第46話 ささやかな復讐 シャスティエ

 ティゼンハロム侯爵領から戻った王は、まずはシャスティエの離宮を訪ねてきた。


「よくご無事でお帰りになってくださいました……!」

「お前の方も。ミーナのために頑張ってくれたと聞いた。お前も大事な身体だというのに……」

「ミーナ様のために、と思うと居ても立っても居られませんでしたの。それに、怒っていた方が、私らしいのではありませんか?」

「いや、お前にも笑っていて欲しい」

「まあ」


 夫の言葉に応えるように微笑みを作りながら、腹を庇いつつ逞しい胸に飛び込みながら、でも、シャスティエの心の芯はどこか冷たく凍っていた。王はお前にも、と言ったのだ。彼女の夫には、もうひとりミーナという妻がいることを、突きつけられたかのようで。常に優しく笑顔が似合うあの方と、引き比べられたかのようで。

 それに、夫が王妃を差し置いて側妃を訪れた意図も深読みせずにはいられない。多分夫は、ミーナに会うのが怖いのだ。父君のティゼンハロム侯爵だけでなく、ミーナの兄も既にこの地上にいないと聞いた。直接の血縁がある者以外にも、今回の乱での死者、特に反逆者として死を賜った者の中には、あの方と面識がある者も多かったはずだ。


 反逆だけでも許されざる大罪であるところ、ティゼンハロム侯爵は更にイシュテンの者が決して見過ごすことができない罪を犯した。戦場に背を向け、己のために集った――あるいは脅してそのように強いた――者たちを見捨てる、という。取り立てて戦いを好む訳ではないシャスティエでさえ、その所業には眉を顰めてしまうのだ。堂々と戦うことこそを正義とするイシュテンの者ならば嫌悪も一層のことだろうし、ミーナもそのことはよくよく承知してはいるだろう。

 でも、だからといって肉親の死を当然として受け流すことができるかどうかは全く別のことだ。夫と父の対立に心を悩ませていたあの方のこと、きっと覚悟はしていただろうけれど。父君の訃報を聞いた後、手を下した本人である王をどのような顔で迎えるのか、シャスティエには想像できない。彼女以上の年月をあの方と過ごした王にとっても恐らく同じことで、だから、先にシャスティエを訪れることで心の準備をしようとしているのではないだろうか。


 夫の心に他の女性がいるのを感じること。けれどその相手がシャスティエ自身も大切に思う方だということ。その方が、彼女と同じく肉親を奪われる悲しみを耐えようとしていること。愛する方と大好きな方の間に亀裂が生じることを案じながら、自らは何もできないこと。いずれも、シャスティエの心を痛ませ悩ませるのだけど。


 ――でも、考えても仕方のないことね……。


 ひとりの夫にふたりの妻。その在り方を選んだのは――というか、王とミーナの間に割って入ったのは――シャスティエ自身だ。そして、ミーナは寛容にも共に夫を愛し支えたいと言ってくれた。今、ミーナの心が弱っているのだとしたら、彼女がよりしっかりと王を支える番なのだろう。王が先にシャスティエを訪れることで、ミーナの方も心を落ち着かせる時間を得ることができれば良い。


「フェリツィアを抱いてやってくださいませ。とても重くなったのですよ」


 だからシャスティエは微笑みを心からのものへと深めた。王も侍女たちも、彼女の心の変化には気付かなかったかもしれないが。彼女のもとにいる今宵だけは、王に団欒というものを味わわせてあげるのが良いだろう。




 フェリツィアは父のことを忘れかけていたのか、母や侍女たちとは違う硬い腕に抱かれて、最初は少しぐずりかけた。でも、長身の王の腕の中からの景色が目新しいのか、すぐに笑顔も見せてくれた。女ばかりの離宮では、思い切り「高い高い」をしてあげるようなことは難しいのだ。


「顔かたちがはっきりしてきたな。母親に似ている」

「でも、髪と目の色が濃くなってきましたの。イシュテンの血も現れていますでしょう?」


 生まれてすぐの頃はほぼ金色に見えたフェリツィアの髪は、成長するにつれて色が濃くなって、今では明るいとび色といったところだろうか。イシュテンの者の間に混ざればまだ目立つが、シャスティエほどではない。目の色も、母親の碧玉よりも琥珀の色に近い。女の子だからもあって、王が言う通り母親似に見えるかもしれないが、王の血筋を疑われることはないだろう、と思う。


 ――次の子も、こうなれば良いけれど。


 フェリツィアについては、そもそもたねに疑いが入る余地はないのだ。シャスティエが特に憂えるのは今胎に抱えた子についてのことだ。イシュテンで公にする前にレフに攫われ、結果として不義の噂を招くことにもなってしまった。せめてフェリツィアのような髪と目の色に生まれついてくれれば、とにかくもレフの子だというそしりは免れることができるだろうに。……口に出しては侍女たちにも王にも叱られるだろうけれど、できるだけ早くこの世に出てきてくれれば、という思いは今もまだ変わっていない。


「ミリアールトの子だということもすぐに分かる。――いずれ、かの地の者たちにも見せたいものだが」

「そうですね、フェリツィアと……この子が、旅に耐えられるくらい大きくなれば」


 何も知らずに妻を気遣う言葉を選んでくれる夫に対すると、胎児の危険を顧みないような考えはやはり抱いてはいけないのだと思わされる。シャスティエが撫でた腹に王が向ける視線は柔らかなもので、今更子が流れる恐れなど考えてもいないようだ。ならば、気付かないままでいてもらわなくては。余計な不安を口にして、ただでさえ心に懸けることが多い夫の悩みを増やしたくない。

 どうせ言葉にするならば、夫の心を軽くすることを。そう考えたシャスティエは、娘を抱く王に向けて頭を垂れた。


「ミリアールトとの国境にも兵を向けてくださったとか。お心遣いに、祖国の民に代わってお礼を申し上げます」

「王となった以上は当然のこと。感謝されるようなことではない」

「ええ。でも、お伝えしなければ私の気が済みませんから」

「大げさな……」


 口ではそう言いながら、フェリツィアを見下ろす王の目は明らかに安堵に緩んでいた。シャスティエの――少なくとも、妻のうちのひとりには嫌われていないと、信じさせることができただろうか。数多の敵と刃の前にも怯んだことがないであろう男なのに、女のひとりやふたりのために思い悩むことがあるのだとしたら、とても不思議なことだった。




 フェリツィアを寝かしつけた後、王と同じ寝台に休むのは黒松館での日々を思い出させる。とはいえ、あの時のように乱れたようなことには今はならない。シャスティエが身重の身体ではそのようなことになりようがない。王も朝が早いのだろうし。

 だから、例によって腹を庇った体勢を選びながら、王の傍らに横たわるだけだ。それでも、眠りにつく前のひと時、ふたりだけで言葉を交わすくらいの時間は取れる。


「明日は、ミーナ様たちのもとへいらっしゃるのですね?」


 そう切り出すと、シャスティエの髪を梳いていた王の手が止まった。いかにも後ろめたそうな、歯切れの悪い答えが返るまでに、数秒の沈黙が降りる。


「うむ……できるだけ、こちらにも顔を見せたいとは思っているが……」

「私どもの方はお気になさらず。ただ、あの方が心配ですの」


 とはいえ王の懸念は的外れだ。妻のひとりであることも、王に暇な時間などない今の状況も、シャスティエはよく承知している。ただ、王の先ほどの様子からして、伝えておかなければならないことがあると思ったのだ。彼女の夫は、どうも妻たちの心を信じていないように見えてならない。シャスティエは、まだ心を――ある程度は――強く持ち直す猶予があったけれど、この調子でミーナに接するのだとしたら、非常に危うい。


 寝台に肘をつくような格好で身を乗り出し、王の耳元に訴える。


「決して、あの方がファルカス様を憎んでおられるなどとはお考えにならないでくださいね。私がミーナ様のお心を忖度するなど僭越も甚だしいのですけれど」

「だが――」

「私の言うことですからあてになどならないと思われるかもしれませんけれど。……確かに、そういうお気持ちが欠片もないとは、私には言えないのですけれど。陛下が――ファルカス様がお気になさるとしたら、もっと別のことだと思います」


 王が止める気配がないか窺いながら、口を挟む隙を与えないようにと務めながら、シャスティエは言葉を探した。イシュテンの王が、妻とはいえ女の諌言めいた言葉に耳を傾けるなど、多分稀な機会だろう。王としての男としての意地だか矜持だかに止められる前に、王の彼女への苛立ちが罪悪感を上回る前に、言うべきことを言ってしまわないと。


「ミーナ様は、多分ご自身を責めていらっしゃると思います」

「ミーナが、何を……?」

「父君を止められなかったこと。ティゼンハロム侯爵が、本心はともかく建前としては、あの方のためと言って王に背いたこと。侯爵のために亡くなった人傷ついた人が大勢いて、なのにご自身は無傷でいらっしゃること。夫である方の……その、足手まといであるかのように思われて。自分がとても罪深い存在であるかのように――息をすることさえ憚られる様な。……そういうことの全てが重なって、消えてしまいたいと思ってしまわれるかもしれない、と……」


 舌と頭を同時に動かすことに夢中になっていたから、シャスティエは王がいつしか半身を起こして彼女を見下ろしていることにしばらく気付かなかった。窓から射す仄かな月と星の光、それが浮かび上がらせる夫の顔が、奇妙に引き攣っていることにも。


「それは、お前がそうだったということなのだな……?」

「あ……」


 自分自身が何を言っていたかにも、シャスティエは気付いていなかった。ミーナの心を慮ったつもりで、彼女はレフの死を知らされた直後の自身の想いをなぞっていたのだ。一体どんな表情で語っていたのか、頬に触れてみても自分では分からなかったけれど。


「……いえ……いいえ、そうなのですが。今申し上げたいのは、ミーナ様のことで――」


 王は、彼女の夫は、妻の心を垣間見てひどく傷ついている。自身の行いが妻を悲しませたことを改めて突きつけられて、悔いている。夫の表情からそれを読み取って、シャスティエは驚きのあまりに声を詰まらせた。


 ――この男が、こんな顔をすることがあるの?


 楯突いて、恨み言を言って、苛立たせ怒らせたことなら数え切れないほどある。でも、どんな時でも王が揺らぐことはなかったように見えた。過去は過去と斬り捨てて、強者と勝者の目で先だけを見て、彼女の悲しみや憤りを理解することはなくて。だからこそシャスティエの憎しみも掻き立てられたのだろうに――それが、この表情だ。

 レフの死が避けられないものだったことは、シャスティエだってよく知っているのに。それで王を責める気にはなれないというのに。


 ――こんな、簡単なことで?


 夫が今どんな顔をしているか記憶に刻もうと、シャスティエは闇に目を凝らした。復讐を胸に抱いていた間、彼女は多分王のこの顔が見たかったのだ。ミリアールトに対する罪、彼女が感じた痛みを思い知らせたかった。ティグリス王子の誘いに揺らいだのも、復讐を意味する婚家名を選んだのも、そのためだった。そこまでしても、王の心に手傷を負わせることは不可能なように思えたのに、国を揺るがす陰謀よりも、言葉のひとつやふたつが鋭い刃を持っていたとは。


「……何を言っても、償いになどはならぬのだろうが……」


 シャスティエに伸ばされた王の手が、でも、彼女に触れる前に止まる。見えない壁に阻まれでもしたかのように宙をなぞるその手を捕らえて、シャスティエは自身の頬を包ませた。


「……大丈夫です。これから、の方が長いのですから。私も、ミーナ様も……」


 夫の弱々しい声を聞くのは痛ましく、けれど一方で彼女の心の奥深くを満足させた。祖国を滅ぼした仇に痛手を負わせたことは、確かにではあるのだろう。ごくささやかな形とはいえ、彼女は復讐を果たすことができたのかもしれない。もはや、愛する人を苦しめること、それを――ほんの少しとはいえ――悦んでしまうことは、彼女自身の心をも苛むことではあるのだけど。


「もう、苦しめないと……約束することすらできぬ」

「ええ。でも仕方ないことです」


 王の手が逃げようとするのを抑えながら、彼女の肌の温もりを伝えながら、シャスティエは静かに答えた。その気になれば振り払うのは簡単だろうに、王は彼女の頬に触れたままだ。後ろめたさに躊躇いつつも、許されているという希望に縋りたいのか。今、王を抱きしめるのはどこか赤子フェリツィアをあやす感覚と似ている気がした。だからといって子守歌を歌う、などという訳にはいかないから、無言のうちに王の髪や頬や背を撫でるだけなのだけど。


 そうしていると、ふと、ミーナの声が耳に蘇った。


『ファルカス様が戻られたらちゃんとお伝えしましょうね』


 王妃と側妃とで王の帰りを待つ日々の中で約束したのだ。王が戻ったら、ふたりで堂々と愛を競うのだと。ミーナがこれまでしてきたように、シャスティエも夫に想いを伝えなければならないと。その約束を果たす時が、来たのだろうか。


 ――愛している、と……? いいえ、今は言えないわ……。


 でも、シャスティエは内心で首を振る。愛を囁けば王を慰めることができるのかもしれないけれど、彼女の言葉で傷つけておいてそのようなことをするのは、狡い気がする。あの時はああ言っていても、ミーナだって今まで通りに王に甘えることはできないだろうし。

 だから、抜け駆けのようなことをするのは止めておこう。そう、無言のうちに結論を出すと、シャスティエは王の頬にごく軽く口づけた。


「お疲れでしょうからお休みなさいませ。ミーナ様のところへいらっしゃるのに、お顔の色が悪いなどということがあってはいけませんから」


 ミーナのことも、ティゼンハロム侯爵のことも……レフのことも。何もなかったかのように、これ以上は言わせないとでも言うかのように。ことさらに軽やかな明るい声で、王の言葉を封じて目を閉じさせる。

 シャスティエ自身も身体の力を抜いて横たわると、その動きにつられたかのように胎児も身じろぎしたのを感じた。


 ――そうよ……この子が生まれたら、どのみちこちらの方に王の関心が向いてしまうかもしれないし。


 だから、今は父を亡くしたミーナに譲らなくては。王とはこれからも共に長く歩むのだから。愛を語る機会は幾らでもあるはずなのだから。


 幸せで穏やかな未来が近づいていることを信じて、シャスティエは目を閉じた。

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