第47話 喜びと不安 ウィルヘルミナ
夫が無事に戦場から帰ったというのに、華やかな空気や晴れやかな笑顔で迎えることができないのは、ウィルヘルミナの記憶にある限り、多分初めてのことだった。喜ぶ気持ちは確かにあるし、伝えて差し上げたいとも思うのに。唇に弧を描かせようとしても強張るだけで、とても笑顔とは呼べない引き攣った表情にしか見えないだろう。そしてそれは母である彼女だけの話ではない。傍らに並ぶ
――これでは、いけないのに……。
夫は、彼女たちが父の――マリカにとっては祖父の――死を悲しみ憤っていると思ってしまうだろう。そのような思いは、少なくとも憤りなどという勝手な感情については、今は全くないというのに。
「ご無事のお戻り、心から喜ばしく思っております。……あの、私が申し上げるのは、図々しいことなのでしょうけれど……」
ウィルヘルミナの顔を強張らせ声を震わせるのは、もっと別の感情だった。
父と兄の死に心乱れ、残された母や姉たちを憂えたのも最初だけのこと、夫の帰りを待つ間に、ウィルヘルミナは驚くほどに心を落ち着かせることができていた。娘として不孝であり、妹として薄情ではあるのだろうけど。覚悟してきたことがとうとうやってきただけなのだ、と思うことができたのかもしれない。
悲しみに代わって頭をもたげてきたのが、肉親として父の罪の一端を負うことの恐ろしさと後ろめたさ、ひとり安全な場所で守られていたことへの羞恥だった。夫が命を危険に曝すことになったのは、父のせいだ。そして夫は大きな怪我もなく帰って来てくれたけど、そうでなかった人たちも当然のことながら多いのだ。反逆者の娘の癖に、王の傍でその無事を祝うなど、許されてはいけないように思えてならないのだ。
厚顔を咎められはしないか、と。恐る恐る夫の反応を窺っていると、日に灼けた精悍な頬が少し緩んだ。ウィルヘルミナと同じく、笑顔とはほど遠い、硬い表情ではあるけれど。でも、笑おうとしてくれたのだということは分かった。
「何を言う。妻と子が出迎えてくれたのだ。喜ぶ以外あり得ぬだろう?」
「ファルカス様……」
夫が本心からそう言っているのかは、分からなかった。父のしたことへの怒りはもしかしたらウィルヘルミナに対しても向けられているかもしれないし、満面の笑顔で迎えなかったことを不満に思っているかもしれない。でも、たとえそうだとしても、夫はそれを表に出すことはしないでいてくれた。これまで何度かあった凱旋と全く同じであるかのように振る舞ってくれるのは、反逆者の血を引く妻と子への気遣いである、と……信じても、良いはずだ。
「……留守中、頑張ってくれたと聞いたのだ。今まで何も任せなかったのは間違いだったと思っているところだ。これからも、俺を助けてくれるか……?」
「そんな……私は結局、シャスティエ様に助けていただいただけですのに」
解放された女性たちの件が夫の耳にも届いていたと知らされて、ウィルヘルミナは耳が熱くなるのを感じながら俯いた。父から危害と苦痛を加えられた方たちだと思えばこそ、娘としてできるだけ力になって差し上げたいと思ったのに。結果としては身重のシャスティエの心身に負担をかけるだけのことになってしまった。叱られこそすれ、褒められるようなことでは決してないだろうに、どうして夫はこうも彼女を甘やかしてくれるのだろう。
父の罪にもかかわらず、ウィルヘルミナは図々しくも夫を愛しているけれど――夫の方も、彼女に対してまだ情があると、信じても良いのだろうか。
「あの……」
「うむ」
夫とふたり、見つめ合い手を宙に延べながらも、近づくことができない。ほんの数歩の距離を縮めて、その胸に飛び込んで良いのか分からないから。夫も持っているらしい躊躇いを捨ててもらうには、彼女から動かなければいけないのかもしれないけれど、思い切ることができない。
と、大人たちがまともに口も利けずにいる気まずさに焦れたのだろうか、下の位置から高い声が上がった。
「――お父様!」
青灰の目に毅然とした決意を浮かべて、マリカがウィルヘルミナの傍らから進み出たのだ。母がどうしても進むことができなかった数歩を、娘は軽やかに駆けて父の間近へと寄る。小さな手が父の服の裾を掴み、細い首がほとんど直角に曲げられて、長身の父を見上げる。両親よりもよほど勇気に恵まれた娘は、でも、最後の最後で怖気づいたのかもしれない。父の服を掴む手に力が籠り、皺を作ったのがウィルヘルミナのところからも見て取れた。
「あの……おかえり、なさい」
全身を強張らせたマリカが、やっと紡いだ声はおずおずとした小さなものだった。でも、はっきりと聞き取ることができる。
――ああ、マリカ……!
娘のか細い声の、なんと雄弁なことだろう。祖父についての戸惑いや、大人の勝手な世界への不信は窺わせつつも、確かに父との再会を喜ぶ思いが込められている。ウィルヘルミナが言葉では言い表すことができなかったことを、娘はひと言で父に伝えてくれたのだ。
娘の声に込められた思いを、夫も正しく汲んでくれたのだろう。強張っていた頬に、初めて穏やかな笑みが浮かべられる。
「ああ。よく、良い子で待っていてくれた」
「うん……!」
夫に頭を撫でられて、マリカの声は大きく弾んだ。ウィルヘルミナからは後ろ姿しか見えないけれど、満面の笑みを浮かべたのだろうと、はっきりと緩んだ夫の表情から思い描くことができた。
そうしてやっと、ウィルヘルミナも夫に寄り添って抱きしめることができた。抱きしめ返す夫の腕も力強くて――夫からの思いを温もりという形で確かめることができるのは、この上ない幸せだった。
マリカとウィルヘルミナで夫を挟んで長椅子に掛けて、甘いものを出してもらって。親子三人での歓談は、長く続かなかった。マリカがこの間に覚えたこと、ウィルヘルミナがシャスティエと話していたこと、明るい話題も決して皆無という訳ではなかったのだけど。母や姉たち、父の一族の中でも死は免じられた者たちの処遇や父の領地の行方は、幼いマリカの前ではやはり口にしづらいことだった。
「ファルカス様、あの……」
けれど、歓談が終わってしまったのは、ウィルヘルミナが黙りこくってしまったからという訳ではない。むしろ逆で、彼女から夫に言わなければならないことがあったのだ。これもまたマリカに聞かせるには酷なこと、彼女としてもとてもとても気の重いことではあったのだけど。でも、言わなければならないことだった。
「ご報告しなければならないことがありますの。あの……ラヨシュの、ことで……」
だから、膝の上で衣装の生地を握りしめながら、ウィルヘルミナは夫の青灰の目を覗き込んだ。声が震えそうになるのを必死に抑えて、努めて冷静に、頭の中でずっと整理してきたことを並べる。あの少年が打ち明けてくれたこと、ウィルヘルミナの、そしてマリカが願うことを。
「シャスティエ様のご不安もお怒りも分かります。でも、ラヨシュは母親の――エルジェーベトの教えに忠実であろうとして目が曇っていたのだと分かってくれました。シャスティエ様が私やマリカを守ってくださったのを見た今となっては、もうあの方にもフェリツィア様にも危害を加えようとはしないでしょう。だから、どうかあの子を許してくださいませ……!」
――お父様のことより、私……必死になっているかしら。
夫に訴えながら、ウィルヘルミナは頭の片隅で静かに考えていた。夫の勝利を聞いてから今まで、彼女はラヨシュのことをどう説明するかに頭を悩ませていたのだ。父の死を嘆き、身内への処遇に心を痛めるよりも、もしかしたらずっと長い時間を割いて。だって、王妃とはいえ――王妃だからこそ、夫よりも父につくかのような言動をしてはならないと分かっていたから。
ラヨシュも、広い意味で言えばティゼンハロム侯爵家の家臣ということになるのかもしれないけど、夫の命によって母との縁は既に断絶させられている。父に着いた諸侯の中にもウィルヘルミナが見知った者たちはいるけれど、彼らの命乞いなど口にすることすら許されない。でも、ラヨシュならどうだろう。あの子だけでも守り切ることを考える方がずっと見込みがある、だろう。
そして見込みが全くないことよりは、少しでもあるものをどうすれば増やせるだろうか、と考える方がはるかに気が楽だったのだ。だから、ラヨシュの存在はウィルヘルミナの心の持ち方を支えてくれたとも言えるのだろう。
多分先ほどとは違う理由で、夫は眉間に深く皺を寄せていた。せっかく凱旋したばかりだというのに、悩ませることばかりを聞かせるのは本当に心苦しいこと。でも、このことはすぐに言わなければならなかった。
ウィルヘルミナが必死の思いで見守っていると、夫はす、と目を逸らして彼女とは反対側に座るマリカを見下ろした。
「マリカはどのように思う? 母と同じことを願うのか?」
「うん……」
マリカが小さく頷くのを見る間も、ウィルヘルミナの心臓は痛いほどうるさいほどに高鳴っていた。ラヨシュをどうしたいのか、と。彼女もかつて娘に問うていた。祖父の悲報を聞いた後で、父と再会した後で、娘の心は変わったのかどうか、母に同意してくれるのか、この期に及んでも一抹の不安が拭えなくて。
「アルニェクが殺されてしまったことは悲しいし、怒っているわ。でも、ラヨシュがいなくなってしまったらもっと悲しいから……だから、お願い、お父様」
でも、マリカは母よりもよほどきっぱりと父に伝えてくれた。先にウィルヘルミナの問いに答えてくれた時は、噛み締めた歯の隙間から絞り出すような声だったというのに。
マリカの怒りと憎しみが収まってくれるものなのか。それ以上に、罪に対する罰が、周りの者の心証によって左右されるのを見せることで、娘の心を歪めてしまわないか。マリカが頷いてくれた後でも、母として心配は尽きなかったのだけど。少なくとも、ラヨシュの無事を願う気持ちは真実なのだと思って良いのだろうか。
「そうか」
マリカの真摯な面持ちを見て、夫も頷く。夫の眼差しを受け止めるのは、今度はウィルヘルミナの番だった。
「お前の乳姉妹のエルジェーベトという女を捕らえている。その女も側妃と王女の暗殺未遂に関わっているから、助命することはできないが――」
「はい。分かっております」
心臓が針で刺されるような痛みを感じながら、ウィルヘルミナは答えた。エルジェーベトも、彼女が考えた「助けようがない者たち」のひとり、というか筆頭だったから。ラヨシュの話をしているのになぜ、との疑問も掠めたけれど、夫がすぐに続けてくれたことで理由は分かる。
「同時に、その女にはティゼンハロム侯爵が人質に取っていた者たちを解放するという功績がある。奇襲を防ぐ進言もあった。だから許しても良いだろう、という者もいるのを、どう黙らせれば良いかと考えていたのだが」
「はい……」
人質の女たちとの一幕を、その女たちに父とエルジェーベトの
「母親の功を、息子の罪を帳消しにするために使う、というのはどうだ……?」
「それは、どういう……?」
自身の心の昏い淵に沈みかけていたから、ウィルヘルミナは夫の言葉を聞き逃しかけた。慌てて聞き返しながら、夫の表情が意外なほど明るい――安堵しているかのようなものであることにも、改めて気付く。実際、左右の妻と娘を交互に見ながら続ける夫の顔は、ほんの微かにではあったけど微笑んでいた。
「母親ならば息子が罪に問われて死を与えられるのを喜ぶまい。その女も、自らの命については惜しまぬと言っているのだ。だから、息子を助けることで功に報いてやろう、ということにする」
「では……!」
「エルジーは、どうなるの……!?」
ウィルヘルミナの声は、夫の意を察して希望に満ちたもの。対するマリカの声は、恐怖か焦りによって張り詰めていた。娘にとってエルジェーベトは、まだ優しくしてくれた侍女でしかないのだ。
――これも、私の落ち度だわ……。
エルジェーベトが生きていることを聞かされてはいても、ウィルヘルミナは彼女の処遇を確かめようとしなかった。助かるはずがないと思っていたからでもあるし、父とのことを知ってしまった以上は考えるのが恐ろしかったからでもあるのだろう。でも、そのために娘には酷な形で彼女が死を賜るということを教えることになってしまった。
「エルジェーベトという者を見逃すことは、どうあってもできない。犯した罪が重すぎる。しかし、母親の命と引き換えに息子を助けるという計らいならば、できる」
「そう、なの……」
夫の声の調子から、嘆願する余地はないと悟ったのだろう。激昂してしまうのでは、と案じたウィルヘルミナの予想とは裏腹に、マリカは短く答えて俯いただけだった。諦めてくれたのなら良い、と思ってしまう母の胸の裡を知られたら、多分娘は怒るだろうが。
マリカを痛ましげに見下ろした後、夫はウィルヘルミナに向き直った。
「……その者は、王宮の牢に繋いである。会っても心が乱れるだけだろうし、正直に言って害はあっても利はひとつも思いつかない。だが、お前が望むなら――」
夫が言いたいことは、分かる。夫が恐らく思っているのと同様、ウィルヘルミナもエルジェーベトが罪を悔いたり反省したりするところが思い浮かばない。会えばきっと、夫やシャスティエに対する毒のような思いを聞かされるのだろう。最後に王宮の庭で密かに会った時にされたように。それは、よく分かるのだけど。
「心配してくださってありがとうございます。私の弱い心がご不安なのも、とてもよくわかります」
すっかり皺になってしまった衣装を更に強く握りしめて、ウィルヘルミナは夫の目を見返した。先ほどのマリカにも負けないように、はっきりと。エルジェーベトと会って揺らいでしまうであろう彼女を案じる夫に、少しでも信じてもらえるように。
――でも、聞かなくてはならないの。
「でも、最後、ですから……。少しで構いません。マリカも連れて行かずに、ふたりだけで……それが、良いと思いますから。エルジー……エルジェーベトと話をさせてくださいませ」
エルジェーベトとまともに話ができるとは、ウィルヘルミナも全く信じてはいない。でも、真実を知る者が生きているうちに聞いておかなければならないことがある。ラヨシュの出自についてのことだ。父とエルジェーベトの関係が長く続いていたのなら、ラヨシュの父親はエルジェーベトの夫ではないかもしれないのだ。父の血を引く存在ということになってしまえば、夫の寛大な処置もまた話が変わってくるだろう。
だから、確かめたい、というよりは否と言って欲しい、という方が正しいのだろう。エルジェーベトから否定のひと言を聞くためだけに、ウィルヘルミナはもう一度だけ彼女と会わなければならないのだ。
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