第45話 初夏の薫風 ナスターシャ

 ミリアールト総督のエルマーが辞するなり、ナスターシャは侍女に命じて部屋中の窓を開けさせた。招いてもいない客と同じ空気を吸うのは決して愉快なことではない。敗残の身、それも、叛意を疑われているであろう身では、来客中にそのようなことをする気にはなれなかったが。人目がないところでなら、ささやかな――子供じみているかもしれない――反抗も許されるだろう。


「もう夏ね……」


 窓から入る風は、この国を長く支配する冬の鋭く冷たいものではなく、新緑の香りを帯びた爽やかなものだった。ナスターシャの目に映る庭の若葉や花々も色鮮やかで、一年のうちでも貴重な季節が廻ろうとしているのを彼女に思い出させた。

 この数年、彼女の心は常に雪と氷に閉ざされているかのようだった。ミリアールトにも春や夏が来ない訳ではないのに、明るく麗しい季節が訪れるのを、それを認識するのを、無意識のうちに自らに禁じていたのかもしれない。


「奥様。総督殿のご用件は何だったのですか?」

「ああ……」


 侍女が茶を用意しながら尋ねてきた。女主人の不快と心労を慮ったのだろう、蜂蜜をたっぷりと入れた甘さを味わいながら、ナスターシャは軽く息を吐く。


「イシュテンとの国境が少々騒がしくなるかもしれない、と。ティゼンハロム侯爵がついに討ち取られたとかで、残党がミリアールトに逃れようとするかもしれないそうよ。だからイシュテン王の命で追手を差し向けたのだとか」

「それは……ありがたいと、思うべきなのでしょうか……」

「ミリアールトを征服し統治しようというなら、それくらいしてくれなくては困るわ。そもそもイシュテンの問題でしょうに……!」


 侍女は、多分言葉通りにイシュテン王の計らいに感謝したのだろう。だが、女主人がその見方を快く思わないのも分かっていて、おずおずとした顔色を窺うような口調と表情になっていた。敗北を受け入れて飼い慣らされたような物言いも、イシュテンの内紛の火の粉を浴びせられているのを失念しているようなのも腹立たしくて、ナスターシャは茶器を置く際に高い音を奏でさせた。


 ――それに、どうせ牽制の意味もあるに違いないのよ……!


 エルマーがわざわざナスターシャを訪れたのは、イシュテン王の気遣いとやらを伝えて恩を着せるためだけではないだろう。もうひとつ、より大きな目的があの男の訪問に隠されていたはず。ティゼンハロム侯爵の残党が彼女を頼ったとして、絶対に受け入れるな、また王に背く企みは巡らせるな、と伝えようとしてのことだろう。


 事実、ナスターシャは一度はティゼンハロム侯爵と密約を交わしていた。彼女の最後の息子のレフを介して、ブレンクラーレのアンネミーケ王妃をも巻き込んで、イシュテン王を追い詰めようと企んでいたのだ。

 彼女が今もまだ生きていられている以上、関わった誰かしらが明確にナスターシャの関与を漏らした訳ではないのだろうが、レフの存在が露見した時点で、母であるナスターシャは厳しい追及を受けていてもおかしくなかった。それをされず、遠回しな牽制と軟禁だけに止められていること――夫や息子たちと違って、命を脅かされることなく安穏としていられること、それ自体がひどく不本意で後ろめたく、屈辱的だった。


 ただ、機会があればまたイシュテン王に復讐を目論んだかどうか、ティゼンハロム侯爵やその残党を受け入れたり援助していたかどうかというと、話はまた別だ。夫と息子を奪われた憎しみは、ナスターシャの心の奥深くをまだ冷たく凍らせてはいるけれど、でも、彼女の全てを支配してはいないと思う。


「……シャスティエ様のご出産も、間もなくでしょうね。今度こそ王子がお生まれになるのでしょうか……」

「そうね。王子か王女かは、生まれてみないと分からないものだけど。……母子ともに、健やかであれば……良い、わね……」


 侍女が淹れ直した茶を干すのは、先ほどよりもゆっくりと味わうように、ともすれば彼女の心を乱れさせる黒い想いを、もろともに呑み込むかのように。それに、シャスティエと子の無事を願う言葉も、噛み締めるように一語ずつ紡ぐ。

 三人いた息子を全て亡くしたナスターシャにとって、その仇であるイシュテン王の妻と子の幸せを無心に祈るのは難しい。でも、少なくともシャスティエは彼女が慈しんだ姪でもある。幸福シャスティエという名を授けられた日から、イシュテンに連れ去られるその日まで、成長を見守った美しい少女。その子の不幸を望むことは、きっと間違っている。


 ――グニェーフ伯……私は……。


 間違っていると思うようになれたのは、あの方のお陰、なのだろう。ナスターシャが八つ当たりのように渡した毒を、穏やかに飲み干して逝った人。レフを諫めなかったことで、かえって最後の息子を喪うことになった彼女を責めず、けれど過ちははっきりと指摘した人。仇の王を赦したシャスティエの道こそが祖国を守ると告げた人。そこまで言われたにもかかわらず、ナスターシャは毒杯を取り下げることができなかった。グニェーフ伯が倒れたその瞬間だけは、溜飲が下がるような思いさえしたのだけど。


 でも、グニェーフ伯は彼女にとっても人生の偉大な先達であり、王家とミリアールトへの忠誠を尽くすのを、長く間近で見てきた人でもあった。その方が命を賭けて遺した言葉を、どうして打ち捨てることができるだろう。

 赦すことは憎み続けることよりも難しい。それを身をもって知るナスターシャであれば、シャスティエの行動を心変わりと責めるのではなく、そこに至るまでの葛藤を思い遣って哀れんでやるべきだったのだ。もっと前に気付いていれば、もしかしたらレフはまだこの地上にいたのかもしれないのに。身分を明かすことはできなくても、ミリアールトの片隅に暮らして、ナスターシャは時おり彼を訪れる。そしてシャスティエだけを深く――深すぎるほど――愛していた彼も、他の誰かに心を傾けることもあったのかもしれないのに。

 復讐を夢見た彼女自身によって、その道は永遠に閉ざされてしまったのだ。ナスターシャがすぐにこのことに気付くだろうと、グニェーフ伯は分かっていたのだろうか。だから、彼女の後悔を雪のコロレファ女王・シュネガの氷の宮殿から眺めるつもりだったから、死に際してもあんなに平静だったのだろうか。そんなことを考えては、あの方を見損うことになるのかもしれないけれど。


 ――でも、貴方は全てを見越していらっしゃったはず……。


 蜂蜜の甘さにもかかわらず、ナスターシャの口内には苦い味が広がる。それは、自身の愚かさを悔いたからと、グニェーフ伯に完敗したのを認めたから、その両方の表れだったのだろう。


 エルマーらミリアールトに滞在するイシュテンの者たちが気付いたかどうかは分からないが、グニェーフの死が発表された後、この国の貴族社会は密かに荒れたのだ。無論、ナスターシャは彼女が毒を盛ったなどとは明らかにしていない。老伯爵は、あくまでも彼女の屋敷を訪れた時に倒れただけだ、ということになっている。――だが、それを信じ込む愚か者などいたのだろうか。


 グニェーフ伯がイシュテン王の施策に助力していたのを快く思っていなかった者たちは、ナスターシャの行為を正当な復讐として褒め称えた。直截にそのように言葉にすることはできなくても、考えを持つ者の集まりでは、彼女は戦場で首級を挙げた英雄のように奉られたらしい。ナスターシャ自身も、屋敷を訪れた者の言葉や態度の端々に滲むものや、心当たりも付き合いもないのに送られる季節の品々などからそうと察した。

 そして一方で、彼女を非難する者もいた。こちらも決して声高に為されるものではなかったけど、グニェーフ伯は――彼の晩年の言動にもかかわらず――多くの者にとってミリアールトの第一の忠臣だった。老伯爵に教えを受けた者や助けられたことがある者も多い。彼の子や孫も、有力な家の娘を娶り、あるいは嫁ぎ、一族全体として決して無視できない影響力を有している。……そのことも、全て承知した上であの杯を用意させたつもりだったのだけど。


 一部の貴族があからさまに態度を硬化させたことも、ナスターシャの目を覚まさせるのに一役買ったのだろうと思う。復讐は、絶対の大義にはならないと思い知らされた。彼女の憤りは、同じ国の中でさえ必ずしも共有されるものではなかったのだ。


 ――釘を刺さずとも、もう私にミリアールトを束ねるだけの声望はないわ……。


 舌の上に苦さを転がしながら、ナスターシャは唇を薄く微笑ませた。

 イシュテンの者は、いつまでたってもミリアールトの内情を理解しない。彼女が今のこの国で権威を有しているように見えたとしたら、亡き夫を介しての王家との繋がりのためだけだ。彼女自身に流れる王家の血は――父祖の婚姻によって皆無ではないとしても――諸侯を跪かせるほどの濃さではない。かつてならば、夫と息子を亡くしたことへの同情から尊重してくれる者も多かっただろうけれど、今となってはそうもいくまい。たとえティゼンハロム侯爵やその取り巻きがミリアールトに辿り着いて彼女を頼ったとしても、恐らく彼らが望むような、あるいはイシュテン王が危惧するような事態にはならなかっただろう。


「奥様……?」

「ああ、何でもないわ。美味しいお茶よ」


 侍女が心配そうに覗き込んでいるのに気付いて、ナスターシャは表情を改めた。苦みなど混じらない、心からの笑みを。皮肉げな表情で沈思黙考する主人を傍らで見るのは、中々に気疲れすることに違いない。まして、無抵抗の老人に毒を盛ろうなどと考えるような女なのだからなお更だ。


「総督殿のお話を、あちこちに伝えなければならないわね、と思っていたの」


 幾ら悔やみ思い悩んでも、過去をやり直すことはできない。彼女の夫も息子たちが生き返ることはないし、グニェーフ伯が戻ることもない。ならば、罪を負いミリアールトを託された者としてはこれから、を考えるしかないのだろう。

 ナスターシャのせいでミリアールトの団結は失われた。派閥の間に生じた隙にはイシュテンの手が伸びて、やがて彼らの支配も強固なものとして定着していくのだろう。それは、屈辱的ではあるのだけど。でも、グニェーフ伯の言ったことは、やはり現実的だった。シャスティエが嫁いだ縁を頼りに、イシュテン王が非道を働かないように絆を築くことこそがミリアールトが採るべき道なのだ。

 また、心の底にわだかまる暗い悲しみや憎しみは消えないけれど――民が暮らし、夫と息子が眠る地を守るためだと思えば、彼女ひとりのことなど些細なことと思える、はずだ。きっとシャスティエも、遥かイシュテンの地で同じ想いに耐えている。ナスターシャもよく知るあの娘が、親と国の仇を盲目に愛することなどあり得ないのだから。初めからそう、気付けていれば良かったのに。


「紙と筆を用意してちょうだい。手紙を書くわ」


 遅すぎる気付きに胸を裂かれながらも、ナスターシャは努めて明るい声を出した。イシュテンの乱の結末は、すぐにミリアールトにも伝わるだろう。ティゼンハロム侯爵の残党がこの国を脅かすかもしれないことも。万が一にも、その者たちを匿ってイシュテン王に逆らおうなどと考える者がいないように、先手を打っておかなければならないだろう。たとえ彼女を快く思わない者に対しても、国を想う心からの言葉ならば通じるだろうと信じたかった。


 窓から吹き込む初夏の風が室内を撫でる。ナスターシャが常に持ち歩く小箱、今は茶器の傍らに置かれたそれにも爽やかな香りが届いただろうか。

 小箱には、夫と息子たちの遺髪が収められている。ミリアールトで死んだ夫と上のふたりのほかに、レフをこの地で弔うことができるのは、確かにイシュテン王の慈悲ではある。素直に感謝できるかどうか、そもそもイシュテンの方から侵攻してきた勝手さはまた別として。敗者への哀れみに過ぎないのだとしても、過分のことと承知しなくてはならないだろう。その考えを屈辱と捉えるならば、あるいはまた違った見方をすることもできる。つまり――


「貴方たちの眠りは、妨げさせないわ……!」


 小箱を撫でて、ナスターシャは囁いた。蓋を開いて中の髪を見たり触れたりすることはしない。そんなことをしては、また悲しみに溺れてしまうから。愛する人たちの死を存分に悼むとしたら、この国がもっと落ち着いた時に。


 その時を一日も早く実現させるためにも、自身ができる限りのことをしよう。ナスターシャはそう決意すると、侍女が渡してきた紙の上に筆を走らせ始めた。

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