第39話 戦いではなく ファルカス
ファルカスは敵陣の只中を斬り進む。槍を振るう手ごたえは軽く、敵兵の列を突き崩す手応えは脆い土壁を踏み砕くよう。とはいえ、これは敵の士気が低いからだけでも、彼の技量や彼の馬が優れているからだけでもないだろう。
――やはり包囲する気か。
リカードのために命を擲って戦おうという者は、果たしてどれだけいるのだろう。さしたる重傷でもなさそうなのに地に伏して動かなくなる者、ほとんど武器を汚すことなく背を見せる者も――特に、身分低い歩兵に――多い。己に利のない戦いで死にたくないなら、怯懦も賢い選択だろう。だが、ファルカスらの突撃を前にして、恐らくは意図的に道を空ける者も、幾らかはいる。彼を――王を討つという万にひとつの勝機に賭けて、自陣の奥深くに誘い込んだ彼らを囲い込もうというのだろう。策としては定石だし、事前に予想できたことではあるから焦りも不安も全くないが。
たとえリカード側が包囲に成功したとしても、彼らを絡め取る網はごく薄い。ならば敵の動きを無理に妨げようとして足並みを乱すよりも、さっさとリカードを討った方が話が早い。どうせ恐怖で従えている烏合の衆だ、戦う理由を奪ってやればすぐに剣を捨てるだろう。あるいは先に鏖殺された奇襲の兵たちのように、死を持って罰や汚名から逃れようとする者もいるのかもしれないが。いずれにしても、今この瞬間に遠慮や手加減をする理由は全くないということだ。
「構うな! このまま進め!」
だから、逃げる振りをする敵を追おうとした者を、ファルカスは厳しく叱責した。リカードの軍を切り分けて進む、彼らがひと振りの剣だとしたら、
常に策を凝らさずひたすらに進む彼のことを、他国の者や後世の者は愚直だの野蛮だのと嗤うだろうか。ならば、彼の方こそ嗤い返そう。イシュテンについてなんと無知なことか、と。
ティグリスの乱の時と同じことだ。彼は危険に気付かぬのでも恐怖を知らぬのでもなく、王としてあるべきように振る舞っているだけだ。反逆する者は幾らでも策を巡らし汚い手を使えば良い。それを正面から打ち破らねば、イシュテンの王とは言えぬのだ。相手の策に乗った上でなお、勝利を得る強さと力、それこそが戦馬の王に求められるもの。それを証明するためにこそ、彼は常に堂々と戦わなければならない。
――罠を仕掛ける暇はさすがになかったか。ならばシャルバールよりもよほど楽と言うものだ。
乱戦になった今は、いっそ安心しているくらいだった。少なくとも、シャルバールの時のように一方的にこちらを蹂躙する類の仕掛けは施せないだろうから。まあ、今のリカードには味方であるはずの将兵を思い遣る余裕さえないのかもしれないが。さすがに自身の身命が巻き込まれるような罠に手を貸す者はいないだろう。
――後は、毒、か。
ティゼンハロムの太陽の紋章が、近い。リカードは自らを囮にして彼という標的をおびき寄せている。アルニェクの黒い巨体は、戦場の混乱の中でも目立つはず。ファルカスはリカードの良心などに一切期待などしていないから、正面からの戦いを仕掛ける体で毒矢を持たせた刺客を潜ませるくらいのことは当然するだろうと考えている。
『また影武者を立てられた方が良いのでは……?』
そして彼の臣下もその見解を同じく持っているようで、遠慮がちに進言する者さえいた。堂々と口にすることをしなかったのは、ファルカスがその案を決して喜ばないことはその者も分かっていたということだろう。そして実際、彼は常のようにアルニェクを駆って軍の先頭で指揮している。
とはいえこれも、彼が危険を軽視しているということではない。毒を恐れて他の者に指揮の座を譲るなど――そのような怯懦は、毒が肉体を蝕む以上に王としての彼の名誉を損なうことが分かり切っているからこそだ。
力ばかりを恃むことこそイシュテンの
「はあっ!」
何度目かの槍の一閃によって、敵の列がまた崩れ、リカードへ至る道が拓きかける。水を切りつけたように、左右の兵によってすぐに塞がれようとするわずかに隙間に、アルニェクの馬首を捻じ込むようにしてファルカスは進む。ひと際目立つであろう王の姿に群がる兵を斬り伏せながら、彼は四肢の関節の動きを確かめていた。
戦場において、鎧で身を守るのは当然のこと。しかしそれは剣や槍の刃や打撃の衝撃を防ぐためのものだ。リカードが毒を使うとしたら、警戒すべきは鎧が覆い切ることのできない関節の隙間。正面からではなく、地に伏せて倒れた振りをした者が繰り出す死角からの攻撃。
刃に阻まれてなお馬の脚を緩ませぬ速さは、それ自体が防御にもなるだろう。馬も人も的としては大きいが、動いていればそれだけ狙いにくいのだから。それに、敵陣に切り込む列の堅固さも。槍の穂先のような隊列、ファルカスのすぐ傍を固めるアンドラーシらは、彼を守る盾としての心構えもあるはずだ。
更に彼の今の装備は、常よりも一段厚い。鉄の鎧にさほどの余裕がある訳ではもちろんないが、特に関節や首の隙間を塞ぐように布や鎖帷子を纏っている。お陰で動きは多少不自由だが、気休め程度にはなるだろう。かすり傷を負わせれば良い毒の矢なり刃は細く鋭いもののはずだから、とにかく皮膚に触れさせなければ良い話なのだ。
――リカードが何を仕掛けようと……必ず、勝つ!
踏み躙られ続けた国のため、彼の矜持のため、妻たちと娘たちのために。敵を切り倒して進む果てに、ティゼンハロムの紋章の旗のもとを目指すのは、雲の晴れ間から射す光を辿るようなものかもしれない。金糸の輝きが忌々しいほどきらきらしい、太陽の紋章。
それが今や、ファルカスの目前に翻っている。
「ようやくだな、舅殿。それとも
やっと刃の届く距離に捉えた相手、ティゼンハロムの紋章を帯びた者を、リカードかその長子のティボールだろうと判じて、ファルカスはわざとらしく幾ばくかの敬意を込めた呼び方を選んだ。兜で顔を隠しているのはお互い様だが、彼の声が聞き間違えられることはないだろう。
目上として敬うことなど思いもよらない不忠の輩だ、かつてはその程度の口の利き方さえも
――本当に、長かった……!
最後にリカードと会った、と言えるのはブレンクラーレへの遠征に発つ前のことだった。あの時は、決別の時が近いのをお互い知りつつ、まだ形ばかりは王と臣下の立場を守っていた。あれからわずか数か月――とはいえ、彼とリカードの確執は即位以来の十年来以上に及ぶ。回りくどい政での牽制だの根回しだのではなく、ようやく剣を交えて雌雄を決することができるのだと思うと、感じずにはいられなかった。
「貴様らが自らを囮にするとは意外なこと。最期は戦って討ち取られることを選んだか――」
だが、相手が槍を構えて彼の胸に切っ先を擬するのを目の当たりにして、ファルカスの高揚は醒めた。老齢のリカードは言うまでもなく、その息子のティボールも彼よりも大分歳上だ。末娘のミーナは兄姉たちと歳が離れているからこそ、先の王位継承争いにあってリカードの唯一の手駒だったのだ。
だから、リカードだろうとティボールだろうと――指揮官として前線に出ることすら驚嘆ものなのに――ファルカスとの一騎打ちに自ら臨むとは考えづらい。ならば彼の敵手はリカードでもティボールでも
「貴様は、何者だ?」
彼は、リカードのことをまだ見誤っていたのかもしれない。あるいは過剰に評価していたか。後のない戦いに際してはさすがに自ら死地に立つだろうと当然のように考えていたが、囮役すら他人に押し付けるなど。挑む側の彼が退けた影武者の案を、リカードは自ら採ったということなのか。ことこの期に及んでも、主のために命を賭けよう、技量の限りを尽くそうという手練れのひとりやふたりはいるだろうに、誉れあるはずの紋章を、一族でない者に負わせてまで。当主自ら偽証のために紋章を利用した時点で、ティゼンハロムの威光などとうに地に堕ちてはいたのだが。
無論というべきか、リカードの
――首を刎ねれば分かる、か。
まるで舞踏に誘うかのように、ファルカスも相手に倣って槍を構えアルニェクの脚に力を溜めさせる。ティゼンハロムの紋章を負うのが、その家の者でなかったとしても良いだろう。またひとつリカードのなりふり構わぬ悪行、後世にまで語り継がれるべきそれが増えるだけ。むしろ、敵味方の眼前で暴いてやれるなら願ってもない。
極限にまで緊張を高めた一瞬は限りなく長く、張り詰めた神経によって、肌に空気の流れを感じるほど。リカードが彼を迎え討つ役を与えた者の技量が油断ならぬのはもちろんのこと、警戒していたように毒を用いるなら今が絶好の機会のはずだ。
――どのような手が来ようとも……退ける!
眼前の敵だけでなく、戦場全体を見据える気概でファルカスは目を見開いた。風の速さで敵手に迫ろうとする瞬間、固唾を呑んで見守る者たちの表情さえ止まって見えるかのような。――その視界の隅に、一筋、黒い線が走る。
「やはり来るか!」
対峙する彼らを狙って放たれた矢がある――そうと悟った瞬間、ファルカスは叫びながらアルニェクを駆けさせていた。躱そうとして躱せるものでもなし、下手に体勢を崩せばリカードの
相手も矢の一本に任せる気はないのだろう、人馬が一体となって圧が風になってファルカスに迫る。槍の切っ先を見据え、相手の心臓を狙い――すれ違う。
一瞬の後、ファルカスはまだ馬上にいた。背中では、呻き声と共に敵手が落馬した気配がした。重い鎧が地に叩きつけられる、ひしゃげた音も。
「陛下、ご無事で……!?」
「お見事でございます!」
一騎打ちを見守って、止まっていた周囲の時間も動き出した。落馬したのがリカードだと気付いている者はどれだけいるのか、そもそも敵方もどれだけの者が知っていたのか――
王の無事を見て取って、臣下たちも駆け寄って来る。彼の技量と勝利を称える声に、しかし、ファルカスはゆっくりと首を振った。
「違う……そやつを仕留めたのは俺ではない」
彼の槍に手応えはなかった。とはいえ彼が狙いを誤った訳ではない。ティゼンハロムの紋章を纏った敵手は、彼が貫くまでもなく鞍から落ちていたのだ。恐らくは、本来王を狙った毒によって。
――狙いを外したか……あるいは……?
矢が飛んできたと思しき方向に、ファルカスは目を向けた。まだこちらの剣が届いていないはずの敵陣の奥深く、崩れかけた列を立て直すべく温存されていたであろう戦力がいる辺り。まだ戦いに巻き込まれてはいないだろうに、そこで赤い血の花が咲くのを彼は確かに見て取った。しくじった射手が罰を受けたか、あるいは罰といっても裏切りに対するものだったか。とにかく、リカードが仕込んだ策には間違いないと考えて良いだろう。
「――その者の死体を検めよ。リカードめ、やはりまともに戦うつもりなど毛頭なかったようだ」
王の命に、落馬した者の死体に――大の男が落馬したくらいで絶命するのも本来ならばおかしな話なのだ――数人の兵が群がる。仰向けにされたその者の胸にあしらわれたティゼンハロムの紋章が土に塗れているのを、ファルカスは馬上から見下ろした。
リカードの首を取るつもりだったのか、短剣を構えた者も見守る中で、死体から兜が取り去られる。金属の面の下から現れた顔に、周囲から響く剣戟や断末魔の声を上回るどよめきが起きた。
「リカードでは、ない……!?」
「この顔色……毒か」
やはり、というか。ティゼンハロムの紋章を纏っていたのは誰とも知れぬ壮年の男だった。あわよくばファルカスを討ち取る役を期待されていた以上は腕の立つ者だったろうに、リカードにも忠実な者だったろうに、当の主が放たせた毒によって斃れることになるとは予想だにしていなかったに違いない。
「陛下、これは――」
状況を理解し切れていないのかもしれない、混乱した声が上がるのに対して、ファルカスは強く頷いて見せた。彼は――将たる王は、全てを承知して彼らを導くことができるのだと示すために。この、決闘にもならなかったひとつの死の顛末を、兵の口から口に伝えさせて、戦場の隅々にまで届けるために。
「見ての通りだ! リカードは戦いを愚弄し、味方のはずの将兵さえも見捨てた! この戦場に集った全ての者が囮、目くらましに過ぎぬのだ。奴め、今頃はひとり生き延びようと戦いを背に逃げていることだろう……!」
ファルカスの言葉を聞くうちに、兵たちのどよめきは怒号に変わる。彼自身の言葉だけではない、ティゼンハロムの紋章を纏った者が偽物であったこと、王を毒で狙おうとしたことはこうしている間にも雷が空を走るごとく、閃光の速さで戦場に広まっていることだろう。
それによって、彼の臣下の士気は上がる。対してリカードに従わさせられていた者たちはいよいよ戦意を喪う。ともすれば、一方的な虐殺に至る恐れすらあった。
「存分に怒り、猛れ! しかしそれを向ける相手を間違えるな。憎むべきはもはやリカードただひとり。決して逃がすことなどないよう、この場を一刻も早く収めることを第一にせよ!」
最後の言葉は特に、兵を率いる立場の者に向けてのものだった。戦う気の失せた敵を踏み躙るのは容易く楽しいものだ。そこに、卑劣な策を用いた者を糾弾するという大義が加わればなおのこと。――しかし、リカードはそのような義憤すら計算に入れている可能性がある。こちらが殺戮に明け暮れる間に、距離を稼いで逃げ切ろうとしているのかもしれないのだ。
「逆らう者に容赦はいらぬが、降伏した者は斬るな。リカードを討つため、消息を聞き出さねばならぬ」
「陛下は、どちらへ……?」
「リカードがいないのならばこの戦いには意味がない。俺から伝えるのが分かり易いだろう」
だから、勝利に酔うのはまだまだ早い。ファルカスは数人の臣下を名指しして続くように命じると、戦場を駆けるべく手綱を取った。
――決着が戦いではなく狩りになるとは思わなかったな……!
臣下には冷静に語ったつもりだが、彼の内心では怒りが渦巻いている。リカードに囮にされたのは彼も同じ、仇敵と雌雄を決する戦いに臨んだはずが、体よく逃げる隙を稼ぐために利用されたのだ。毒の矢が首尾よく彼に当たっても、射手がしくじるか裏切るかしても、この戦場は荒れただろうから。決死の覚悟を固めていた誰しもを嘲笑うかのようなリカードの卑劣さは、いよいよ許すことができない。もはや、討つべき敵というよりも、駆除すべき害獣とでも思った方が相応しい。
人を相手の戦いではなく、獣を相手の狩りを始めるために。まずは人同士の無意味な戦いを終わらせなければならないのだ。
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