第53話 選択 ファルカス
「来たか」
アンドラーシの訪れを侍従に告げられて、ファルカスは筆を置いた。やっと戻った王都の執務室にて、山と溜まった書類の決裁を進めている最中でのことだった。剣や槍を握る時とは違う疲れが溜まり始めていた手を開閉させながら、入室を許して良いと目で促す。
もともと、アンドラーシは大した用がなくてもふらりと彼を訪ねてくることが割とよくあった。執務の息抜きに相手をするか、誘いに乗って狩りや遠乗りに出ることにするか、あるいは邪魔だからと追い返すか。どのような対応になるかはその時々によって違ったが、多少邪険に扱ってもアンドラーシが懲りるということはなかったし、王の機嫌を憚ることなく――本人は否定するかもしれないが、あの男の態度は畏れも遠慮もないとしか思えない――近付いてくる臣下というのは、それはそれで得難いものなのかもしれなかった。
「陛下、ご機嫌麗しく――」
「麗しくはないが、まあ良い。座れ」
片付けねばならぬ政務が溜まっているのはもちろんのこと、リカードの乱に加わった諸侯で、罪の程度をこれから量らなければならない者も残っている。領地や財産の分与も面倒だし、まだ何人かの首が飛ぶことにもなるだろう。シャスティエの子が生まれるからと、恩赦を期待する者もいるかもしれない。
だが、ファルカスとしては慶事に先の乱の影を落とさせる気は一切なかった。王子だろうと王女だろうと、彼の子の誕生を罪人が生き残る理由にして堪るものか。そしてその思いを通すなら、子が生まれる前に全ての決着をつけておかなければならない。順調に行ってあとひと月あるかどうかだという猶予を、一時たりとも無駄にすることはできないだろう。
「例の件だな。適役は見つかったか?」
「は。家と本人の経歴をまとめたのでご覧くださいませ」
「うむ」
そのような状況はアンドラーシも承知しているはずだから、いつもとは違ってただの息抜きだけを口実に王の執務室を訪れるなどあり得ない。あらかじめ命じておいたことの算段がついたのだろうと考えたのが、どうやら当たっていたようだ。
アンドラーシが差し出した書面を開き、文字を追いながら、ファルカスは言葉でも臣下に問いかけた。紙に記されたことではなく、信頼できる者からの意見を直に聞いておきたかったのだ。
「当人に会ったことはあるのか。信用できそうな者か?」
「臣が顔を合わせたのは数度ですが、妻が言うには実直な者だと。子供がいないのが悩みだったそうで、名前だけでも家が続くなら願ってもない、とも申しておりました」
「そうか……」
アンドラーシに探させていたのは、例のラヨシュという子供を預ける先だった。実際の養育、というか見張りはアンドラーシに任せるとして、王女の傍に仕えさせても問題がないだけの体面を整える必要があったからだ。罪人の子、という出自は伏せるにしても、素性を明らかにできない子供を預けられる家を選ぶのは中々に気を遣うことだった。どうせならアンドラーシに近しい者――バラージュ家の家臣から選ぶのが良いだろうと考えたのだが、本人よりも妻のグルーシャの証言の方がアテにできたということかもしれない。
ファルカスが書面に目を通す、その間の沈黙を破ってアンドラーシが呟いた。
「陛下があの子供のためにそこまで御心を砕かれるとは、意外なことでございました」
「子供のためではないぞ。マリカのためだ」
――意外というならお前のほうだろうに……!
アンドラーシの、やや歪な手跡を目で追いながらファルカスは少し苦笑した。歪と言っても、これでかなり上達したのだ。十年以上に渡って、本当に彼に仕えたいなら武だけでなく文も磨けと口うるさく命じてきたのを、受け流してきた男だというのに。それが、最近になって良家から妻を娶ったと思えば、戦場でも空いた時間を見つけて文字を書く練習をしていたらしい。急にマシになった手跡は、妻と釣り合おうとするための努力の賜物だ。ひたすら剣を振るうことしか知らなかった男の変わりようを思えば、可愛らしいとさえ思えてくる。
「いえ、何も含みはございません。ただ、陛下のご慈悲とご寛容に感謝申し上げているまででございます」
「それも、マリカのためだ。お前に配慮などするものか」
アンドラーシの言葉は本心からのものらしく、この男にしては珍しいほど神妙に目を伏せ頭を下げている。その殊勝さをばっさりと斬り捨てる振りで、ファルカスは内心でこの変化にも目を瞠っている。ミーナの護衛を一時任せていた縁でラヨシュという子供を預けたものの、アンドラーシは当初、どう見てもその役目を面倒がっていただけだった。それが変わったのは、ブレンクラーレへの遠征で彼が国を空けていた間のことだったのだろうか。
――あの子供は、ミーナのためにリカードを裏切ったのだったな……。
犬を殺した犯人だと聞かされて、正直に言えば不快も不安も怒りもあったのだ。マリカの悲嘆はもちろんのこと、離宮の庭先で毒が使われたと知ったシャスティエの怯えようも見るに堪えないものだったのだから。
だが、殺してしまえ、と断じるにはマリカとミーナの願い方はあまりにも真摯なものだった。彼女たちの父と祖父を奪った後で、これ以上の心痛を味わわせないために何でもすると誓っていたところでもあった。アンドラーシから子供の様子を聞いていたことで、生かしても大丈夫だろうと思うことができたのは、ファルカスにとっても僥倖だったのだろう。
ともあれ、過去のことに想いを馳せている間に、ファルカスは書面をひと通り読み終えた。子供の形式上の親になる者は、代々バラージュ家に仕えて信頼も篤い者だという。一方で務めは領内でのことに限られて、かつてバラージュ家の主筋だったティゼンハロム侯爵家との関りはないという。更に加えて、グルーシャが保証する人柄だというなら――
「――問題はあるまい。処刑が終わったら子供をバラージュ家に移せ。新しい名前に馴染んだ頃に、またマリカに仕えさせる」
「仰せの通りに。――で、いつになるのでしょうか」
誰の処刑か、とはお互いに口にしない。息子の処遇を語った直後にその母を殺す話をしようというのだ。名を明らかにするのは何となく憚られた。そもそも、あのエルジェーベトという女の言動のおぞましく理解しがたいこと、好んで語りたいようなものではない。
「明日にでも。これ以上生かしておく理由はないからな」
シャスティエを最後に訪れた日を頭の中で数えながら、ファルカスはアンドラーシに答えた。もう三日も会っていない。ならば、側妃が王妃の乳姉妹を殺すようにせがんだなどと言われる恐れはないだろう。ミーナも――納得した、とまでは言わずとも――あの女に別れを告げたということだった。もはや聞くべきこともない以上、あの女が生きて息をしているということ自体が耐えがたく許しがたい。
「なるほど。……早いに越したことはないのでしょうな」
アンドラーシも、眉を顰めつつもあっさりと頷いた。この男が心を痛めたとしても、それは母を亡くすことになる子供に対してのもの、別に女を悼んでのことではないのだろう。
――悼むとしたら、ミーナとマリカか……。
乱の鎮圧に発つ前に比べれば、妻子に嫌われ憎まれるという恐れは減じている。夫婦や親子として繋がりがある者を簡単に憎むことができるほど、人の心は単純ではないらしい。だが、だからこそ複雑な思いに引き裂かれ千々に乱れる心に寄り添わなければならないのだ。妻子から多くを奪った彼がそれをするのが、どんなにおこがましいと思えたとしても。彼のほかにできるものはいないのだろうから。
今度は未来に意識を向けて――果てしない道程に目が眩む思いがするのを抑えて、ファルカスはアンドラーシに手を振った。王が思い悩むところなど臣下に見せるものではないし、要件は済んだのだから、もう追い出してしまおうと。
「……お前も忙しいのだろう。下がって為すべきことを為すが良い」
「――陛下!」
だが、アンドラーシが答える前に、執務室の扉が勢いよく開かれた。王がいるのを承知していながらのこの非礼に、ファルカスはひどく嫌な予感を覚えた。
「何事だ!?」
立ち上がりながら、転がるように跪いた男を詰問する。官吏のひとり、王宮の奥向きを取り仕切る者だ、という記憶はある。しかし、その官吏がどうしてこのように急いでいるのか、その理由が分からなくて苛立ちが募る。
何を置いても王に知らせるべき一大事など、もはやそうそう起きるはずがないのだ。リカードの残党に大した力がないのは分かり切っているし、わずかに戦場を逃れた者たちも、続々と捕らえられているとの報が入っている。ブレンクラーレの陰謀も潰えたし、ミリアールトもイルレシュ伯の訃報以来、沈黙を守っている。国境も安らかで、イシュテンの国内にも今さら王に背くような諸侯はいないはず。となれば――
「クリャースタ・メーシェ様が産気づかれました……! ただ今、離宮に侍医が詰めて御子を取り上げんとしております!」
「何だと……!」
その官吏が務める場所を思えば、可能性は絞られるはずだった。王宮の奥、王の妻子、とりわけ、懐妊中の側妃のことではないか、と。だが、信じたくもないことでもあった。ブレンクラーレに奪われたのを取り戻し、リカードの乱を鎮め、やっと子が生まれるのを待つばかりになったというのに。
「まだひと月はあるという話だっただろう! 早すぎる!」
二の句を継ぐのは、ファルカスよりもアンドラーシの方が早かった。考えたことは、同じではあったのだろうが。頭に浮かんだことを躊躇うことなく口に出せる気軽さは、彼にはなかった。
「側妃は……子は、無事なのか……!?」
早産などよく聞く話、どうせ無事に済むだろう、と考えられればどれほど良いか。単に、子が間もなく生まれることを報告しに来ただけだというのなら。だが、それにしては官吏の声も表情も張り詰めて、どこか悼むような色さえ見て取れた。何を悼むというのか、考えることすら厭わしく苛立たしい。
「最善を尽くしているとのことでございます。……が、何分、急なことですし、その、
「それを俺に聞かせて何とする。いちいち報告する暇があれば最善を尽くせ」
男には馴染みのない出産のことを、官吏はひどく言いづらそうに奏上した。それを早口に遮ったのは、ファルカス自身にも子供の駄々でしかなかった。聞きたくないことを耳に入れるな、という、身勝手な我が儘でしかない。聞かなかったところで事態が変わる訳ではないと、分かり切っているというのに。
事実、官吏は王の癇癪にも口を閉ざすことはなかった。勘気を恐れてはいるのだろう、額に汗を浮かべ声を震わせながらも、答えを寄越せと食い下がる。彼でなければその判断を下すことができないからだ。それが何なのか、ファルカスにも分かってしまう。きっと、侍医たちもその答えを待っている。彼に、妻と子のどちらを見捨てるか選べというのだ。
「万が一、ということがございます。
「どちらもに決まっている! 両方を救うのが役目だろうと伝えよ!」
拳を卓に叩きつけて叫ぶと、墨壺が倒れて零れたインクが書類を汚した。恐らくは重要なものであったはずのそれに何が書いてあったのか、さっぱり思い出せなかった。全てに片がつき、安寧も間近だと――妻子の心を慮り慰めることだけに専心しようと考えていたのは、幻に過ぎなかったのだ。
「陛下……!」
喚き散らしたところで、現実は何ひとつ変わらない。アンドラーシもさすがに目を瞠ったまま沈黙を守り、官吏は懇願の表情で王の答えを待っている。答えを急がせるその態度こそ、状況が逼迫していると伝えていてファルカスの焦燥を募らせる。
――選べというのか……!?
必ずこの場で答えなければならないと悟らされて、彼の脳は目まぐるしく動いた。目の前のことさえ何ひとつ見えなくなるほどに、自身の思考に没頭する。
夫が我が子を見捨てることを、シャスティエは決して許すまい。その子はミリアールトの王家の血を引く子でもあり、イシュテンにとっても待望の王子なのかもしれない。王族の男児は、何にも――母の命に代えても助けるべきと、イシュテンの王は考えるべきなのだろう。
だが、王女だったらどうだろう。ファルカスはこれ以上妃を増やすつもりはない。ミーナを脅かすことなく、生さぬ仲の王女たちをも慈しむ女など見つかるはずがない。否、理屈で考えるまでもなく、今のふたり以外の妻など彼の心が欲しない。ならばシャスティエを慰めて、次の子に望みを繋ぐべきか。
――違う……王女なら見捨てて良いということではなく……!
必死で思考を巡らせているつもりなのに、考えがさっぱり纏まらない。ただひとつ確かなのは、彼は妻も子も失いたくないということ。子を亡くした母の悲嘆など見たくないし、子に母の命と引き換えに生まれてきたのだなどと教えたくはない。
生かすなら、どちらも。その結論は分かり切っている。だが、それは通らぬことも理解している。王であろうと武に長けようと、この世は何もかも思い通りに運ぶ訳ではない――それを、今、このような形で知らされるとは。
「……どうしても、の時は……母親を、助けよ……」
ようやく歯の間から絞り出すと、官吏は慌ただしく退出の辞を述べて去っていった。離宮へと駆け戻ろうというのだろう。彼の子を死なせるために走るのだ。命じたのがほかならぬ彼である以上は、恨むなど筋違いも良いところなのだろうが。
「陛下……」
これもまた非常に珍しいことに、アンドラーシが気遣う口調で呼び掛けている。常に言葉を取り繕わない男が、さすがに何を言えば良いか迷っているようだ。何かしら命じて、務めを与えてやるのが良いだろうと思うのに、しかし、ファルカスの方でも言うべき言葉を探す気にはなれなかった。
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