第49話 決別② ウィルヘルミナ
「マリカ様……わ、私は……」
エルジェーベトの唇から漏れる言葉は、ほとんど意味を為さない。ウィルヘルミナが羨ましいと思うほど、いつもははきはきとした明瞭な言葉遣いだったというのに。この狼狽えようといい、血の気を失った顔色といい、言葉によらず、エルジェーベトの答えを伝えてしまっているかのようだった。
――ああ、やっぱり……!
もしかしたら間違いで、ウィルヘルミナの酷い邪推に過ぎないのかもしれないと、一縷の希望に縋りたかったのだけど。そのような希望、抱くだけ無駄だったのだとエルジェーベトの表情が物語っていた。
「エルジェーベト、私が聞きたいのは――」
「どうか、誤解をなさらないでくださいませ……! 私には、どうすることもできなかったのです! 主たる方の命令とあっては……貴女様のお傍にい続けるためにも……」
「責めているのではないの。ただ、教えて欲しくて……」
――私のせい、なの……?
エルジェーベトが縋りつくように差し出してくる手をそっと払いのけながら、ウィルヘルミナの胸にはちくりとした痛みが走る。彼女の方こそ責め立てられているように思えてしまって。彼女のために尽くしたのに、死に値する罪さえ犯したのに見捨てるのか、と。
父やエルジェーベトが犯した罪の幾つかがウィルヘルミナのためにこそ行われたというのは、真実ではあるのだろう。夫が断じるように権力を求める欲だけが理由ではなく、娘や孫の幸せを願う気持ちもあったのだと――彼女が、そう信じたいだけなのかもしれないけれど。そうやって守られてきたからこそ、確かに彼女は長い間自身の幸福を疑うことがなかった。そして同時に何も知らなかったから、見えないところで支払われていた犠牲の重さ大きさに震えてしまうのだ。エルジェーベトがしていたこと、させられていたこと。それを――多分――父が強いたこと。
今になってそんなことを知らされるくらいなら、何もずっと幸せでなくても良かった。時に傷ついたり悩んだりしておけば、父と夫の争いを目の当たりにしても、もっと心を強く持っていられたかもしれないのに。
でも、それは口に出してはならないことだ。犠牲を払った当のエルジェーベトを前に、その献身を踏み躙るようなことを言ってはならない。それに、彼女には聞かなければならないことがある。過ぎたことに思い悩むのではなく、前を見るようにしなくては。
だから、どんなに言いづらくても、聞いておかなければならない。
「ラヨシュのこと……あの、あの子の父親は……まさか……?」
「ありえませんわ! 夫以外の胤ということになれば私生児でしょう。いくら殿様が庇ってくださっても、そこまでは婚家が許しはしないことです。だからあれは間違いなく亡夫の子です! もしも殿様の面影を少しでも受け継いでいたなら、もっとマシな、覇気のある者になっていたでしょう……!」
「そう……それなら……」
実の息子に対して、どこか蔑むようなエルジェーベトの物言いにも胸が刺されるのを感じつつ、ウィルヘルミナは取りあえずは息を吐いた。でも、良かった、と言えるのだろうか。これで用は済んだ、と踵を返しても良いのだろうか。ウィルヘルミナがこの牢を訪れた第一の理由は、これで果たされた。ラヨシュは父の子ではなく、彼女の弟でもなかった。それなら、誰に憚ることなくラヨシュを庇護しても後ろめたさは感じなくても良いのだろう。
――苦しい……息が詰まりそう……。
エルジェーベトから目をそらしながら、ウィルヘルミナは必死に呼吸を保とうとした。胸の鼓動も早まっていて、胸を締め付けられるような感覚もある。
牢がある一角に足を踏み入れただけでも、身が竦むような思いがしたのだ。この房へと段を下るにつれても、淀んだ空気の黴臭さが肺を冒すようだった。でも、この苦しさは肉体が感じるものだけではない。彼女に縋り詰りまとわりつくエルジェーベトの視線と情念が、重苦しくて堪らないのだ。決して逃がさない、と。彼女の衣装を握りしめる指の強さが伝えてくるかのよう。
「マリカ様……私は全てを貴女様に捧げて参りました。腹を痛めて子を生したのは、貴女の御子の乳母になりたかったから。生まれた子を、私と同様貴女の
「いいえ、どうして怒ることなんてできるでしょう。でも……言って、欲しかったわ……私こそ、喜んで貴女を助けようとしたでしょうに……!」
逃げることはできない。エルジェーベトが楔のように彼女をこの牢獄に繋ぎ止めようとしている。乳姉妹の犠牲を知らずに無知で無邪気で、ただ与えられた幸せを享受していた後ろめたさも、彼女の足を縫い留める。でも、やはりエルジェーベトと父の関係は受け入れがたい。だから、不毛と知りつつ、ウィルヘルミナはエルジェーベトに向けて叫ばずにはいられなかった。その悲鳴のような声に、相手の声もますます高まる。
「助けなど望んでおりません! 本当に、マリカ様、貴女様は何もなさらなくて良かったのです。貴女様が幸せでありさえすれば、全ては報われたのです。なのに、どうしてこんな――」
「貴女が耐えているのを知らないままで? そんなものは幸せではないわ!」
「お幸せでしたでしょう! 貴女様の笑顔の何と美しく尊かったことか……それを守るためなら何でもすると、何度でも心に誓ったものですわ……!」
「そんなこと――」
頼んでいない、と。口から出そうになったのをウィルヘルミナは辛うじて呑み込んだ。彼女の背で、牢の扉は固く閉ざされている。もちろん鍵は掛かっていないし、呼べばすぐに兵が来るのだろうけど。でも、狭い房にふたりきりで、エルジェーベトの甘い毒のような言葉を浴びせられ続けていると、理性の
多分度を失っているのはエルジェーベトも同じなのだろう。
「何も知らない方が良かったのですわ。貴女様に余計なことを吹き込んだのは、王ですか? あのミリアールトの売女ですか? 私に任せていてくだされば、何もかも変わらず上手くいっていたはずなのに……!」
「私は貴女のお人形ではないわ!」
ウィルヘルミナが叫んだ直後、牢の中に沈黙が降りた。苔生した石壁を雫が伝う音、床を虫が這う音さえ聞こえそうな、重苦しく張り詰めた沈黙が。言うべきでないことを言ってしまった恐ろしさは、刃のように彼女の心を裂く。たとえ望まないとしても、エルジェーベトの犠牲と忠誠と献身を、彼女が否定してはならなかったのだ。
「マリカ様……」
かつてないほどひび割れた声で呼ばれて、ウィルヘルミナはやっと我に返ることができた。見開かれた目に見つめられるのも怖くて顔を壁に向けながら、後ろめたさを何とか誤魔化そうと、裏返りそうになる声を必死に御して捲し立てる。
「力になることもできたはずでしょう。わ、私だって王妃なのだし……。私がダメでも、ファルカス様や、お母様に――」
「奥様が?」
でも、そう問うてきたエルジェーベトの声が意外なほど明るかった。だから、ウィルヘルミナはその表情を確かめようと目を向けて――そして、見てしまう。これもまた、乳姉妹の見たこともない表情を。嘲りと憐れみをひとつの笑みに同居させた、とても奇妙な顔だった。嘲りも憐れみも、きっとウィルヘルミナの無知に対して向けられているのだ。
「奥様もご存知のことですわ。大層苦々しく思われてはいたようですけれど。目障りである以上に、マリカ様、貴女の役に立つ者であると示し続けなければならなかったのです。そういう意味も、あってのことだったのですよ……?」
「え……?」
ウィルヘルミナが呆然として眺めるうちに、エルジェーベトは立ち直ったようだった。彼女があまりにも愚かだから、言うことをまともに取り合っても仕方ないのだ、と気づいたかのよう。だからほら、エルジェーベトの笑顔はもう見慣れた優しいものだ。ウィルヘルミナを甘やかして言い包める時の、あの顔とあの声だった。
「マリカ様、マリカ様。そのようなことはもう良いでしょう。父君様の最期を、伝えさせてはくださいませんか……? そう……私にとっても
エルジェーベトに手を触れられた瞬間、ウィルヘルミナの肌がぞわりと粟立った。父との関係を仄めかす言葉は、はっきりいっておぞましく気持ち悪い。
「王はあの方をどこまでも辱めたのですよ。鎧を剥いで、肌着のような姿で引き回して。古い倣いのように、首に縄をつけて馬に引かせて――それでも殿様は、最期まで毅然としていらっしゃいました」
「やめて……」
「跪かせる時には足蹴にさえしたのですよ。太陽の紋章を継いできた方、義理の父でもある方に!」
「それは――」
仕方のないことだ、と言い切ることはできなかった。たとえ万人に憎まれるべき逆賊だとしても、ウィルヘルミナにとって父は父だから。でも、エルジェーベトが望むであろうように夫を恨むこともしたくない。
「どうしてそんなことを言うの……今になって……」
思わず唇から漏れた言葉は、これまで通り何も知らされずにいたいと言ったも同然だった。まるで、ウィルヘルミナが自らの非を認めたかのような。やはり守られたまま、無知でいさせて欲しいといったかのような。エルジェーベトもそれに気付いたのだろう、声にも指にも、一層の甘さが漂ってウィルヘルミナに絡みついてくる。思わず後ずさっても、牢の固く厚い扉に阻まれて、エルジェーベトの潤んだような目を間近に見つめなければならなくなる。
「王を信じてはならぬと、お伝えしたかったのですわ。殿様のお力を借りて王位を得ておいて、側妃を、ミリアールトを手にしたら斬り捨てるなど……! 同じことがマリカ様にも起きないと、どうして言えるでしょう?」
「起きないわ……! 私は、ファルカス様もシャスティエ様も信じているもの……!」
ウィルヘルミナの抗弁をものともせずに、エルジェーベトはあくまでも微笑む。じりじりと迫る笑みを除けようとする彼女の手が、いかにも弱々しいことを気付かれているのだ。ウィルヘルミナの指に絡められるエルジェーベトのそれは、蜘蛛が獲物に伸ばす脚さえ思わせた。手を取られて頬ずりされると、熱い吐息が肌にかかる。
「もう触れることさえ許してくださらないのですね。私をそのように蔑まれるのなら、どうして側妃には寛容でいらっしゃるのですか? 人の夫を奪う女は、見下されるものではないのですか?」
「貴女とシャスティエ様は違うわ……!」
思ったほどに強い声が出ないのが悔しかった。でも、それは決してエルジェーベトの言葉に理を見出したからではない。エルジェーベトの罪を声高に非難することが、この期に及んでも憚られたからというだけだ。
シャスティエは夫の正式な妻だ。王妃でなくても、ウィルヘルミナと並んであの方の傍にあるべき女性だ。何より、シャスティエは人を傷つけたり陥れたりしていない。常に毅然として誇り高く、強く美しく、彼女がこうありたいと思う姿だ。シャスティエを知ったからこそ、ウィルヘルミナは自身の置かれた立場のおかしさに気付くことができたのだ。
「マリカ様、これを――」
エルジェーベトは、でも、ウィルヘルミナの内心には全く気付いていないのだろう。これまでのやり取りでそれは分かってしまっている。絡まれた指が解かれて安堵したのも一瞬のこと、エルジェーベトは衣装の襞を探ると、縫い付けてあったと思しき小さな布の包みをウィルヘルミナに押し付けてきた。
「今が最後の機会です。殿様を討ったとはいえ、イシュテンは度重なる争いに疲弊しています。側妃の子が王子かどうかも分からないし、王子だとしても無事に育つかも分からない。今王が斃れれば、全てが覆るのです!」
「エルジェーベト、貴女……」
「やらせるのはラヨシュにでも良いのです。貴女が手を汚す必要はありません。今、生き残っている者たちの忠誠はとても怪しいものですけど……権力を得ようとする者は必ずいます。私が、お傍で見極められたら良いのですが……!」
外で兵が聞き耳を立てていることを警戒してか、エルジェーベトは声を低めていた。包みの中身が何かもはっきりとは言っていない。でも、分かるように言っている。エルジェーベトは、夫に毒を盛るよう、ウィルヘルミナに勧めているのだ! 父はもはや亡く、やっと国が落ち着いていこうという時、間もなくシャスティエの子も誕生するという時に。
エルジェーベトがごく自然に息子のラヨシュを利用する考え方をしているのも、ウィルヘルミナの神経を逆立てた。あの少年がどれほど自分を責めて思い悩んでいたか、エルジェーベトは母でありながら知らないのだ。
「ラヨシュに……。そうやって、アルニェクも、マリカの犬も殺させたの……?」
「は……?」
一段冷えたかのようなウィルヘルミナの声に、エルジェーベトの笑顔が凍りついた。唇に弧を描かせたままで、けれど彼女の言葉を理解しかねるかのようなぼんやりとした表情だった。もしかしたら、かつてのウィルヘルミナもそんな表情をよくしていたのかもしれないけれど。
「ラヨシュは、アルニェクのことも打ち明けてくれました。あんな子供なのに、親から離れる勇気を持ってくれたの。マリカも――私じゃない、娘のマリカも、それを知った上であの子を赦して欲しいとファルカス様に願ってくれたの」
どれほど言葉を尽くしても、エルジェーベトが彼女の思いを理解してくれるとは思えなかった。人形とまでは思っていなかったとしても、エルジェーベトはウィルヘルミナの姿をこうと思い描いて、それ以外のあり方を認めないように思われてならない。
「だから私もしっかりしなくては。お父様からも、貴女からも離れて――自分の足で立って、自分の頭で考えるのよ」
だから、エルジェーベトにというよりは自分自身に向けて、ウィルヘルミナは言い聞かせた。ぴんと背を伸ばして、俯くことがないように。声が震えること、怯えや迷いを見せることもないように。
「貴女が今までしてくれたことの――全てに、ではないけれど。罪には当たらないこと、他のことを傷つけずにしてくれたことには心から感謝しています。……ありがとう。でも、罪は償わなくては。悔いてはくれないことが、とても悲しいのだけど」
それでも、エルジェーベトに自ら触れようとする時には一瞬だけ躊躇ってしまたけれど。思い切って手を伸ばして、誰よりも親しかったはずの乳姉妹を抱きしめる。その温もりや肌の香り、髪の感触を記憶に刻み込んで――そして、離れる。
「さようなら、エルジェーベト。これが最後、もう会うことはできないでしょう」
後ろ手に房の扉に触れると、ほとんど力も込めないうちに外から開かれた。いつ面会が終わるのか、兵が待ち構えていたのかもしれない。まるで深い穴に落ちた者を引き上げるかのように、ウィルヘルミナは兵の腕に支えられて扉から遠ざけられた。そしてすぐに扉は閉ざされ、重く頑丈な錠がかけられる。
「――マリカ様!」
だから、ウィルヘルミナはエルジェーベトの悲痛な声を扉越しに聞いただけ。どのような表情をしていたかは、知ることがないままだった。
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