第52話 自分の足で ウィルヘルミナ
ウィルヘルミナの部屋の机の上には、何通かの手紙が積み重ねられている。その中には、開封さえされていないものもある。早く内容を確かめて、返信を
――読みたく、ないわ……。
ティゼンハロム侯爵領に捕らわれた母や姉たちからの手紙だった。そもそもおおよその内容は、開封するまでもなく分かり切っている。彼女たちの待遇の改善と、姉の夫や子供たちの助命の嘆願だろう。娘だろう妹だろう、身内の危機にどうして黙っているのだと、矢の催促が来ているに違いない。
ウィルヘルミナも、母や姉たち、その夫や子供たちのことを肉親だと信じて慕い、尊敬し、あるいは可愛がってきた。血の繋がりは、今も否定することはできない。彼女の身体に流れる血は確かに両親から受け継ぎ、兄姉たちと分かち合うもの。そして、だからこそ彼女の評判を下げ、立場を危うくしているものでもある。
でも、それだけなら自身の無知と無為の代償として受け入れることができたはずだ。ウィルヘルミナが母たちに手を差し伸べる気になれないのは、父の所業の残酷さ浅ましさに委縮しているからとか、身内を斬り捨てて保身を図ろうとか、そういう理由からではない。そもそも、誰も彼女のことを家族と思っていなかったのではないかという恐ろしい考えを、頭から追い出すことができないのだ。
――お母様はご存知だった……それなら、お姉様たちだって……?
最後に会ったエルジェーベトは、父との関係について
ウィルヘルミナにとって、母は時に厳しくも優しく慈愛に満ちた人だった。姉たちにも可愛がってもらっていた、と認識している。それぞれに夫を支え家を切り回す彼女たちに対しては憧れる思いもあった。……父と夫に甘やかされて、姉たちのような不満や悩みを抱かなくても良かったのを単に幸運で幸福だと捉えていたのは、完全な過ちだったと思い知らされたけど。
でも、多分彼女を甘やかしていたのは父と夫だけではない。母も姉たちもエルジェーベトも、よってたかってウィルヘルミナの目と耳を塞ぎ、何も考えないように仕向けていたのだろう。人形ではない、と。牢でエルジェーベトに対して口走ってしまったのは、後になって考えれば考えるほど的を射ていたのではないかと思えてくる。父にとって実家にとって、都合の良い人形でさえあれば良いと、家族の全員に思われていたのではないだろうか。だからこそ、この期に及んでも娘、あるいは妹が自身の頼み事を聞くものと信じて疑っていないのではないだろうか。
家族から家族と思われていなかった、意思や心のある人間とは扱われていなかったと突きつけられるのは辛く悲しいことだった。少し前までのウィルヘルミナなら、嘆きにうちのめされて憂いに沈み込んで、浮き上がることなどできなかったかもしれない。
――自分の足で立って、自分の頭で考えるのよ。
けれど、彼女はもう変わることを知ったはずだった。あの牢の中でエルジェーベトに告げることができたように。あの時、思わず口をついて出た言葉を胸の中で繰り返す。
エルジェーベトとの最後の会話にも収穫はあったし、彼女の家族はまだほかにもいる。娘のマリカと、愛する夫。罪人の血を引く彼女を見捨てないでいてくれる人のためにも、悪いことばかりに目を向けてふさぎ込むことなどあってはならないはずだった。
エルジェーベトとのやり取りを報告すると、夫は意外にも全く怒らなかった。どれほど恐ろしい顔をするか怒声を浴びることになるかと、ウィルヘルミナは内心震えていたというのに。
一日の政務を終えた夫を迎えて、椅子を勧めることさえ忘れて牢であったことを訥々と語った彼女に、夫は辛抱強く付き合ってくれた。話が前後した部分もあったし、動揺に涙ぐみそうになったこともあったし、きっと分かりづらかったと思うけれど。
『ああ……リカードの血筋のことには確かに気が回っていなかったな。名は変えさせるとはいえ、万一の場合にはっきり否定できるに越したことはない。――よく、気づいてくれた』
『あの、お怒りではないのですか……?』
ラヨシュの父親の話にあっさりと頷いた夫に、この方も父の不義を知っていたのだと知らされてウィルヘルミナの心はまた痛んだ。でも、その部分は彼女も言い淀むことなく言えただけまだ良かった。彼女にとっても夫にとっても不都合はなく、むしろ喜ばしい報告だったのだから。でも、もうひとつの方は話が全く違ってくる。
『エルジェーベトは……ファルカス様に、あの、ど……毒、を……』
『いかにもあの女の考えそうなこと。別に驚くようなことではない』
『驚くかどうかではなくて……』
エルジェーベトが――彼女の乳姉妹、かつてのこととはいえ最も近しかった者が、夫の死を望み、彼女自身が手を下すように唆してきたのだ。その事実、忌むべき企みを耳に入れられたというだけでも、罪深さに恐れ慄く思いがするのに。なのに、夫は彼女が言い淀む理由が分からないとでも言いたげに、首を傾げて見せたのだ。
『お前はその毒を受け取ったのか? 父の仇を取ってやろうと、一瞬でも頭を掠めたのか?』
『いえ……!』
『ならばお前には罪はない。あの女の――他の者がしたことまで、お前が背負う必要はないのだ』
そこで初めて立ったままだったことに気付いたのか、夫はウィルヘルミナの手を取ると椅子へと導いてくれた。かつての悩みなどなかった日々のような優しい仕草――でも、それも全く変わりがないということではない。ウィルヘルミナの手に触れる夫の力はごく弱く、壊れ物を扱う時のようだった。多分夫は、彼女との絆が壊れないかを恐れていたのだろう。ウィルヘルミナも同じだからよく分かった。以前と同じように手を握って良いものか、抱きついて愛を囁いても良いものか。
ふたりして長椅子に落ち着くと、ウィルヘルミナの顔を間近に見つめて、夫はしみじみと呟いた。
『俺は、お前に憎まれることを長く恐れてきた。だが、憎まれないことこそ恐れるべきなのかもしれないな』
『ファルカス様……?』
『俺を責めない分、お前は自身を責めているのではないか? ……どうも俺は、妻たちにそのような思いをさせてばかりだ……』
『だって……父のことは……仕方ない、ことですもの……』
シャスティエのことを仄めかされて、ウィルヘルミナの胸はちくりと痛んだ。嫉妬のためだけではない。夫の手によって肉親を殺された――ある意味で、彼女と同じ悲しみを負っている方が、どのようにそれと向き合っているかに思いを馳せずにはいられなかったのだ。
シャスティエも、仕方がないと言うだろうか。国の平穏やあの方自身の御子のために、血を分けた従弟の命は諦めるべきだ、と。多分、シャスティエは賢明にそう言うのだろう。でも、全くの他人ではあるけれど、ウィルヘルミナにしてみれば、少し違うのではないか、悲しみも憤りも正当なものなのではないか、とも思えて――そして、思い至った。夫やシャスティエが彼女を見れば、同じように見えるのかもしれない。
『お前は怒ることを学んでも良いかもしれぬな。良い教師もいることだし……』
『シャスティエ様のことですか……!?』
あの礼儀正しい方が怒るところがどうも想像できなくて、ウィルヘルミナは口に手をあてて小さく叫んでしまった。確かに、一族の女たちから彼女とマリカを救ってくれた時のような毅然とした態度は、とても羨ましいと思うのだけど。そして、完全に飲み込むことはできないままではあっても、学ぶ、という言葉には心が少し浮き立った。彼女には学ばなければならないことが多すぎるから。
『そうだ。……怒るのも、楽しいことではないのだろうが。だが、俺としては妻に泣かれるよりは怒鳴られた方が良い、な』
『そんなことはしませんわ』
夫が微笑みながら言うことが冗談か本気か分からなくて、とりあえず本気だと思うことにして、ウィルヘルミナは生真面目に首を振った。何があろうと、夫を怒鳴りつけるなど思いもよらない。――でも、夫が言わんとすることは、何となく分かった気もした。
『泣くよりも怒るよりも――笑っていた方が、お好みですか?』
『無理に笑うのは好まない。だが、そう――要は、思ったこと感じたことをもっと表に出しても良いということだ。お前の本音がどうであれ、俺が嫌うことなどあり得ない』
夫の声に潜む真摯さを聞き取って、ウィルヘルミナは頬が熱くなるのを感じた。余裕のある微笑みはほんの表面だけ、そのすぐ下に、妻の心をほぐそうとする必死さが、あった。それに、多分怯えも。さっき手を取られた時と同じように、彼女との繋がりを保つ術を、夫は探しているのだ。
『あり得ない、なんて。簡単に仰ってはいけないと思いますわ……』
俯いて囁くのは、照れ隠しに過ぎなかった。本当は、もっとはっきりと答えて差し上げなければいけないと思ったけれど、でも、これが彼女の精一杯だった。あまりにも恥ずかしくて、嬉しくて。
それ以上のことは、その夜はとうとう言うことはできなかったのだけど。こうまで想ってくれる方を生涯愛そう、と。ウィルヘルミナは心に決めたのだった。
母たちからの手紙の束を、ウィルヘルミナは思い切って手に取った。自分の思いを出しても良いのだと夫は言った。彼女自身も、そう思う。もう父にも母にもエルジェーベトにも頼れない。守ってもらえない。自分自身で歩く人生の、その最初の一歩として、何をすれば良いだろう。
「みんな、ひどいわ……」
彼女の心に渦巻くのは、父を失った悲しみだけではない。家族からの侮りを感じたこと、自身を取り巻く状況についてきちんと教えてくれなかったことへの憤りも確かにある。かつての彼女ならば、自身の愚かさが悪いのだと嘆くばかりだっただろうし、今でもそう思った方が楽なのは気付いてしまっている。でも、身勝手に思えたとしても、怒りという感情も、抱いても許されるのだろうか。
――私が怒っていると、手紙に書く? いいえ、お母様たちが聞いてくださるはずがない……!
末娘の初めての反抗を、母たちが取り合ってくれるとは思えなかった。笑うか呆れるか、叱り飛ばすか――いずれにしても、彼女の思いが理解されることはないだろう。それなら――
「本当に大事なことなら、どうせまた送ってくるわ」
自らに言い聞かせると、ウィルヘルミナは灯りを引き寄せ、手紙の束をそれにくべた。乾いた紙の束は一瞬で燃え上がり、卓上に小さな炎の花を咲かせ、すぐに消えた。
「ふふ……」
残った灰を吹き散らすのは、どこか爽快でウィルヘルミナの口元を笑ませた。親からの手紙を無視するのも、更にはそれを燃やしてしまうのも、許されざる非礼であり蛮行なのだろうけど。思いのままに振る舞ってみる、というのは今までの彼女がしなかったことで、そしてきっと必要なことでもあるのだろう。
「あ、お母様、笑ってらっしゃる!」
「あら、マリカ」
と、高い声が響いて、ウィルヘルミナはその声の源へ目を向けた。見れば、娘のマリカが銀の盆に茶器を乗せてしずしずと母の元へ歩み寄って来ている。大人の手伝いをしようと背伸びをする子供の愛らしいこと、知らず、彼女の頬も綻ぶというものだった。
「今日はどこで遊んでいたの?」
「ええ、ちょっと。あのね、お茶を淹れたの! 飲んでくださる?」
「まあ、もちろんよ」
手紙の灰がわずかに残る卓に、マリカは盆を置いた。その上の茶器はすでに湯気が立つ茶で満たされている。いつもの葉の香りもまた、ウィルヘルミナにとっての慰めになる。
「王女様が御自ら母君様のために、と仰ったのですわ」
「まあ、そうなの。マリカ、ありがとう」
娘が母を気遣って淹れてくれたというならなお更だ。打ち明けてくれた侍女にも微笑みながら、ウィルヘルミナはマリカに心からの礼を述べた。
――マリカのためにもしっかりしなければいけないし……新しい人にも慣れなければいけないし……。
エルジェーベトや、実家から送られてきた気心の知れた侍女はもういない。王妃と王女に仕える者の数自体も以前に比べれば減っている。何事も先んじて気を回してもらうのではなく、彼女が主として采配できるようにならなければ。実家とは関わりのない、馴染みのない者たちとも信頼関係を築いていかなければならないし。
なすべきことは多く、困難なのは分かり切っている。それでも苦しいだけでなく、やりがいがある――楽しいことなのかもしれない、と思いたかった。
茶の香りを楽しみながら、未来に為すべきことを思い描きながら、ウィルヘルミナは娘の茶を飲み干した。
「――とても美味しいわ、本当にありがとう」
「お母様、元気になった?」
マリカ自身も茶器を手に取りながら尋ねてくる。それに、もちろんよ、と答えようとして――
――え……?
ウィルヘルミナは、自身の声が出ないことに気付いて愕然とした。茶を飲んだばかりだというのに、喉が干上がって――というか、見えない手に締め上げられているかのよう。
「お母様……?」
マリカの表情が不安げに歪むのと同時に、ウィルヘルミナは咄嗟に手を伸ばして娘の手から茶器を跳ね飛ばしていた。まだ熱い茶が彼女の手を灼き、飛沫が辺りに飛び散る。床に叩きつけられた茶器が砕ける音が、どこか遠く、ゆっくりとして聞こえた。
「お母様! どうしたの!?」
マリカが叫ぶ声も、駆け寄ってくる気配も遠い。ただ、自身の心臓が脈打つ音だけが頭に響いていた。早すぎるし激しすぎる。心臓が壊れるのが先か、息が詰まるのが先か、いずれにしてもそう遠いことではないのは我が身のことだからよく分かった。
「マリ、カ……これ、は……」
茶を飲んだらこうなった、ことは分かる。娘が彼女を害そうとしたなどとは思わないけど、でも、だからこそ危険なものだと伝え切らなければ。侍女が悲鳴を上げて人を呼ぶのを、ウィルヘルミナは気配としてだけ感じ取っていた。誰か、頼れる大人が来る前に、娘に危険が及ぶのだけは避けなければならなかった。
「あ、あの……エルジーに、会いに行ってしまったの……。お母様に、って……元気になる薬だから、って言われたから……っ!」
――ああ、エルジー……!
それだけで、おおよそのことは察することができた。エルジェーベトにとって、彼女が元気になるということは、
「お母様、大丈夫!? お、お薬じゃ……ない、の……?」
「あ……マ……リカ……」
――エルジェーベト、何ということを……!
この苦しみを、夫やシャスティエに味わわせようとしていたこと。こんな危険なものを、そうと知らせずマリカに託したこと。それらに対する憤りは、彼女がこれまで感じた中でもっとも激しいものだっただろう。そして最後のものになるのだろうという、確信もあった。
「あなたのせいでは……な、いわ……」
最後に何よりもしておかなければならないのは、娘に罪の意識を感じさせてはならないということだ。母として、絶対に。破裂しそうな心臓と肺をから、必死に絞り出した声は、でも、娘に届いたかは分からなかった。霞んでいく視界に見えるマリカの顔は、涙に濡れて歪んだままだった。
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