水滴が落ちる。マリカの頬から零れ落ちた涙の雫だ。他の者と話している間は忘れられていた恐ろしさと悲しさと後悔が、いよいよ強く彼女を苛んでいた。


『あなたのせいでは……な、いわ……』


 母は意識を失う前にそう言ってくれた。でも、それはとても優しい母だからこそ言ってくれたことにすぎない。誰が何と言おうと、これはマリカのせいなのだ。マリカのせいで、母は――死んで、しまうのだろうか。


 ――ごめんなさい……!


「お母様……!」


 涙に喉を詰まらせながら叫んでも、母は目蓋を動かすことさえしてくれなかった。

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