第50話 妙薬 マリカ

 母や侍女たちに見咎められることなく、マリカは部屋を抜け出すことに成功した。けれどそれほど嬉しいことではない。彼女の、警護という名の見張りが減ったのは、警戒する必要がなくなったからだ。祖父が亡くなって、誰も彼女や母を王宮から攫おうとする人はいなくなったから。犬のアルニェクを殺したも、今は自室で引き籠っている。王女の身に危険がないと思われているからこそ、好きに出歩いても咎められることがないのだ。


 ――ひとりぼっちね……。


 でも、彼女ひとりの安全など、どうして喜ぶことができるだろう。優しかった祖父も伯父も、重い罪に問われて死んでしまった。祖母と伯母たちは生きているそうだけど、また会えるか分からない──ううん、多分会えない。ラヨシュでさえ、密かに彼女のことを裏切っていた。……それも、マリカと母のためだと言っていたけれど。祖父たちだって、罪を犯したのは彼女たちのためだということだった。マリカは、そんなことを望んでいなかったのに。


 髪を一本に編んで、頭に巻き付ける。裾の長い衣装は寝台の下に押し込んで、従者の子供の服をまとう。そうすると、遠目には王女がひとりきりでいると気づく者は少ないだろう。この扮装も、ラヨシュがこっそりと用意してくれたものだ。母でさえも知らない秘密を、マリカは彼と共有していたのだ。

 確か、バラージュ家に保護――彼女としては軟禁、と捉えていたけど――されていた時に、息苦しさに耐えかねて散歩くらい自由にしたいと駄々を捏ねてラヨシュを困らせた時のことだ。実際は、服を用意してもらってお忍びの旅を想像することでマリカの鬱憤はかなり晴れたから、袖を通すのは今が初めてだ。多分、ラヨシュは彼女の気性を知っていて、目先を逸らせようとしたということなのかもしれない。


「少し大きいわ……」


 だぼだぼとして余る袖を捲り上げて呟く時に零れた笑みは、でも、すぐに立ち消えた。彼女が何を言っても、聞く者も応える者もいないのだ。父がいない時、母の言葉に納得できない時、マリカの憤りに耳を傾けて宥めてくれたラヨシュは、まだ太陽の下を歩くことはできないということだ。彼の気持ちとしても、両親の意向としても。


 初夏の輝かしい庭に、沈んだ思いで慣れない木靴で踏み出しながら、マリカは父と母とのやり取りを思い出していた。




 エルジェーベトとの別れを済ませてきた母は、しばらく父とふたりだけで話していた。また子供には聞かせられない話なのかとむくれかけていたところに、マリカも呼ばれたのだ。仲間外れではないとしても、それはそれで機嫌を損ねているのを見透かされているようで面白くなかったけれど。今のマリカは、多分誰が何をしても気に入るということはないのだろう。


『お前の従者を助ける算段がついた』


 父はラヨシュのことをそのように呼んだ。マリカにとって、その呼び方は必ずしも正しくはないけれど。でも、友達と言うにはラヨシュの態度はいつも控えめで丁寧すぎるし――何より、彼女はまだ彼を完全に許すことができていない。だから、その言葉をあえて正すことはなく、マリカは神妙に父の顔を見上げていた。長椅子の両端に掛けた両親の真ん中に座らされた格好で、父と母の両方の体温を感じて。その温もりがあるからこそ、癇癪を起こさず聞かなければならないと思わされた。父も、頭ごなしに命じるのではなく、娘と目線を合わせて語ろうとしていると信じることができたから。


『あの子供の母は死に値する罪人だ。お前が許したとはいえ、犬を殺した罪は罪だしな。ゆえに王女に仕えさせるには外聞が悪い。だから今の身分は消して、新たな立場を与えることにする』

『どういうこと……?』


 マリカは必ずしもラヨシュを許してはいない。でも、父が言うところの許すか許さないかということは、彼を死なせても良いかどうかということだ。それは彼女が望むことではないので、マリカはまた父に異を唱えることはしなかった。


『犬を殺した犯人は、やはりその罪によって死を賜るのだ。しかしそれは表向きだけのこと。あの子供は別の名前と立場で生きることになる』

『そう……』

『……形だけでも罰を受けることになるし、名を捨てるのは簡単なことではない。それで、お前の気も済むのではないか……?』


 父の気遣うような眼差しを見て、マリカは何よりも彼女の心を慮っての計らいだということに気付いた。気付かされた。気付いてしまった。


 ――どうして……!?


 彼女はほんの子供で、しかも父の後は継げない王女だ。我が儘も勝手も随分するし、父も母も困らせている、と思う。ラヨシュが罪人の子だというなら、マリカの祖父こそ許されないことをしたのだろうに。どうして、父はこうまで彼女のことを気遣ってくれるのだろう。


 その答えは多分とても簡単なことで、父は娘を大事に思ってくれているのだ。役に立たなくても、可愛げがなくても。それを素直に喜ぶことができれば良いのに、マリカは――勝手なことに――反発を覚えてしまうのだ。そこまでしなくて良いのに、と。祖父も、エルジェーベトも……ラヨシュも。彼女や母のためと言って罪を犯したのだという。そんなことを、誰も望んではいなかったのに。


『……ええ。ありがとう、お父様。私のために、考えてくださったのね』


 愛されているのは、素晴らしいこと。思いを向けられたら感謝しなければならない。母の教えはとてももっともらしいようでいて、でも、マリカには信じ切ることはできない。彼女のためと言ってなされたことは、必ずしも彼女を喜ばせはしなかった。他の人たちにとっては――かつては親しくしてくれた小母たちのように――大きな苦痛にもなったらしい。その経験から、大人たちの情愛はマリカにどこか不安を感じさせるようになってしまっている。


『そうしてちょうだい。……それで、良いわ』


 でも、多分そう思ってしまうのは間違いなのだ。だからマリカはその時、少し無理をして微笑んで父に抱き着いたのだった。




 青々とした草や、鮮やかに咲く花を蹴散らすようにして、母が見たら眉を顰めるに違いない乱暴な足取りで、マリカは歩く。たまに驚いた蝶や飛蝗ばったが飛び出しても、心が浮き立つことはない。そういった虫を喜んで追いかけるアルニェクも、捕まえて間近で見せてくれたラヨシュも、彼女の傍にはもういないから。


 ――仕方がないことなのよ……!


 両親の計らいは最善のことなのだろうと、マリカにも分かってはいる。マリカにとっては大切な愛犬でも、その価値は人の命よりは軽い。母はもちろん、彼女自身も犯人を死なせたいとは思っていないならなおのこと。まして、ラヨシュは自身の罪を悔いてずっと思い悩んでいたのだという。何もマリカが嘆き悲しみ憤るのを見て嗤っていたとか、そういうことではないのも、分かる。

 金の髪のお姫様も、小さなフェリツィアも、悪くない。あの人たちを脅かしたのは祖父なのだというし、マリカや母よりも危険に晒されていたから父も構っていたのだろう。祖父が悪いと認めれば、納得できる――しなければならない、ことだった。


 彼女の鬱憤は、結局は自分では何ひとつ決められないことにあるのだろう、と。マリカは考え抜いた末に結論づけていた。祖父も両親もラヨシュもエルジェーベトも、皆勝手に話を進めてしまって彼女に口を挟む隙を与えてくれない。善いことでも悪いことでも、自分で選んだ道だと思えば多分もっと呑み込むことができるのだ。


 だから、マリカは何かしらを達成しようと決めて、ひとりこっそりと部屋を出たのだ。何かしら――例によって両親が遠ざけて会わせてくれない、エルジェーベトに会いに行く、ということを。


『エルジー――エルジェーベトは罪を悔い改めてはくれませんでした。だから、貴女に会わせる訳にはいかないの』


 母は、ひどく疲れ切った顔でマリカにそう告げていた。何も彼女がしつこくせがんだからではなく、エルジェーベトと会ったこと、その時に起きた何かで心が擦り減っているようだった。そして今も、母は暗い面持ちで沈み込んでいる。娘に同じ思いを味わわせたくないという、これもまたマリカへの思い遣りだ。そしてその思い遣りを喜ぶことができないのも同じだった。


 ――エルジーに会うの。……最後に。


 マリカにとっても一番親しい侍女で、ラヨシュの母でもあるのだから。たとえ傷つくことになったとしても、最後にひと目会って、言葉を交わしておきたかった。


 マリカは、牢獄の場所など知らない。でも、見当をつけることはできる。彼女の家、広大な王宮の行ったことがない場所と、近づいてはいけないと言われた場所。そのどこかに、エルジェーベトはいる――閉じ込められているはずだ。

 早く、もう会えなくなってしまう前に。父が心を決めて母が諦めたなら、エルジェーベトはいつ殺されてしまうか分からないのだから。




 その建物は、マリカの常の住まいよりも明らかに頑丈で、かつ装飾が少なかった。石材をきっちりと積み上げて、中の何かを圧し潰そうとでもしているかのような。周囲を行き来する兵の数から言っても、ここが牢獄と考えて良いだろう。


 ――ここ、よね……?


 傍らにラヨシュが、同意を求める相手がいないことが心細くてならなかった。でも、怖がる必要はない、はずだ。彼女は王の娘なのだから。一番悪くても、丁重に母の元に返されて、後で父に叱られるだけだ。……両親を失望させることは、確かにとても怖いことなのかもしれないけれど。


 ――行かなきゃ。


 兵が多いとはいえ、全く切れ目がないという訳ではない。季節のお陰で草葉は蒼く濃く茂っているし、何よりマリカは小さな子供だから、多少は見張りの目を逃れることもできるだろう。建物の石の壁際に駆け寄って、その陰に隠れる。晴れやかな太陽にもかかわらず、掌に感じる壁はじっとりと湿って冷たかった。


「エルジー……どこにいるの……?」


 兵の耳を避けて抑えた声が、壁を越えて届くかどうかは怪しかったけれど、周囲の様子を窺いながら何度も呼ぶ。答えを期待しながら、草が擦れる音にも身体をびくりと震わせて。兵が近づいた証だったら、この冒険はすぐにも終わらせられてしまうだろう。


 でも、ようやくマリカの耳に風と草葉のさざめき以外の声が届いた。それも、兵の低く太い声ではない、女のか細く掠れた声だ。


「マリカ様……? いらっしゃるのですか……?」

「エルジー!? どこ? どこなの!?」


 久しぶりに聞くエルジェーベトの声は、どういう訳か下の方から聞こえた。どうして、どこから、と。声の源を求めて顔を巡らせると、石壁の下方、地面の際に鉄格子が見えた。そして、その隙間から閃く白い指先が。


 ――地下牢……!


 こんなところに、と胸を痛ませながら、マリカはその窓と思しき隙間に駆け寄った。今着ているのは使用人の簡素な服にすぎないけれど、いつもの絹の衣装だったとしても、土で汚すのを躊躇うことはなかっただろう。

 屈みこんで鉄格子の内側を覗き込むと、果たして懐かしい顔がちらりと見えた。大人のエルジェーベトを、上から見下ろすことになるのは慣れない視点だったけれど。薄暗い中に青白く浮かび上がるその顔は、驚きによってか目を見開いていた。


「マリカ様……! どうしてこのようなところに? お母様のお許しは……!?」

「黙って来ちゃったの……どうしても、エルジーに会いたかったから……」


 探していた人に会えたというのに、マリカの声は弱々しく震えた。牢の中と外、空の下と地の下に、鉄格子に隔てられているということ、彼女は輝く太陽の日差しを浴びているのに、エルジェーベトは湿った悪臭放つ暗闇に捕らわれているということがひどく落ち着かなかった。罪人の扱いとはこういうものだと初めて突きつけられて、父や母が彼女を守ろうとしたか、やっと分かったような気がした。そして多分、エルジェーベトはこの扱いに相応の罪を犯したのだ。彼女と、母のために。


「良かった……!」

「エルジー、あの……?」


 後ろめたさと居た堪れなさで、季節に合わない寒気さえ感じていたところだったのに。エルジェーベトの声が意外なほどに明るくて、マリカは目を擦ることになった。鉄格子の隙間から覗くエルジェーベトの顔は、確かに、朗らかに笑っていたのだ。


「私は、母君様のお怒りを買ってしまいました。そのようなことをするつもりはなかったのに……。おじい様を思う余りに、父君様を悪く言ってしまったと思われてしまったようなのですわ」


 でも、不安も戸惑いもすぐに消えた。母のことを聞いて、どうしてここに来たのかを思い出したのだ。エルジェーベトが本当に悔いていないのかを確かめたかった。心に、区切りをつけたかった。母を思い遣る言葉が聞けたのは、純粋に彼女の心を浮き立たせた。もしかしたら、伝言次第では母の顔も明るくなるかもしれない。


「お母様、とても悲しそうなお顔なの……。仲直りは、できないかしら……?」

「今となっては、二度とお会いすることはできません。覚悟はできております」

「そう……」


 エルジェーベトのきっぱりとした態度を、悔い改めたと捉えても良いのだろうか。母との間に何があったか知らないだけに、突き放されたように感じてマリカは俯いた。でも、それは鉄格子の中を覗き込むことになる。白い――でも、爪が欠けた指が伸ばされて、マリカの従者の服に触れる。優しく、慰めるように。


「でも、ひとつだけ――マリカ様にお願いしたいことがございますの」

「なあに!?」


 勢い込んで鉄格子に顔を寄せると、中の篭った臭気が鼻を突いた。けれど顔を顰めたりはしないよう、腹に力を入れて耐える。エルジェーベトに最後に見せるのが、渋面であったりしてはならないのだ。

 そのマリカの目の前に、布に入った小さな包みが差し出された。


「これを、お母様に……」

「……何? お茶? お薬……?」


 包みの軽さ、かさかさとした中身の感触に見当をつけて呟いてみると、エルジェーベトが微笑んだ気配が伝わってきた。


「ええ、お薬のようなもの……母君様の憂いを取り除くためのものですわ。私の形見と思ってお使いください、と……」

「分かったわ! あの……ラヨシュに、伝えることはない……?」

「マリカ様たちさえご無事なら、もう思い残すことはございませんわ」


 ラヨシュもまた、エルジェーベトに二度と会えないことに思い至って聞いてみたけれど、答えはやはりはっきりとして、言葉通りに悔やんだり惜しんだりする情は読み取れなかった。これもまた、エルジェーベトが罪を認めて罰を受け入れようとしているから、なのだろうか。でも、息子に対してあまりにも素っ気ない気がして、ラヨシュのためにももうひと言でも引き出したくて――でも、言葉を探すことができる前に、エルジェーベトの鋭い声がマリカを打った。


「マリカ様、もう……! 見つかったら取り上げられてしまいますわ」

「う、うん……。エルジー……あの、ありがとう……!」


 感謝の言葉は、今エルジェーベトが見せてくれた思い遣りと、今までの全てに対してだった。それに、母への形見をくれたことへの。


 微笑むエルジェーベトから、身を切られるような思いで目を逸らすと、マリカは駆け出した。できるだけ音を立てないように、という注意は忘れないように。でも、行きとは違って、エルジェーベトと言葉を交わした動揺によって、多分彼女の足音はずっとうるさくなってしまっていただろう。牢の暗さ、湿っぽさ、臭い。その中で、かつてと変わらぬ笑顔を浮かべていたエルジェーベトの――怖さ。


 ――お母様に、差し上げなきゃ……!


 でも、最も強くマリカの心を駆り立てていたのは、達成感と満足感だった。沈んでばかりの母のために、エルジェーベトは何よりの贈り物を遺してくれたのだろうと思う。その想いを知れば、母の慰めにもなるのではないだろうか。だって、憂いを取り除くための薬なのだということだし。


 だから早く母のもとへ。汗ばんで息を弾ませながら、マリカの口元には笑みが浮かんでいた。

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