第51話 熟れ落ちる シャスティエ

 フェリツィアを膝に乗せて木漏れ日を見上げている、シャスティエの唇からふと溜息が漏れた。


「クリャースタ様? 何かお悩みでも?」

「いえ……何でもないわ」


 案じるように表情を曇らせたイリーナに、シャスティエは慌てて首を振って取り繕った。娘といるのに心を他所に彷徨わせていたのも、母としてあるまじきことだった。フェリツィアを見下ろしてみれば、何も気づかず彼女の金の髪にじゃれついていたけれど。髪の房を口に入れようとする娘を宥め、玩具に気を向けさせようと四苦八苦していると、イリーナがまた気遣う声を掛けてくる。


「陛下は今日もいらっしゃらないのですね……」

「当分、そうなるわ。そう聞いているから大丈夫よ」


 侍女に対して返した声は、必要以上に素っ気ないものになってしまってはいなかっただろうか。何も、夫の訪れがないのを恨んでいる訳ではなかったのに。そもそも、安全が確保されて子の誕生を待つばかりの彼女には何も憂うことはない――そんなことは、きっと許されないことだろうに。


「……フェリツィアがいるのだから寂しいなんて思う暇もないわ。この子にも、色々作ってあげたいし。まだ、時間はあるはずだもの」


 後ろめたさを誤魔化すため、イリーナを納得させるため、シャスティエは微笑んで腹を撫でて見せた。彼女が娘をあやしている間も、イリーナは針を動かし糸を繰って、赤子たちのための服や肌着を縫っていてくれた。彼女の腕前はイリーナには遠く及ばないけれど、フェリツィアと生まれてくる子のために何かしたい、と。フェリツィアが寝付いたら教えてもらう約束をしていた。


「ええ……そうですね。御子がお生まれになる頃には、何もかも落ち着いていると良いですわ……!」


 シャスティエの心の裡は、決して口に出したままではないと、多分イリーナには気付かれていただろう。でも、言葉によってどうにかなるようなことではないとも分かってくれたのだろう。忠実な侍女は、主の意図を汲んで穏やかな笑顔を返してくれた。




 ティゼンハロム侯爵領から凱旋して以来、夫に会ったのは二回だけだ。一度目は帰ってすぐの時、そして二度目はつい三日ほど前のことだ。それも、夫はシャスティエやフェリツィアに会いに来たというよりは、報告のため、という意味合いが濃かったように思う。

 再会した夜のことを覚えていたのか、夫はシャスティエを抱きしめたり口づけしたりすることもなく、固い顔で話を切り出した。長椅子に隣あって座っているというのに、何か壁を築かれているような――それを少し寂しいと思ってしまったのは、彼女の勝手な感慨だ。彼女はあの夜、夫の心を抉ってほのかな歓びを感じてしまったのだから。


『ミーナの侍女のことを覚えているか。』

『はい……それは、もう』


 夫に頷く時に、シャスティエは無意識に腹に手を置いて庇っていた。シャスティエが先日言ったこととは関係なく、夫はもともと甘い言葉を囁くような心境ではなかったのだろう。夫が言ったのは、エルジェーベトという女のことに違いない。ミーナへの篤すぎる忠誠ゆえにフェリツィアの命を狙った者のことなど忘れようとしても難しい。あの時と同じく身重の身であるからこそ、毒を盛られようとした時のことは、思い出すだけでも子宮が縮む思いがした。


 一瞬で青褪めたであろうシャスティエを前に痛ましげな顔をして、触れようとしてか手を宙に浮かせて、しかしそれ以上延ばすことはなく夫は続けた。


『リカードめ、やはりというかその女を殺さず使っていたようなのだ。だが、女はリカードを裏切り幾つか勝利に貢献する助言を為した。――だから、厄介になったのだが』


 それから、シャスティエに一度延べた手を拳の形に握り、夫は苦々しい表情で教えてくれた。エルジェーベトという女の貢献と、最後の望み。その息子のラヨシュという子供が、マリカ王女の犬を殺した犯人だったということ、けれど命は奪われず、名を変えて生きることになるだろうということを。


 ひと通り話し終えると、夫はシャスティエの反応を窺うように口を閉ざした。


『それは……ミーナ様やマリカ様もさぞご心痛でいらっしゃることでしょうね……』


 とはいえ、彼女としても何を言えば良いのか分からない状況ではあった。彼女自身と子供たちへの脅威はないと知らされても、ミーナやマリカは親しい人間を失った心痛に、更に追い打ちをかけられるのが分かり切っているのだから。無邪気に喜びを見せるほど呑気ではいられなかった。


『女はともかく、子供についてはそれで良いか? お前も、さぞ不安だっただろうが……』


 ――ああ、なるほど……そのことで……。


 なぜ彼女にこのようなことを、とも思いかけたのだけど。夫の探るような目で、シャスティエはこの話の本題を悟った。ミーナやマリカ王女に約束したように、子供の命を助けても良いかどうか、もうひとりの妻の意志も確認してくれようというのだ。最近の夫は、かつての姿からは想像もつかないほど優しく――それから、臆病にも見えてしまう。以前はシャスティエがどれほど怒り詰っても、意に介した様子がなかったのに。妻を傷つけることを恐れるようになったというなら、人は変わるものだと思う。憎んだ男に気遣われて嬉しいと思ってしまう彼女自身も、また。


『犬が殺されて一番悲しまれたのはマリカ様でしょう。マリカ様が良いと仰るのなら、私に異存はございません。ティゼンハロム侯爵も、既に亡いことですし』


 心中の戸惑いを隠して、シャスティエは夫に微笑んだ。とはいえ無理をした訳でも不満を押し殺した訳でもない。ラヨシュという子供には彼女も何度か会っているが、おっとりとした真面目な性質に見えた。母親の影響がなくなり、ティゼンハロム侯爵から良からぬ命が下されることももうないなら、命を奪う必要はないだろう。ミーナやマリカが助命を望むならなお更のこと、シャスティエが口を挟むことではない。


『そうか……』


 彼女の答えに、夫は目に見えて安堵したようだった。その手が浮いて、シャスティエの腹に触れるのかと思わせて、けれど見えない壁に阻まれたかのようにあと少しのところで留められた。


『数日を置いて、その女を処刑する。十分時間はあるとは思うが、慶事の妨げにはならぬように』

『はい……』


 どうして時間を空けるのだろう、と思いながらもシャスティエは頷いた。その女を許す気にはなれないけれど、早く殺してしまえば良い、などとは口にできるはずもなかったから。人の生死に関わること、胎に赤子を抱える身だからというだけでなく、ミーナたちの心中を慮れば、そのようなことを言ってはならないと思えた。


『ここに来るのは、そこから更に間を置いてからにするつもりだ。だから当分会えないな。……お前が頼んで処刑を急がせた、などと世間に思わせたくはないからな』

『ああ……』


 深く吐き出した息と共にシャスティエは得心し、同時に夫の配慮の思った以上の深さを知った。エルジェーベトという女の手柄は、聞けば中々に大きなものだったとか。例の無礼な女たちが助けられたのもそうだし、助命しても良いのではないかと主張する者さえいるほどに。それを押して死を賜るということに、もしかしたら不満を覚える者も出てくるかもしれないのだろう。そうでなくても、シャスティエの意によって処刑が急がれたと思われたら、ミーナやマリカ王女の心中でも穏やかではないことだろう。


『過分のご配慮です。……ありがとう、ございます』

『だからしばらく会えないが、決して会いたくないからという訳ではないぞ』

『はい。分かっております』

『くれぐれも心穏やかに、健やかに過ごせ。……子供の誕生を、楽しみにしている』

『ええ、もちろん。ファルカス様も……無理を、なさらないように』


 夫もシャスティエも、あるいは相手の、あるいはミーナやマリカ王女の心中を憚って表情は硬かった。けれど、沈黙を恐れるかのように言葉だけはするすると滑らかにふたりの間を行き交った。それも、冷静に考えてみれば随分と甘く、嬉しくもくすぐったいような言葉だった。

 気恥ずかしさに同時に気付いたのだろう、シャスティエは夫と顔を見合わせて笑った。今度こそ見えない壁は崩されて、シャスティエは自然に夫の手に自身のそれを重ねることができた。夫も、手を引いて逃げることはしなかった。


『この子が生まれるまでには、何もかも落ち着いていることでしょう』

『そうであると良い……いや、そうなるように全力を尽くす。新たに生を受ける子には、かつての争いなど知らせずに済むように』

『はい……!』


 そしてふたりはごく軽く、かすめる程度の口づけを交わした。




 だから、シャスティエはまだ夫に愛を告げることができていない。会う機会がないのだから当然のことだし、たとえ会ったとしてもまだ言えないだろう、とも思う。ミーナの方だって、父君の死の痛手から立ち直ってはいないだろう。夫への愛は変わらないとしても、悲しみが口を塞いでもおかしくはない。そのような状況では、やはりまだ抜け駆けなどしてはならないだろう。


 ――この子が、生まれたら……。


 眠たげに目をとろりとさせてきたフェリツィアに小さく歌いかけながら、シャスティエは腹を撫でる。母体への諸々の負担を越えて、この子は今まで無事に育ってくれた。黒松館で授かり、ブレンクラーレに攫われ、従弟叔父は父に殺された。羊水に浮かんで微睡む間に、この子が継ぐかもしれないイシュテンは血に浸った。数多の犠牲と悲しみを越えて、この子が生まれるまでに全ては片付いているだろうか。あとひと月も経てば生み月に入る。その時を、喜ばしく迎えることはできるだろうか。シャスティエ自身はともかく、ミーナやマリカ王女はどうだろう。


 悲しみと向き合うミーナたちや、乱の始末で今日も誰かの首を刎ねているのかもしれない夫に比べれば、彼女の務めはごく単純で簡単なことだ。心を穏やかに保って健やかな子を生む、という。たったそれだけのことが、どうしてこんなにも難しいのだろう。憂いの源は全て断たれたはずなのに、憂いの只中にいるミーナたちを想って心を痛めるなど、思い上がりも甚だしいのではないのだろうか。


「あら、お休みになりましたね」

「ええ、やっと。寝かせてもらえるかしら」


 と、物思いに耽る間に、フェリツィアは完全に目蓋を閉じていた。くたりと力を失った身体の体重が完全にシャスティエの手に委ねられて、ずしりと重い。その娘をグルーシャに委ねて、シャスティエは立ち上がろうとした。イリーナの隣に席を移して、縫い物を教わるために。腹に力を入れ過ぎないよう、息と体勢を整えて、腰を浮かそうとして――


「――っ」


 ぷつり、と。身体の中で何かが弾ける感触に、シャスティエは凍り付いた。脚の間に温かい液体が浴びせられたような感触がある。いや、違う。これは、彼女の内から漏れ出たものだ。濡れた衣装が脚に貼りつき、布の重みが彼女をよろめかせる。鼻に届く微かな生臭さは、かつて一度嗅いだことがあるものだった。


 ――破水……!?


 まだ、早いのに。陣痛さえ来ていないのに。衝撃にくずおれそうになったシャスティエの両脇を、駆け寄った侍女たちが支える。イリーナが放り出した糸が陽光に煌くのが、ひどく眩かった。


「クリャースタ様!」

「まさか……!?」


 侍女たちの悲鳴のような問いかけに応える余裕は、シャスティエにはない。脚の間を羊水が伝う感覚は続いている。そして更に痛みが――これも彼女には経験がある、陣痛が、彼女の心を嵐のような恐慌と混乱に陥れる。


 ――私の、せい……!?


 不安と恐怖が渦巻く中で浮かび上がるのはその問いだけだ。不貞の後ろ指を指されぬよう、王の子だと疑われることがないよう、早産であれば良いと願ってしまっていた。子供の無事を考えずに! そして願った通り、あるべき時よりひと月も早く破水を迎えてしまった。こんなに早くこの世に放り出されて、胎児は果たしてちゃんと息ができるのだろうか。


「クリャースタ様、お気を確かに……!」

「早く中へ……それに、お医者様を!」


 侍女たちの叫びがどこか遠かった。痛みは、まだ月の障りとさほど変わりない程度だけど、これからどんどん激しくなるのはよく知っている。痛みの予感と子を案じる焦りに呼吸が乱れ、脂汗が額と背を濡らす。フェリツィアを抱いたままで倒れることがなかったのは良かったけど、でも、彼女は娘に弟か妹を会せることができるのだろうか。


 ――ファルカス様……!


 それに、胎児の父である夫の姿が脳裏に浮かんだ。この子のために国境を越えてまで軍を動かしてくれた夫を、彼女は裏切ることになってしまうのだろうか。


 夫に会いたい、と思った。手を握り、励まして欲しいと思った。けれどもちろん夫は多忙で、そのようなことは望むべくもない。

 侍女たちに支えられ、よろめくように。シャスティエは寝台に――産褥の床に、転がり込んだ。

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