第37話 正しい世界 マリカ
小母様たちは離宮から帰ってしまった。逃げるように、幼いマリカの耳にも明らかな、しどろもどろの挨拶を述べて。以前遊んでくれた時とは違って、母の部屋でのあの人たちの様子は何だかおかしかったから、これでやっと安心できるということなのかもしれないけれど。
「シャスティエ様……大事なお身体なのに、どうして……!」
「ミーナ様がお困りだと聞いて、居ても立っても居られませんでしたの。皆が守ってくれているから大丈夫だろうとは思っておりました……」
――何だか、嫌だわ……!
手を取り合って微笑み合う母と金の髪の人を前に、マリカの心の裡は波立っていた。ここ最近はほとんどいつもそうだったから、今日の出来事だけが原因ではないのだけど。金の髪の人が、母と彼女を助けてくれたのだということは分かるのだけど。
でも、どうしても喜ぶことができないのは、祖父の罪を改めて突きつけられた気がするからだ。父や母が、これまでにも何度も言い聞かせようとしていたけれど、マリカは完全に飲み込むことができていなかったのだろう。祖父は、彼女や母に対しては常に優しかったから。きっと、どうしようもない事情があったのだと、祖父の人柄は根本では変わっていないのだと、信じていたかった。父たちの方こそ、祖父を悪者に仕立て上げようとしているのだと――だから、彼女だけは物事を正しく見なければならないと思っていたのに。
「マリカ、いらっしゃい。ご挨拶をしてお礼を申し上げなさい」
「……はい、お母様」
軽く唇を噛んでから、それでもマリカは大人しく頷くと金の髪の人が横たわる寝台に歩み寄った。
彼女は母ほどこの人がしてくれたことを喜んではいない。この人は小母様たちに酷いことを言った。祖父のことも、良く思っていないらしい。でも、多分この人の言ったことは正しいのだろう。父や母の言葉とも重なるし、何より小母様たちまでもが祖父を責めていた。だから、マリカにとっては信じたくないことの方が真実なのだ。
認めたくなくても嫌なことでも、正しいことを受け入れなければ。礼儀も、忘れてはならない。母を困らせないためにも、金の髪の人に笑われないためにも、良い子にしなければならない。
「助けてくれて、ありがとう。……赤ちゃんは、元気?」
だから、マリカは強引に唇を微笑ませて金の髪の人の碧い目を覗き込んだ。長椅子に寝る姿だと、子供の彼女でも大人の人に目を合わせることができたのだ。
本当は、もっと丁寧な言葉遣いにしなければいけないのだろうし、衣装の裾を持ち上げて礼をしなければならないのだろうけれど。これが、今のマリカにできる精一杯のことだった。せめて、両手を身体の前で行儀よく組むくらいはできたら良かったけど、彼女の手は自身を抱きしめるように、それぞれ逆の二の腕を掴んでいた。特に片方の二の腕は、まだじんじんと熱を持っているような気がする。
小母さまのひとりに、さっき強く掴まれた名残だった。
『
さっき、母の部屋に窓側から入り込んで小母様たちに囲まれて。妹姫に会いたいでしょうと言われた時、マリカは咄嗟に首を振っていた。
『いいえ。別に会いたくないわ。全然!』
嘘のつもりはなかったけれど、本当のことなのかは彼女自身にも分からなかった。一度だけ抱かせてもらったフェリツィアは、ふわふわとして頼りなくて温かくて、胸が苦しくなるほど可愛かった。「お姉様」になったのも嬉しくて、もっと遊んであげたいと思った。そこは、間違いない。でも、一緒にいたいと願ったらすぐに叱られて取り上げられてしまった。あの時の父の怖い顔や母の困り顔、金の髪の人の驚いた顔は――すごく、嫌だった。まるで彼女がとても悪いことを言い出したかのようで。
妹を見れば、多分またあの気持ちを思い出してしまう。父も母も、マリカよりも妹やまだ生まれていない赤ちゃんのことを気に懸けているような嫌な感じも。両親のことや祖父のことで、マリカはずっと落ち着かないもやもやとした思いを抱えているというのに、フェリツィアは何も知らずに笑っているだろうと思うと、それも見たくなかった。もちろん、フェリツィアの小ささでは何も知らないのも当たり前のことなのだけど。
フェリツィアは赤ちゃんでまだ何も分かっていない。こんな黒く重い気持ちを抱いてしまうのは勝手なことなのだと、マリカにだって理解できる。だから咄嗟に出た否定の言葉の強さの割に、彼女の表情はあやふやなものだったかもしれない。小母様たちは、そんなマリカの迷いが見えるかのように、ぐいと顔を近づけてきた。
『まあ、マリカ様。私たちには本当のことを仰ってくださいませ』
『お母様に止められているだけなのでしょう? 私たちからもお願いして差し上げますから』
必ずしも
『お姫様は具合が悪いのよ。だからお見舞いにも行っちゃいけないの!』
そんな反発は、マリカの声を一層荒げさせた。声だけではない、叫びながら、彼女は足を踏み鳴らしてさえいた。こんなお行儀の悪いこと、お母様を困らせるとは分かっていたけど。でも、心の中に嵐が吹き荒れているようで、激しい雨風のような感情は、マリカの中だけに収まってはくれなかったのだ。
小さい子供のように癇癪を起こすマリカは、きっとみっともなかっただろうに。小母様たちは、辛抱強く微笑みかけてくれた。でも、宥めすかして言い聞かせるようなその口調は、彼女の心を波立たせるだけだった。
『あら……では、本当にそんなにお悪いのか確かめなくてはならないのでは?』
『マリカ様がご自身でお会いになった訳ではないのでしょう? 王妃様が仰っているだけで』
『お母様は嘘なんか吐かないもの!』
――なんで、こんなひどいこと……!?
憤然として、そして助けを求めて母の方を見て――思いのほか遠くに離れてしまっているのに気付いて、マリカは初めて怯んだ。母と彼女の間には、小母様たちが立ち塞がって色とりどりの壁のようになっていた。さっき駆け抜けてきた庭の木々とは違って、すり抜ける隙間など見つからなかった。
『ですから、それを確かめなくては』
『側妃様にお会いしたいと、マリカ様も仰ってくださいませ』
『痛……!』
小母様のひとりがマリカの腕を掴んだ力が強くて、彼女は思わず悲鳴を上げていた。前は優しく遊んでくれた小母さまたちと同じ人たちだとは、とても信じられなかった。顔は笑っているし言葉遣いも丁寧なのに、目が怖いのだ。そもそも、どうしてそんなに金の髪の人やフェリツィアに会いたがっているのか、訳が分からない。
『止めてください! マリカを離して……無理だと、申し上げている通りです!』
母の声が震えているのも、ひどく恐ろしい上に悲しかった。こうなったのは、マリカが言いつけを破ってしまったからだから。母のことが心配だったのに、余計に心配をかけることになってしまったなんて。
――そうよ……お母様は嘘なんて吐かないもの……。
自ら口にしたことに胸を刺されて、マリカは唇を噛んだ。母が嘘を吐かないと信じるということは、祖父についての言葉も真実だと認めるということだ。今日、小母様たちに会わせてくれなかったのも。ラヨシュには不満を漏らしてしまっていたけれど、こんなに前と違った顔をされてしまうということは、やはり母は彼女を気遣ってくれていたのだ。
それに、小母さまたちの変わりようは、大人の事情とやらも今さらながらに思い知らせてくる。きっと、祖父のことが影響しているのだ。祖父が「悪いこと」をしたから、小母様たちはこんな風に怖い顔になってしまったのだろう。
自身を取り囲む世界の
『小母様たち、どうなさったの!? どうしておかしなことばかり言うの? 離してよ!』
だからマリカは声を張り上げて非難した。間違っていることは、正さなければならないと思ったから。無分別な彼女を案じて泣きそうな顔をしている母のところに、早く駆け寄ってあげたかったから。でも、マリカがどれほど身体を
『マリカ様! お利口になさいませ!』
『貴女様のためを思って申しているのですよ!』
マリカに負けじとでも言うように、小母様たちの声も表情もどんどん険しく怖くなっていった。眉を吊り上げた恐ろしい顔は、父にも母にもされたことがなかったし、拳を握って振り上げられた手は、たとえ振り下ろされることがなくてもマリカを怯えさせ母の表情を引き攣らせるには十分だった。もしかしたら、もう少しあのままにしていたら、本当に叩かれてしまっていたのかもしれない。
『――何をなさっているのですか!? 王女様に対して、何と無礼な……!』
だから、ラヨシュが離宮から人を連れてきてくれてとても助かったはず、なのだろうと思う。母もマリカも小母さまたちも、口々に違うことを叫んで訳が分からなくなっていたし。
それに、母の言葉をやっと受け入れることができた。これもきっと、良いことなのだろうと思う。
金の髪の人はやっぱり少し疲れてしまったようで、マリカはすぐに母とラヨシュと一緒にいつもの住まいに戻ることになった。それでも、金の髪の人は別れる前にフェリツィアを揺り籠から連れてきてくれた。久しぶりに会う妹は、前に見た時よりずっと大きく重くなっていて、明るい色の髪もちゃんと髪らしくなって、綺麗な紐で結んでもらっていた。ずっと会っていない「お姉様」にも笑って小さな手を伸ばしてくれるのは、きっと怖いことなんか全然知らないで可愛がってもらっているからだろう。そう思うと、マリカは赤ちゃんの無邪気さが羨ましくてならなかった。
やっと自分の部屋に落ち着いて、温かいお茶で昂った心を宥めていると、ラヨシュが微笑みかけてきた。沢山のことがあった後だから、と、ふたりともたっぷりと蜂蜜を入れた甘い茶をもらっている。
「お怪我がなくて何よりでした、マリカ様」
「うん……。お母様を助けてくれてありがとう、ラヨシュ」
改めて突きつけられた祖父の悪事と、妹と自身の表情の違いに打ちのめされて、マリカとしては決して手放しで喜ぶ気にはなれなかったのだけど。でも、ラヨシュへの礼は忘れてはならないと思ったから、少し無理をして笑みを作った。多分、心からのものでないのはラヨシュには分かってしまっただろうけど、彼はそのことには触れないでいてくれた。
「私は何も……。お礼をお伝えするなら、クリャースタ様にこそ、でしょう」
「そうね……ちゃんとお礼は言ったわ」
どうしてあの人のことを言うのかしら、と思いながら。マリカは一応は頷いた。お礼も言えない子だとラヨシュに思われているならとても嫌なことだった。でも、金の髪の人やフェリツィアのことを真っ直ぐ見るのが難しかったのも確かなこと。多分、母を守れるような大人になりたいなら、こういう時やらなければいけないことをちゃんと出来なければいけないのだろう。
「クリャースタ様が王妃様とマリカ様のためにあそこまでなさってくれるとは驚きました」
「うん……」
「あんなに痩せておられたのに。ご自身と御子の安全を押してまで……」
「そうね」
だから、ラヨシュの言葉もちゃんと聞かなければいけないと思うのだけど。あの人のことが褒め称えられるほど、素直にお礼を言えなかったマリカが悪い子な気がして、茶にも菓子にも手を付ける気になれない。だから、温かく甘い香りの湯気が鼻をくすぐるのに任せて、短く相槌を打っていたのだけど――
「あの方がいてくださるならば、私は――私など、もう必要ないのかもしれない、と思いました」
「ラヨシュ……? どうしたの……」
「マリカ様。どうか落ち着いて……という訳にはいかないのでしょうが。どうか、聞いてください」
かちゃ、と。ラヨシュが茶器を置く音に、マリカは身体を強張らせた。ほんの小さな音なのに、妙に耳に刺さって仕方なかった。だって、改めてラヨシュの方を向いてみると、彼も何も口にしていないのだ。ラヨシュが言おうとしているのは、絶対にマリカにとって嬉しくないことだ。珍しいほどに強張った彼の声と表情から、分かってしまう。
――嫌……聞きたくない……!
しかもラヨシュは、掛けていた椅子から立ち上がるとマリカの前に跪いた。こんな、他の大人の人たちがするようなことは、普段のラヨシュならしないのに。マリカに仕えてくれる、守ってくれるとはいつも言ってくれるけど、マリカとしては数少ないお友達で、寂しい気持ちを分かってくれる相手だと思っているのに。
「マリカ様。とても大事なことなのです」
顔を背けて、言葉だけでなく態度で聞きたくない、と突っぱねたかったけれど。困ったような声で呼び掛けられると無視し続けることはできなかった。嫌なことに対して目を塞ぎ耳を閉ざすのは、子供のすることだ。それもきっと悪い子の。ちゃんとした大人になりたいなら、ちゃんと目と耳を開いて正しいことを受け入れなければ。
そう、必死に自分に言い聞かせて、マリカはラヨシュに向きなおった。すると、黒い目が真っ直ぐに彼女を見上げている。夜の庭で池を覗き込んだ時のように、ひどく静かで何を秘めているか分からない、黒。
そしてラヨシュはゆっくりと口を開いた。
「アルニェクを殺したのは、私です」
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