第38話 魔弾 弓の名人

 大地が揺れ、大気が震えていた。視界を埋め尽くす戦馬の群れと、それを御する戦士たちのときの声によって。ミリアールトに加えてブレンクラーレをも降し、ついにイシュテンを名実共に平らげようとしている王と。一度は影の王とまで呼ばれながら失策を重ね、最後の賭けに打って出ようとしているティゼンハロム侯爵と。両者がいよいよ激突しようとしているのだ。

 侯爵側の将兵は、生きて後ろ指を指され続けるよりは、反逆者としてでも戦場で散るのを望む構えで殺気立っている。対する王の軍は、侯爵の非道を既によく見聞きしているのだろう、最前線にいる訳でもない彼からも、敵方の戦意は十分過ぎるほど見て取れた。


「ひ……」


 彼も、周囲の兵たちと同様に決死の覚悟で立ち向かうことができたらどんなに良いか。だが、彼の手にあるのは剣や槍ではなく弓と矢――遠くから狙うための武器だった。それも、まともな戦場はほとんど初めてということもあって、手の震えでまともに狙いを定めることができるかどうかもおぼつかなかった。彼の不安を感じてか、馬も落ち着きなく蹄で地を掻いている。馬の動きが狙いを定める邪魔にならぬよう、必死にたてがみの辺りを叩いて宥めてやる。


 ――これじゃ駄目だ……冷静に……!


 からの突き刺さるように視線を感じながら、彼は努めて無心に弦の張り具合、弓のしなり具合を確かめた。いつも通りだと、自分に思い込ませることができるよう。飛ぶ鳥を落とすよりはよほど簡単なこと、ずっと大きい的に当てれば良いだけなのだから、と。狩りや腕比べの時ならば、彼は息をするように滑らかに弦を引いて、目の焦点を合わせるのと同じくらい易々と獲物を射止めることができるのだ。今も同じことをすれば良い。

 いつもの彼ならば、外しようがないはずだった。違いと言ったら、機会は多分一度きりで、彼の矢に国の行く末が懸かっていて、彼がしくじることがないよう、ティゼンハロム侯爵の側近が間近で目を光らせている──ただ、それだけのことなのだ。


 その違いを無視することこそが、非常に難しくはあるのだが。決して逃してはならない一瞬の機会を捉え、射貫くこと、それさえも彼に冷汗をかかせ呼吸を乱せさせる最大の理由ではなかった。彼が胸に抱えている重石を、ごく端的に言葉で表すならば。


 を狙えば良いのか、決めかねているということだった。




 そもそも彼は、王とティゼンハロム侯爵と、どちらが国を導くのに相応しいかとかどちらに大義があるかとかをしっかりと理解していた訳ではなかった。多分、敵味方の多くの雑兵や従者も同じようなものだと思うのだが。彼は、ただ言われるがままについて来ただけだ。父や、一族の年長の者たちや、彼らが仕える領主に従って。その領主もまた、より広大で豊かな所領を有する者に仕えているのだろうし、同様の関係を更に何層か重ねた頂点にティゼンハロム侯爵がいたと、そういうことだと理解している。


 だから彼には、どうして自身が今の状況に置かれているのかさっぱり訳が分からなかった。どうして戦場に立たなければならないのか、ということではない。それならまあ、偉い方々は権力を巡って争うものだと、何となく知ってはいたから仕方ないと諦めることはできる。命と名誉を賭して戦場に臨むのは、それこそ家名だの爵位だの権力だのを背負った方々だけのこと。大方の兵は――命を落とすことさえなければ――属する陣営が勝とうと負けようとさほど気にする必要はないはずだった。

 彼のようなものにできるのは、つまらない死に方をすることがないように気を配ることくらい。命を拾うだけでなく運に恵まれれば、何かしらの手柄を立てて褒美を得ることができるかもしれない。難しいことを考えるのはそれだけの知恵と教養がある方々に任せて、無名の者は黙々と身体を動かしていれば良い。――そう、彼は信じてきたのだったが。


 気付けばどこを向いても目を覆う有り様の死体ばかり。腐臭にも頭がおかしくなりそうだし、誰もが暗い顔で肚を探り合っているようなのも怖い。些細なことが諍いの原因にならぬよう、目を伏せ口を噤んでいるように命じられて息が詰まる。

 そして何より理不尽だと思うのは、たまに食糧を求めて森や草原へ出向いた時に行き会う農夫らが、彼らの姿を見るなり脱兎のごとく逃げ出すことだ。農夫たちの引き攣った怯えた顔を見れば分かってしまう。彼も、あの無惨な死体を生み出した者たちと同類だと見做されているのだ。捕まれば嬲り殺しにされる、何かの悪鬼とでも思われているのだ。彼自身も、ティゼンハロム侯爵やその周囲の一挙一動に怯えているというのに!


 だが、ティゼンハロム侯爵の陣営にいる者全てが一緒くたに残虐と見做されていると分かれば、彼の直接の主たちの顔色の悪さも納得がいく。非道を行っているのは侯爵たちだというのに、王の軍の怒りと殺意は、彼らにも等しく向けられるのがありありと予想できるからだ。いつもの――というのもおかしいが――乱ならさほどの罰を課されない程度の家格の者も、今回ばかりは分からないということだ。


 間もなく襲い掛かって来る王の軍によって、彼らは殺されるのだろう。あるいは、怯んだところを侯爵の手勢に殺されるか。陣からの離脱者が捕らえられればどうなるか、彼らは既に嫌と言うほど思い知らされていた。きっと戦場でも裏切者や惰弱者へは見せしめの罰が与えられるに違いない。




 王の軍が近づいているとの報せによって、自身の余命が日一日と削られていく思いをしていた時のことだった。彼は、こともあろうにティゼンハロム侯爵の天幕に呼び出された。死んだような顔色の主に、くれぐれも粗相のないように、と言い含められた上で、ひとりきりで。


 死が近いのを予感はしていても、無論できるだけ生き永らえたいのが人間の性というものだ。だから言われるまでもなく侯爵の怒りを買うことがないよう、ひたすら平伏する彼に、意外にも穏やかな声が掛けられた。


『そなた、弓を得意としているとか。走る鹿の目を射貫くことさえできるというのはまことか?』

『は……はい……っ』


 それ自体は真実だったから、彼は躊躇うことなく頷いた。主たちが時おり自慢話にしてくれたことも承知しているから、それが侯爵の耳に入ったのかもしれない、と納得することもできた。だが、今のこの差し迫った状況で、弓の腕比べもないだろう。だから呼び出された理由は依然分からないまま、彼の冷汗が止まることはなかった。

 高価な敷物を凝視して震える彼に、侯爵は更に腕を見せてみろ、と命じた。それも止まった的に当てるのは誰でもできるから、天幕の外に出て、飛ぶ鳥を指してあれを落とせ、と。不可解に思いながらも彼は命じられたことを為し、侯爵や側近たちに感嘆の声を上げさせた。それでもなお、なぜ呼ばれたのだろう、という謎は解けなかったが。彼の弓の腕は、まあ良い方ではあるのだろうが、剣や槍の方はからきしだ。余興というにも地味だし、まして迫りくる戦いで役に立つようなものでもないだろうに。


『なるほど、確かに良い腕だ』


 謎が解けたのは、矢の刺さった鳥を捧げられたティゼンハロム侯爵が満足げな表情で頷き、彼の肩を叩いた時だった。労いというには妙に重く、含みがあるような言い方だった。


『これなら、鎧の隙間を狙って射貫くのもさほど難しくはないだろうな……?』


 そして彼は一本の矢を侯爵から手渡された。耳元で低く囁かれたこと、それにやじりが見たことのない禍々しいどす黒さ。ここまで揃えば、賢くない彼にも何を求められているのかは分かってしまったのだ。




 王の軍と侯爵の軍が激突した。最前線にいる兵が、槍を交えたのだ。彼の位置からは、遠目に見えるだけ――でも、その衝撃は我が身が殴られたかのように感じられ、弓矢を握る手にも力が篭った。

 反逆者、国を裏切り国土を荒らした重罪人の群れに、王の軍が斬りかかる。怒りに任せて踏み躙り押し潰す勢いに、大義のない侯爵の陣はあえなく崩れる――振りを、する。意気軒昂な相手に押される体を装って、実は左右に分かれて王を取り囲む策なのだと聞かされた。だから敗色が濃いと見えても動じるな、と。


 ――でも、これは……。


 一歩引いたところにいるとはいえ、殺し合いとぶつかり合いの地獄絵図は目と鼻の先だ。耳をつんざく剣戟の音や断末魔、狩りの獲物を捌くのとは段違いの血臭の濃さ。流れ矢が時に耳元を掠めさえする。初めて体験する戦場の凄惨さに吐き気と震えを必死に抑えながら、彼は頭の片隅で疑問が頭をもたげるのを止めることができなかった。


 王の側の騎馬たちの前に左右に別れるこちらの兵は、本当に策に従って退いているのだろうか。背中から斬られて蹄に頭を砕かれる者たちは、単に逃げ出そうとしているのではないだろうか。敵の刃を正面から受け止めて、踏み止まりつつ陣の奥へと誘おうとしているような者も、確かにいないではないのだけど。でも、それは侯爵の手勢の目が光っているのを承知しているから、味方の手に掛かるよりは戦って死ぬ方がマシだからということではないのだろうか。


 彼に恐ろしい命を下したティゼンハロム侯爵は、あの十三の光条を放つ紋章の旗の下、軍の中心で指揮を取っているようだ。その周辺だけを切り取ってみれば、まともに抗戦できているように見えなくもない。遠目にも豪奢な意匠の鎧を纏った侯爵は、老齢とは信じられないほど堂々として力強い。その姿も紋章も敵の目を惹き、手柄を求める者が殺到してしまうのだけど。それすらも、侯爵の計算のうちということだった。


『儂の姿を見れば、意地汚い者どもは首を狙って殺到するであろう。ファルカスめも、自身の手で大敵を葬りたいという思いがあるはず。――そこを、見逃すな』


 ――他の誰よりも立派な、黒い馬……!


 噂に名高く、しかも侯爵らにも言い聞かされた王の馬の特徴を、彼は必死に探そうとして――探すまでもなく、戦場を軽々と駆ける一騎が目に入る。黒い波のように押し寄せてこちらの兵を呑み込む勢いの敵軍、その先頭に立って率いる漆黒の馬を。その馬を御する者が振るう槍、その一閃ごとになぎ倒される自陣の兵馬を。


 ――あれが王……!?


 掌の汗は手甲に吸われている。だから滑って手元が狂う恐れはないものの、じっとりとしめった感触は不快だった。その手で握りしめる、侯爵から賜った矢の存在もひどく重く、恐ろしい。


 王と思しき黒馬の戦士は、風の速さで侯爵の目前に迫る。左右に散らした侯爵側の兵が、囲い込もうと取りすがっているのに気付いていないはずはないだろうに。包囲を完成される前に侯爵を討てば良いのだと思い定めているようだった。それも、噂に聞く王の勇猛な気性と合致する。


 あれを、あの人を射なければならないのか。彼を見張る侯爵の手の者が身振りで促すのに応えて矢をつがえながら、彼の耳に蘇る声があった。彼がティゼンハロム侯爵に召された後、彼の直接の主人が全てを見透かしたように掛けてきた言葉だった。


『侯爵はお前の腕を買ったのか……』

『あ、あの』

『お前ならば確かになし得よう。――くれぐれも、。我が家のためには手柄が必要だからな』


 旗色の悪い状況から、近頃は陰鬱な声や表情をしていることが多い主ではあった。だが、その言葉の絶妙な抑揚はただの気鬱や不安とはまた異なる剣呑な響きを持っていた。思わずまじまじと見つめた彼に、主は肩を叩くと信じているぞ、と告げた。奇しくもティゼンハロム侯爵の手が触れたのと同じ場所に、主の手は触れたのだった。


 主が何を言わんとしていたかも、彼は気付いてしまっている。しばしば自慢にしてくれた通り、主は彼の腕をよく知っている。初陣の緊張があったとしても、恐ろしい役を与えらえた恐怖があったとしても、そうそう的を外すことがあり得ないことも。だから、念を押すように狙いを過つなと言ったのは、外すな、という意味ではないだろう。を狙うかを間違えるな、という意味だ。


 ――王か……侯爵か……。


 弦を引き絞る瞬間に至っても、彼はまだ悩んでいた。限界まで引いた弦の重さに、腕の筋肉が悲鳴を上げる。それに耐えつつ好機を見定め、そしてぎりぎりまで考え続ける。


 王を討てば、ティゼンハロム侯爵の勝機も見えるのだろう。度重なる陰謀の露見で地に落ちた評判を払拭するところまではいかずとも、少なくとも王という将を失った混乱の隙を突いて、この場を制することはできる。イシュテンの諸侯の多くが集うこの戦場での勝敗は、そのまま乱自体のそれにもなるのだろう。

 一方でティゼンハロム侯爵を討てば。主が期待しているであろう通り、王に対してのまたとない手柄になるのだろう。これまでの不忠を埋め合わせるのに、もしかしたら十分なほどの。侯爵の非道の一味と見做されることに、彼自身も理不尽な想いは抱いていたではないか。彼のような小物が裏切るとは夢にも思っていないらしい侯爵への、意趣返しにさえなるかもしれない。こちらの方が、思い付きとしては魅力的ではあった。


 だが、彼の矢がティゼンハロム侯爵に当たれば、彼は必ず殺されるだろう。わざとではない、などという言い訳が通じる相手ではないし、その可能性を封じるためにも、彼は主の隊から離れて侯爵の側近が見張る位置に連れて来られているのだ。


 ――でも、侯爵が負ければどのみち……!


 侯爵と王は、この期に及んで何事か語ることがあるのだろうか。お互いに槍を突きつけたまま、ふたりは数秒の間動かないままで、彼にほんの少しだけ考える猶予を与えた。だが無論結論など出ないまま、両者は手綱を引き――弾けるように、馬が駆ける。


 ――ままよ……!


 獲物が動いた瞬間に、急所を見極めて矢を放つ。それはもはや彼にとっては本能のようなもの。だから考えるよりも彼の目と指先の働きの方が早かった。遠目ではあっても、鎧の構造は彼も熟知している。鏃が刺さり得る隙間が、どの動きによってどの角度に生じるか。矢が届くまでの時間差は。一瞬にして計算して、指を放つ。


 風を切って飛ぶ矢を見送る時の彼の心は、奇妙なほどに晴れやかだった。

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