第48話 決別① エルジェーベト

 王が凱旋した今、エルジェーベトの居場所は晴れて牢獄となった。王宮のどこかであることだけは確かだが、十年に渡って過ごした身でも敷地のどこにあるかはっきりと分からない一角に、彼女は繋がれていた。

 天井の近くに小さな明かり取りの窓があるだけの、つまりは半ば以上地下に埋まった石牢だ。じめじめとしてかび臭く、鉄格子にも彼女を拘束する鎖にも錆が浮いている。虫も鼠も出るし、壁には得体の知れない――血の痕か、とも思える――染みもある。居心地で言うなら最悪だが、まあ彼女の罪とされることを思えば妥当な扱いだろう。マリカたちが住まう一角に再び足を踏み入れられるなどとは期待していないし、あの方たちにはこのようなおぞましい場所とは無縁であって欲しいもの。だからエルジェーベトとしては、今の待遇に全く不満はなかった。


 ――次にここを出る時は……死ぬ時、なのかしら。


 もちろん、だからといって恐怖がないという訳ではないのだけど。ただし、彼女が恐れるのは自身の死ではない。それ自体はリカードの所業に深く関わった時点で避けられぬことと理解している。問題は、この首を刎ねられるか毒を賜るかの前に、マリカと会う機会が与えられるのかどうか、ということ。

 フリーダという娘は、王都に入った時点で軍の列から離れていた。先に保護されていた母のもとへと送られたのかもしれない。だからあの娘から状況を聞き出すことはもうできない。乱の鎮圧に赴いた兵の間では、彼女の功績――人質の件や奇襲の件、それに何よりリカードの最期をより一層惨めなものに演出したこと――を称揚するような風があったけれど、牢番にあたる者たちにそのような甘さはない。いや、王に同行していた将兵でさえ、積極的に彼女の助命に動こうという者はいなかった。


『これで苦しまずに死ねるというものだな』


 ごく軽い調子で、通りすがりにそんな言葉を投げる兵もいたくらいだ。見せしめとして長い苦痛を与えるのでなく、剣の一閃で首を刎ねることこそが王の慈悲であり褒美になるだろう、という訳だ。

 側妃と胎児の毒殺の主犯に仕立てられた時点で、リカードに嬲り殺しにされることを覚悟したこともある彼女だ、死に際しての苦痛の多寡はこの際何の気休めにも救いにもならない。たとえ全身の骨を砕かれ皮を剥がれたとしても、最後にひと目マリカに会えることの方がずっと価値も意味もあるに決まっている。




 そうして、エルジェーベトは暗く肌寒い牢の中で焦れながら待っていた。状況の変化を求めながら情報を得る術もなく、食事を運ぶ牢番の足音が処刑人のそれではないかと怯えながら。いつもの男に違いはないか、鎧や剣の鞘が狭い通路に擦れる、金属音が聞こえはしないかと。

 だから、その軽やかな足音を聞いた時、エルジェーベトの心臓は跳ねた。処刑を待つまでもなく、喜びのあまりに今この場で動きを止めてしまうのではないかと思うほど、調子を外した胸の高鳴りだった。男の硬く重い靴が立てるのとは全く違う、柔らかな音。慣れない牢の石段に戸惑ってか、足先で探りながら降りてくる覚束なさが目に浮かぶよう。湿って虫が這う壁に手をついて、衣装の裾を汚しているのではないかと思うと心が痛む。階段を降り切って通路を伝い、彼女がいる房へと近づいてくるのは――


 ――マリカ様、なの……!?


 期待を持ちすぎてはならない、とは思うものの、血が熱くなるのを抑えることは難しかった。これでもしもマリカではなかったら、例えばあのフリーダとかいう娘だったりしたら、エルジェーベトの心は生きながらにして息絶えてしまうだろう。

 でも、マリカ以外の者がここに来ることを許されるだろうか、とも思う。ティゼンハロム侯爵領を完全に手中にした今、王が彼女から得たい情報などもうないだろう。リカードの企みの全容も、捕らえた者から知られたか、王に良いようにこしらえるはず。だから今さら尋問されるということもないだろうし、ましてその役に女が選ばれるはずもない。マリカが――王妃が王に特別に願ったのでなければ。


 だから、信じて良いはず。でも、万が一期待を裏切られるのも、怖い。相反する思いに揺られて、息を詰めて待つエルジェーベトの房のすぐ前で、足音は止まった。そして抑えた声でのやり取りが厚い扉を越えて漏れ聞こえてくる。


「ふたりだけで話をさせてちょうだい。何を話したかは必ず陛下にご報告しますから」

「はっ……」


 ――ああ、ああ……!


 応えた牢番の声など問題ではない。彼女にとって重要なのは、先に命じた声の方。緊張によってか強張り震えて、そしてそれでもなお、優しく柔らかくて聞いているだけでエルジェーベトの心を蕩かせる。何度も夢では聞いたけれど、直に鼓膜を震わせたのは本当に久しぶりの――マリカの、声。


 幸せすぎる余韻に浸りながら、エルジェーベトは牢の扉の鍵が開けられる音をどこか遠い世界のことのように聞いた。扉が開く鈍い音も、一瞬だけ入り込んだ外の多少は新鮮な空気も、どうでも良いこと。彼女が待ち望み待ち焦がれ、縋りつくのは、扉のわずかな隙間から牢内に滑り込んだ愛する主、ただひとり。


「マリカ様……! やはり、私をお見捨てにはならなかったのですね……!」

「エルジー……エルジェーベト……」


 マリカの声が彼女の名を呼び、マリカの手が彼女に触れるのを感じるのは、至上の悦びだった。先ほどまで、たとえ一抹でも疑いを抱いた自身を許しがたいと思ってしまうほど。否、彼女はマリカを疑っていたのではない。王やその側近たちがちゃんと彼女の願いをマリカに伝えるかどうかだけを恐れていたのだ。彼女が生きていると知りさえすれば、マリカが会いたいと願わないはずがない。生まれた時から共に育ち、無私の忠誠を捧げてきた彼女のことなのだから!


「ああ、お痩せになってしまって……父君様のことが、さぞご心痛だったのですね……」


 マリカが携えていた燭台によって、牢の中は常よりも少しだけ明るさが増している。マリカの顔をはっきりと見ることができるだけなら良かったけれど、光源が増えたことで白い頬に落ちる陰翳がより濃く見えてしまう。マリカの美しさが翳ることなどもちろんあり得ないのだけど、エルジェーベトが傍にいられなかった間、王とリカードの間の争いがさぞこの方の心身を蝕んだのだろうと思うと胸が痛んだ。


「ええ、貴女も……」

「私のことなど……。ただ、この目と耳で見聞きしたことをお伝えしなければと思って、今まで生きて参りましたの。こうして最期にお会いできて、苦労も屈辱も報われた想いですわ……!」


 マリカが延べてきた手を押し戴くようにして頬ずりしながら、エルジェーベトは歌い上げるように訴えた。長い行軍に連れ回され、天幕や馬車の片隅で眠るしかなかった日々、それによって積み重なった疲れも溶けていくようだった。マリカに会えたというだけで、エルジェーベトの世界は変わる。より美しく愛すべき意味あるものに――そしてそれを保つために、彼女の残りの命を捧げなければならないのだ。


 そのために、まずはマリカの心に寄り添わなくてはならない。父を失った悲しみ、側妃や王に対する不安を理解していると、言葉で示して差し上げなくては。


「どんなにか心細くていらっしゃったでしょう……! 間もなく死を賜る身とは分かっておりますけれど、でも、だからこそお心に懸かることは何でも打ち明けてくださいませ。きっと、お力になれることもありますわ……!」

「心に……。そうね……」


 エルジェーベトの手から、マリカのそれがするりと逃れた。きっとマリカは涙ぐんで縋りついてくるだろうと思っていたのに、思いのほか素っ気ない。でも、着替えることも身体を洗うこともままならない日々で、エルジェーベトの顔も手も服も汚れ切っているだろう。マリカの肌を汚すくらいなら、思い通り触れることができないくらいは我慢するべき、なのだろう。

 そう、自分を納得させると、エルジェーベトはゆっくりと瞬きをしてマリカを見返した。黒い目が深い憂いを湛えている、美しくも痛ましいその表情を。マリカの色の褪せた唇が、小さく開く。


「私は、貴女とラヨシュのことを話したくてここに来させてもらったの」

「ラヨシュの……?」

「ええ。……まるで、忘れてしまっていたように言うのね……」


 慰めも同情も、励ましも。マリカのために何を言おうか何度も考えて、滔々と述べ立てる準備はしていたはずなのに。思いもよらない名を出されて、エルジェーベトは一瞬だけ絶句した。そしてその沈黙を咎めるかのようにマリカが眉を寄せたのを見て、慌てて言葉を思い出す。


「まさか、息子のことを忘れたりなどいたしませんわ。でも、私の教えを守り、主家からの御恩を忘れず働くようにしっかり言い聞かせていましたし……それに、マリカ様方の方がずっと大事なのですもの」


 正直に言って、息子のことなど今の今まで彼女の頭から抜け落ちていた。フリーダや兵たちの懐柔のために言及したことはあったけど、それはあくまでも方便であり口実に過ぎなかった。自らの腹を痛めたくらいのことで、息子がふたりのマリカ以上に気に懸けるべき存在になるはずなどないのだ。


「あの、息子が、何か……?」


 でも、本当のことをそのまま口にするのは、多分マリカの気に入らないであろうことは察せられた。とても優しい――優しすぎるほどの方だから、使用人の子供の身の上も案じてくれるのだろう。母であるエルジェーベトが間もなく死ぬからであろうと思えば、マリカの気遣いは即ち彼女にも向けられていることにもなるだろうし。

 先を促した彼女のことを、マリカは疑わしげに眺めた。ほとんど見たことのない表情に、エルジェーベトの心は微かに乱れ、この方に疑うことを覚えさせた王や側妃への怒りと憎しみを再燃させる。


「……あの子が貴女の息子であることを、ファルカス様には打ち明けました。本来なら、連座で死を賜ってもおかしくないことだと分かった上で、あの子だけでも助けてもらえないか、と。マリカもお願いしてくれて……だから、ファルカス様は許してくださいました」

「まあ、何と慈悲深いことでしょう!」


 それでも、マリカの言葉を聞いて、エルジェーベトは心から叫んでいた。安堵と喜びの笑みが、彼女の顔を彩っていることだろう。別に息子の無事が嬉しい訳では全くないけれど、彼女の意を受け継いだ者がマリカたちの傍に侍り続けることができるなら、願ってもないことだ。幼いなりに、ラヨシュはよく躾けられていると思う。きっと、主たちのためなら命を惜しむことなどないだろう。


 エルジェーベトの笑顔は、マリカにとっても受け入れやすいものだろうに、でも、主の表情は沈んだままだった。エルジェーベトの顔を見ていながら、きちんと目に入れてはいないような――今にも、目を背けたくて仕方がないかのような表情だ。死が近い者を直視できないというのなら、エルジェーベトはそのようなことを恐れてはいないというのに。むしろ、この世の最期の思い出に、しっかりと彼女の姿を見ておいて欲しいと思うのに。


「でも、条件なしでのことではなかったわ。罪を見逃すには、それだけの理由がないと。ラヨシュにも手柄がありました。私の手紙を、貴女とお父様ではなくアンドラーシ様に届けてくれたこと――それによって、私とマリカがお父様に攫われずに済んだこと」


 どこか心ここにあらずといった様子でマリカは続けた。その内容を理解した時、エルジェーベトは思わず遮るように叫んでいた。主人に対して、あってはならない非礼なのに。


「待って、マリカ様……あれを、息子が? なぜ、殿様のためではなく……いえ、そもそも、貴女様がそのように仕組まれた、と仰るのですか……!? 本当に……!?」


 でも、それはエルジェーベトにとって聞き捨てならないこと。にわかには信じがたく、しかも許してはならないことだったのだ。リカードはそうだと断じ、エルジェーベトも薄々とは疑っていたことだけど。でも、少なくともマリカは自分のしたことの意味が分かっていないのだと信じていた。

 マリカが言っているのは、王がブレンクラーレを攻めている間に起きたことだ。あの時、マリカは王宮から助け出して欲しいとリカードに乞うて――その寸前で、アンドラーシに攫われるようにしてバラージュ家に匿われた。王妃と王女を擁したことでアンドラーシは大義を手にし、一方でリカードは力ずくで王宮を襲ったとの汚名を着せられることになった。リカードの凋落の、まさに第一歩のような出来事に、まさか息子が関わっていたとは。


 ――息子が……ラヨシュが、アンドラーシに取り込まれたというの……!?


 マリカたちを託せる相手だと、無事を喜んだばかりだというのに。マリカが言ったのが真実ならば、彼女は実の息子に裏切られたことになる。図らずも、マリカに背かれたリカードの思いを、今の彼女は味わわされたというのだろうか。

 否、彼女自身のことなどやはりどうでも良いことには変わりはない。問題なのは、常にマリカで――告げられた言葉をそのまま解釈するならば、ラヨシュは、マリカの命令に従ってリカードと、そして母であるエルジェーベトへの裏切りを為したというのだろうか。それはつまり、マリカはとうの昔に彼女に背を向けていた……ということになるのか。王の不実や側妃の懐妊に心が惑ったからではなく、はっきりとした意思を持って? 彼女が虜囚の屈辱に耐え、いつ殺されるか分からない中で、せめてもう一度この方に会おうと危うい交渉を繰り返していたというのに?


 エルジェーベトが言葉を失っている間にも、マリカの言葉は止まっていない。衝撃のあまりにとはいえ、この方の声を聞き逃しかけるなど、自分自身が許しがたい。でも、マリカが紡ぎ出す一語一語、一文一文が、更にエルジェーベトの脳と心臓を揺さぶって、固く鎧っていたはずの心を綻ばせひび割れさせるのだ。


「それだけでも足りない……あの子だけの罪もありました。それも、ほとんど貴女たちがさせたようなものなのでしょうけど。その分については、貴女の手柄で差し引くということにしてもらいました。お父様が捕らえていた人たちを助けたことと、ファルカス様を奇襲から救ってくれたこと……そのことについては、ありがとう。でも、それで貴女を助けることはできない……!」

「そんなことはどうでも良いことですわ! マリカ様、どうして……!? 貴女様も、殿様を……お父君を見捨てられたというのですか!?」


 貴女様、と言ってしまったのは、失言だった。これでは、エルジェーベトリカードを裏切ったのだと、そのつもりでの行いだったのだと認めるも同然だ。でも、幸いにマリカはそれを聞き咎めることをしなかった。眉を寄せ瞑目した、苦渋に満ちた表情が、彼女の言葉を聞き入れる余裕がないのだと教えていた。


「娘として、ずっと守っていただいていたのに不孝なことだと分かっています。でも、父である方が罪を犯すのを見過ごすのも不孝でしょうから! 私は……あの方の罪にずっと気づくことができなかった! エルジェーベト、貴女のことも……」

「私のことなど良いのですわ……貴女様のためですもの……」


 ――何を……何のことを言おうとなさっているの……!?


 それでも、エルジェーベトの心臓は鼓動を早める一方で、安寧とはほど遠い。がんがんと脈打つ血の音は、耳元で鳴り響く鐘のようだ。エルジェーベトのこと、というのが、側妃に毒を盛ったことを言っているなら、まだ良い。それなら既にマリカに知られていることだ。でも、ずっと気づかなかったこと、というのなら。リカードと並べられて言われることなら。……エルジェーベトには、マリカには決して知られてはならない秘密がある。


 なのか、などと。口に出して尋ねることなどできるはずがない。万が一にもマリカが違うことについて言おうとしているのなら、自ら秘密を明かしてしまうことになる。


「お父様にお聞きすることは、もうできないわ……。だから貴女にしか聞けないの。だから教えて、エルジー……エルジェーベト。お父様と、何があったのか。お父様に、何をされたのかを……!」


 だからエルジェーベトは、虚しく口を開閉させながらマリカの言葉を聞くことしかできなかった。弁解も言い訳も、この場を切り抜ける言葉は何ひとつ思いつくことができなくて。


 マリカの黒い目には、いまやはっきりと不信の色が見えていた。リカードとエルジェーベトの関係を、この方はどうしてか知ってしまっているのだ。

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