第40話 狩りの始まり アンドラーシ

 馬を進める度に、蹄が泥濘ぬかるみを踏む感触がアンドラーシにも伝わってくる。別に雨が降ったという訳ではなく、この戦場で流れた血によって生み出された死臭漂う沼だった。後で汚れた馬の脚をよく洗ってやらないと、傷が膿んでしまうだろう。

 重傷を負いながら死に切れぬ者の呻き声、死体を漁ろうと空を舞う鴉などの黒い影。彼が既に何度も経験したものではあるが、高揚が醒めた目で見ると、戦場の跡というものは常に惨憺たるものだ。


 ――まあ、シャルバールの時よりはよほどマシだろうな。


 あの時は、一面を水に浸された平野から死体を回収しなければならなかった。死臭や腐臭に関してだけ言えば、多少は水に流された分楽だったかもしれないが、水を吸って膨れ上がった死体を何百と見るのは決して気分の良いものではなかった。そもそもティグリスが平野に無数の穴や溝を巡らせていたお陰で、後始末の作業も必ずしも安全なものではなかったし。


 それを思えば、今回の戦いはごく平凡なものだった。実際に剣が交えられ矢が飛び交った時間は短く、しかも王の軍が一方的にリカードの――当のリカードは戦場にいなかった訳だが――兵を追い詰める展開だった。手柄のために敵の首を求めるより、味方の行き過ぎを止める役を負うことになるなど、アンドラーシ自身も予想だにしていないことではあった。


「またか……」


 と、動くものの少ない平野に、動く影を幾つか見つけてアンドラーシは小さく舌打ちをした。戦いの趨勢はとうに決した。というか、戦場を放棄してひとり逃げたらしいリカードによって、この場に集った将兵が殺し合う理由はほぼなくなった。だからこそ、戦う意思のない者を無為に殺すな、というのが王の命だ。怒りに駆られて雑兵を嬲ったところで、リカードに逃げる時間を与えるだけだから、と。彼が柄にもなく味方を抑える側に回っていたのは、王の考えも、リカードを取り逃すことの厄介さもよくよく承知していたからだ。


 アンドラーシだけでなく、王自身も声を嗄らして戦場を駆け回り、殺戮の無駄を説いたというのに。目先の感情に捕らわれて言葉が通じない者も、残念ながらそれなりに多かったのだ。


「深追いするなとのご命令が聞こえなかったか!? 降伏した者は無暗に殺すな!」


 彼の目に留まったのは、小規模な小競り合いだった。数騎の騎兵と、それに従う歩兵と従者とからなる最小の単位の軍が、ふたつ。争うというよりは片方が他方を追いかけまわしているように見えるのは、リカードに与した者を血祭りにあげようと気炎を上げているのだろうと判じて、アンドラーシは声を荒げる。同時に視線と手ぶりでの合図で、彼の麾下の兵に争いを取り囲むように命じる。ざっと目で数えた限り、彼が従える戦力は力づくでも諍いを止めさせるのに十分に見えた。追われている者を捕らえたとして、王は結局首を刎ねるとの判断を下すのかもしれないが、それはまた後でのこと。この場での争いを放置した方が、人死には増えてしまうだろう。


 勝ち戦の勢いに乗って敗者を嬲ろうという程度の連中、更に大勢で囲めばすぐに大人しくなるだろうとアンドラーシは考えたのだが――


「ですが、この者は――」

「陛下の御命を狙った卑劣な者の主なのだ!」

「恥じ入って命を絶たぬこと、全くもって許しがたい……!」


 追う側にいた者たちは、引き下がるどころか口々に彼に訴えてきた。それも、確かに聞き捨てならないことを。


「陛下を……?」


 リカードが自家の紋章すら囮にして王を毒で狙おうとしたのだ、とは既に戦場に広まっている。王の傍にいた彼自身が、紋章を帯びた者がリカードではのを見たし、その死体の有様からして、刃ではなく毒に斃れたのだろうとも分かった。加えて、彼も王に従ってそれらのことを喧伝することもした。王に毒の矢が届くことがなかったのは、射手がわざと外したのか狙いを誤ったのかは分からないし、王によるとその者は失敗、あるいは裏切りを命によって償わせられたらしい。その者の死体さえもが戦場の土に紛れたであろう今となっては、全容が明らかになることもないだろうと、漠然と考えていたのだが。


「貴様は、リカードと話したのか? 偽物を立てるつもりだったこと……知らされていたのか!?」

「俺は何も知らぬ! そして不忠の謗りは心外極まりない!」


 ことがことだけに、アンドラーシは思わず声を上げていた。といっても、それは非難というよりは驚きの色が強かったはず。雌雄を決するべき戦いの場に、卑劣な毒矢などを持ち出したことへの憤りは、リカードだけに向けられている。しかも、この場に残った者たちを責めるのに時間を費やせば、それだけリカードに余裕を与えることにもなってしまう。だから――かつての彼なら違ったかもしれないが――目の前の男を糾弾したり、ましてや私刑に加担するようなつもりは本当になかったのだが。

 追われていた一団を率いていた男は、引き攣った悲鳴のような声をあげてアンドラーシから距離を取ろうとした。といっても、包囲されつつあったところだから逃げる場所などあるはずもない。人馬の壁に阻まれて、その男の馬は困惑したように首を振った。そこに浴びせられる主の狼狽えた大声は、多分馬にとっては迷惑だったろう。


「確かにリカードめは俺の家臣に声を掛けていた! ふたりといない弓の名手だ、王を――陛下を狙わせようという肚積もりなのも察してはいた! だが俺は止めたのだ! 逆にリカードを討つように命じてさえいた! 陛下に釈明の機会を賜りたい……!」


 とにかくも、アンドラーシの乱入のお陰もあってか、その男は言いたいことを言い切ることができたらしい。恐らくは、自らに都合の良いように事実を曲げて誇張しているのだろうな、という空気はふんだんに漂ってはいたが。


 ――まあ、判断されるのは陛下だしな。


 アンドラーシは、嘘と真実の境を見極めるのは王に委ねようとあっさり決めた。考えること裏を読むことが苦手なのは、結婚しても多少経験を重ねても変わらない彼の性質なのだ。




 呆れたことに、先ほどの男を追いかけていた一団も、そもそもはリカードの側で戦っていたらしい。当然というか、本人たちは恐怖で縛りつけられていたのだ、と主張するのだろうが。王の軍が間近に迫っているというのに離反する機会を見つけられなかった怯懦、それに、いざ勝敗が決したと見るや、命乞いの材料を求めて先ほどまでの味方を追い回す厚顔さ。いずれも見下すべきものだとアンドラーシには思われる。


「その者の弓の腕は、主たる臣が誰よりよく存じております。飛ぶ鳥を落とすのも、あれにとっては児戯に等しいことでしたでしょう。臣も折に触れて話題にしておりましたから、ティゼンハロム侯爵の耳に入ることもあったのでしょう」


 厚顔さという点では、無事に王への拝謁を果たしたこの男も同等と言えるかもしれないが。戦場跡の死臭を逃れて、少し離れた小高い場所に設置された天幕で、男は低く跪きながら滔々と並べ立てていた。


「侯爵によほど脅されたのでございましょう、その者は大層青褪めた顔色をしておりました。ですが、だからこそ臣は気付いたのです。ティゼンハロム侯爵は、口にすることも憚られるような命令を与えたに違いない、ティグリスめに倣った戦いを汚す卑劣な策に、臣の下僕を巻き込もうとしているのだ、と……!」


 ――さて、聞いているだけならばいかにも心ある臣下のようなのだが。


 男の話は、いかにその弓の名手とやらに教え諭したか、という段に続いていた。怯える家臣を宥め、リカードの側近の耳目を避けつつ、王ではなくリカードを狙うのが臣下としての道だと言って聞かせたのだとか。それが真実ならば、確かに殊勝なことではある――証言できる者は、この男の他にもういないというところに目を瞑れば。

 アンドラーシとしては、男がティグリスに言及したのを王がどう捉えるかに興味を惹かれていた。


 イシュテンの大方の者は、ティグリスを許しがたい卑怯者として憎んでいるだろう。アンドラーシも、王の傍でその表情や言葉の端々に感じることがなかったなら、同様の感情を抱いていたに違いない。否、今もティグリスの所業を嫌い、卑劣な罠に頼ったことについては見下してもいる。それは確かだ。だが、あのひ弱で捻じれた脚のことをあげつらおうとは思わないし、母親に庇護されていたことを嗤って酒席での肴にするようなことはない。そうするのを憚ってしまう程度には、王は不肖の――はずの――異母弟に何かしらの思い入れがあるように見えるのだ。


 ――藪蛇にならないと良いのだがな。


 王の口元が微かに強張ったように見えるのは、怒りを呑み込んだことの表れだろう。特にリカードと同席している時によく見かける癖で、アンドラーシは主の心労を案じたものだが。王はこの男の奏上を多分快くは思っていない。状況の把握のため、あえて言いたいようにさせているだけなのだろう。男の方は王にへつらっているつもりなのだろうが、果たして狙った通りの効果が出ているのかどうか。まあ、彼が心配してやることではないのだが。


「その男の腕を証言する者は、臣の他にもおります。たとえ戦いの只中であろうと、狙うのが鎧のわずかな隙間であろうと、決して外すことはありますまい。ですから、リカード……の、偽物が毒矢に斃れたとしたら、その者は主たる臣の言葉を正しく受け入れたということになりましょう。無論、陛下が決闘において後れを取ることなどあり得ませぬが……畏れ多い放言をお赦しいただけるならば、あの者は、命を賭けて陛下をお救い申し上げたということにも、なるかと――」


 長すぎる男の奏上も、やっと終わったようだった。あるいは、もう少し駄目押しで訴えておきたいことはあったのかもしれないが、王が声を出して遮ったのだ。


「分かった」


 もう良い、とはさすがに王も言わなかったが。声の調子と表情は、男が語ったことの大半はさほどの参考にならなかったと語っていた。それでも王が耐えたのは、多分、降伏した者に苛烈な罰は課さないという布告を違えないためだろう。とはいえ無闇と殺さないのは兵たちだけ、率いる立場の者は命をもって償わせなければならないが――


「リカードの命に背いたその射手の勇気と忠誠は確かに認めるべきだろう。当人が既に殺されたというならば、その功は主に帰させよう」


 この男については、長広舌を奮っただけの甲斐はあったようだ。


「それは――ありがたきお言葉……!」

「で、そなたはリカードの行方は知らぬのだな?」

「は、それは――」


 膝でにじり寄るようにしてまたも長々と言い訳だか何だかを述べそうな気配を断ち切るように、王は素っ気なく告げた。これ以上時間を無駄にされるのは我慢ならぬとでも言うかのように。


「知らぬなら良い。家臣の働きに免じて命は助けるが、全く咎めなしという訳にもいかぬ。下がって沙汰を待て」

「は、はは……っ」


 相当に図々しく図太いらしい男も、これ以上食い下がる方が王の機嫌を損ねるだろうと察したらしい。最後ばかりは短く答え、王の前から辞した男の顔は、それでも最初に跪いた時よりは大分安堵に緩んでいるようだった。




 戦いが終わったばかりとあって、王のもとへ届けられる捕虜も、手柄を報告する者も後を絶たない。だから、アンドラーシもすぐに退出するつもりだった。だが――


「リカードの狙い――というのも忌々しい悪足掻きに過ぎないが――が、分かってきたな」

「と、仰いますと……?」


 去ろうとした際に王に声を掛けられて、彼は首を傾げた。次に謁見を求める者はまだ現れていないから、暇つぶしに、ということなのだろうか。リカードの狙いなど、自身が少しでも長く生き永らえるという一点に集約されるだけだと思うのだが。


「一騎打ちに影を立てること。俺を毒で狙うこと。いずれもこちらの将兵を怒らせて暴走させようということだったのだろうよ。急に見繕った射手の忠誠など期待していなかっただろうからな。あわよくば俺に毒矢が当たれば良し、影の方が狙われたとしても、首を挙げようとしたところで偽物であることが露見する――むしろ、見せつけることができるという訳だ」


 だが、彼の方を正面から見ず、宙を見据えたまま王が呟くのを見て、アンドラーシは考えを改めた。話しかけられているというよりは、王は考えを纏めるために頭の中にあることを言葉にしたいというだけなのだろう。ならば求められるのはさかしらに意見を述べることではなく、王の思考の流れを妨げないように適度な相槌を打つことと心得なくては。


「戦いの場に卑劣な手を用いたとなれば誰もが怒りますな。シャルバールのこともあり、リカードのこれまでの所業もあり……目の前の敵を、ひとりたりとも生かしておけぬとは、思うでしょう」

「そもそも敵方の戦意などたかが知れていたしな。リカードの目を恐れる必要がないと分かれば、すぐさま瓦解してもおかしくなかった――が、怒りと血に酔った兵どもが、降伏を許さないとなればまた話は別だ」


 会話のようでいて会話でないやり取りが、続く。互いに思うことを伝えるというよりは、事実を確かめ合うかのような。というか、アンドラーシの方は王ほど広く事態を見渡していた訳ではないから、そう言われればそうだ、と目が啓かれるような思いでもあった。多分、彼としても何となく分かってはいても、はっきりと言葉にして考えてはいないから気付いていないのと同じことになっていたのだろう。


 ――俺と同じ程度の認識の者も、多いだろうな……。


 リカードが戦場にというだけでも、将兵の怒りを駆り立てるのに十分なのだ。そこへ更に、その怒りさえもリカードの計算の内だと知らされれば。どこぞへと逃げた奴を駆り出す士気も上がるというものだ。


「リカードの行方は――」

「あれが大人しく隠居するはずもない。いずれかの国に逃れて再起を狙うつもりだろう。老い先短いというのにな……!」

「天寿を全うさせてやるおつもりなど、ないのでしょう?」

「当然だ」


 王は短く、しかしはっきりと頷いた。青灰の目に、激しい怒りが炎のように渦巻くのが見て取れるよう。


「既に追手は差し向けている。雑事を済ませたら更に人を増やそう。近隣の農村からも、地理を知る猟師などを呼ぶつもりだ。奴を捕らえることができるならば、誰だろうと――無名だろうと無位だろうと構わぬ。むしろその方が奴の末路には相応しい……!」


 王の名のファルカスという意味を、アンドラーシは改めて突きつけられた。リカードはもはや戦って降す敵ではなく、犬や猟師に追わせる獲物なのだ。まして狼にとっては、鋭い牙のただのひと噛みで息の根を止められる程度の存在に過ぎない。


 ――もうすぐ、か……!


 狼の牙が獲物に届く瞬間が間近に迫っていることを、アンドラーシは確信していた。

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