第36話 氷の女王 ラヨシュ

「クリャースタ様、いけませんわ! どうか考え直してくださいませ……!」

「王妃様方をお救いするなら、兵を向かわせれば済むことですわ」

「ええ、でもその方たちの気が済むかは分からないわね。後々に引きずらないためにも、ここではっきりさせておくのが良いでしょう」


 クリャースタ妃が侍女たちと言い合うのを、ラヨシュは信じられない思いで見つめていた。

 彼の手の中には、冷水を満たした杯が握らされている。それもただの水ではなくて、走って王妃たちの危険を報せた褒美とでもいうように、氷で冷やした上に蜂蜜と果汁でほんのりと甘味をつけてある。杯に口をつければ、冷たく甘い水が喉を通って、熱く乾いた喉を癒してくれる。遣いにすぎない彼に贅沢な飲み物を与えることといい、クリャースタ妃の態度といい、望外のことには間違いないのだけど。


 ――でも、どうしてここまで……?


 ラヨシュにできるのは、王妃たちの状況を伝えることだけ。その上こうしろああしろと口を挟むことは分を越えているだろうし、相手の心証を害することを考えたら余計なことを言う気にはなれない。だから、彼はクリャースタ妃と侍女たちのやり取りを固唾を呑んで見守っている。疑問を、胸の内に抱えたままで。


「私に会いたいというなら願いを叶えてあげましょう。でも、陛下に執り成しを頼むことはできないし、許しもしないわ。それも、かつて私に非礼を働いたからではなく、王妃様を蔑ろにしたからよ」

「でしたら、私が伝えて参ります。王女様もお怪我のないように、しっかりと見届けますから」

「王妃様相手にも引き下がらない図々しさなのでしょう。側妃なら、ということもないかもしれないけれど――せめて私の口から伝えなければ」


 王妃に人を呼ぶように言われて、咄嗟に思いついたのがこの方だった。あの婦人たちがそもそも会いたがっていた方だし、王が不在の今、王妃に次いでその言葉に力がある者といえばふたりの御子を儲けた側妃ということになるだろうから。

 でも、彼はクリャースタ妃が王妃と王女のためにここまで親身になってくれることを予想していただろうか。助けを求めて飛び込んでおいておかしな話かもしれないけれど、冷たくあしらわれることを期待してはいなかっただろうか。その方が、この方を恨み嫌うことができるから。……母がそうだったように。


 王妃たちのために憤ってくれているクリャースタ妃を見れば、そのような考え方は捻くれていると悟らざるを得ない。何より、彼の考えはふたりの無事を心底願っていないかのようではないか。そのような不敬と不忠は、彼自身でも許せない。これでは、ラヨシュよりもクリャースタ妃の方があの方たちを案じていることになってしまう。


 空になった杯を握りしめて、ラヨシュはクリャースタ妃の方をこっそりと――高貴な方、それも懐妊している方を真っ直ぐに見るのは憚られたから――窺う。ブレンクラーレに攫われて以来の心労が祟っているのか、かつて見かけた時の記憶よりも、線が細く頬も痩せているように見える。無論一番大きな変化は満月のように膨らんだ腹なのだけど。王妃を悩ませる存在と、そこに宿る御子を疎んじていたはずなのに、いざクリャースタ妃を目の前にしてみると、侍女たちが案じるのも当然の危うさが先に立つ。母君の肉体を代償にして、御子が育っているようで。思えば彼が知っている妊婦は臨月まで元気に働いていた者ばかり、だから寝たきりで過ごしていると言われても、どのような容態か正しく思い浮かべることができていなかったのだ。


「まずは貴女に行って欲しいの、イリーナ。髪と目の色で私からの遣いだと分かり易いでしょうから。心配なら兵もつけて、ここに参るように言づけてちょうだい」

「お言葉をお伝えするということでしたら否やはありませんわ。でも、この場にあの方々を招き入れるなんて……!」

「ああ、この場に兵を並べるのも良いでしょうね。脅すくらいでないと分かってくれない方々のようだから」


 それにしても、クリャースタ妃は痩せた頬で艶やかに笑う。かつて王妃と共に茶菓に興じている時は、いつも穏やかな微笑みを絶やさない方だという印象だったのに。容貌が整っているだけに、礼儀正しい立ち居振る舞いと相まって氷の像が仮初に動いているかのようにさえ思えた。春の日差しのような香り高い花のような、王妃の温かみのある美しさと比べると、そのような冷たい印象も、この方に対して構えてしまう理由だったと思う。


 ――でも、こんな顔もなさるんだ……。


 クリャースタ妃の碧い目は、宝石の色というよりも今は燃えているかのようだった。涼やかな冴えた色だというのに不思議なことではあるけれど。微笑みも、美しく整っただけのものではなくて、激しい感情を裡に秘めているのが見て取れる。この方は、確かに王妃たちのために憤っているのだ。


 ――私は、何ということを考えていたのだろう。


 ラヨシュは、この方の不幸を心の片隅で望んでいた。御子が流れれば王妃の立場のためになるだろうと勝手に考えて。今も、嫌う理由を得るために、助けてくれないことを期待してしまっていた。でも、これほど真摯に怒った上に、身重の身体を押しても王妃たちのために手を差し伸べてくれるというのなら。


 彼は、明らかに間違っていたのだ。今日のことに限らず、ずっと。――マリカ王女の犬を、アルニェクを殺したことも。赤子のフェリツィア王女を抱えた側妃を怯えさせて、王宮から追い出すことこそ王妃たちのためになるのだ、と。あの時の彼は思い込んでいた。王の寵を争う以上は、王妃たちの敵となる存在なのだと、母の教えを疑うことさえしなかった。でも、それが大いなる過誤だったとしたら。


「……どうしてもと仰るなら従います。ですが、少しでもおかしなことがあったら、すぐに教えてくださいませ」

「ええ。私もこの子は大事ですもの。ただ、王妃様たちを放っておけないと、分かってちょうだい」


 不敬だからというだけでなく、ラヨシュはもはや自らを恥じるがゆえに顔を上げることができなかった。そんな彼の耳に届く側妃の声はどこまでも凛として気高かった。




 程なくして、側妃の離宮は人の気配で満ちた。室内に通されて王妃たちを待つように言われていたラヨシュにも、息遣いのようなものが何となく感じ取れる。もちろんあの女性たちにも畏れというものはあるだろうから、大声でのやり取りということではないのだけど。どこか落ち着かないざわめきが、近づいている気配がするのだ。


「本当に、どんな小さなことでもお伝えしてくださいませね?」


 心配げな表情で何度も訴えているのは、グルーシャという女だ。あのアンドラーシの妻、それも、元々はティゼンハロム侯爵家に仕える家の出ということで、ラヨシュとしては複雑な思いがある。この女性は、どういう思いで侯爵家から王の側、側妃の側へと立ち位置を変えることができたのだろう。


「ええ、大丈夫。ここまでしてもらっているのだし」


 そして対するクリャースタ妃はというと、先ほどと同じように力強く誇り高く微笑んでいる。単に見蕩れるには、あるいは王妃たちのためにと頼り切るには、やはり窶れが目につくけれど。小さな命を収めて膨らんだ腹を目の当たりにすると、この方も守られるべき存在なのだと強く思わされるけど。


 ここまで、と自ら語る通り、彼らがいる――そして王妃や王女たちを迎えるはずの――部屋の中心には、側妃が横たわる長椅子が据えられていた。肘掛けの片方の側にクッションを積んで、寝台に半身を起こしたのと同じような体勢が取れるようになっている。庭で日差しを楽しんでいたのは特に体調が良い日だったからで、本来ならば寝たきりで過ごさなければならないのだと、ラヨシュは女性たちのやり取りから知った。否、本当は王妃から聞かされていたはずなのだけど、それがどういう意味なのか彼は分かろうとしていなかったのだ。


「さあ、入っていただいて。王妃様もさぞご不安でいらっしゃるでしょう」


 侍女の不安もラヨシュの混乱も知らないかのように、クリャースタ妃は笑った。そしてその言葉に従って、部屋の扉が開けられた。


 ――マリカ様……!


 マリカ王女が、王妃ではなく他の女たちに囲まれているのがまず目に入って、ラヨシュの心臓は跳ねた。王妃の目が不安げに涙ぐんでいるのも、その手が半端に宙に延べられて、娘を求めているようなのに、女たちは気付かない振りをしているようなのも。王女の唇が真横に引き結ばれて、明らかに不機嫌を示しているのも案じられた。特に王女に関しては、その身を慮るだけでなく、何か女たちを刺激することを言ったりしたりしてしまうのではないかと思わせて。


 でも、どれだけ焦れたとしても、ラヨシュは口を開くことを許される立場にはない。それができるのは、この場の女主人であるクリャースタ妃を置いて他にない。そしてその金の髪の美しい人は、現れた一団のうち、特に王妃と王女だけに微笑みかけた。


「王妃様! 王女様も……久しぶりにお会いできてとても嬉しいですわ。ご無沙汰してしまって申し訳なくて――このような格好も失礼と思うのですけど、どうかおいでくださいませ」

「シャスティエ様――クリャースタ様」


 側妃の晴れやかな笑顔に対して、王妃の笑みはぎこちなく、おずおずとしたもの。でも、クリャースタ妃の手招きに従って王妃は長椅子へと歩み寄った。次いで、女たちを振り払うようにして王女も進み出る。これでふたりが安全な位置に逃れることができたと確かめて、ラヨシュはようやく息を吐くことができた。


「おふたりともお変わりがなくて安心いたしました。マリカ様は少しの間にまた大きくなられて。お髪も、お母様に似て一段と艶やかにおなりですね」


 クリャースタ妃は、あえて女たちを無視して王妃たちだけに語りかけているようだった。本当に見えていないかのような扱いに、女たちが居心地悪そうに身じろぎし、視線を交わし合うほど。


「たくさんお手紙をいただいたのも、とても嬉しく思っておりました。起き上がることさえままならないことが多いものですから、庭の様子を教えていただくだけでも慰めになりますの」

「それは……良かったわ……」


 王妃も、クリャースタ妃の不自然なにこやかさには気付いている。だからだろう、美しい微笑みに頷き返しながらも、目線では女たちの方を窺っていた。


「あの――」

「私どもは――」


 王妃の視線を発言する切っ掛けと見て取ったのか、女たちが一歩ずつ側妃の長椅子ににじり寄った。そこで初めて彼女たちの存在に気付いたかのように、クリャースタ妃は碧い目を女たちの方へ向けた。


「――ああ。何か、ご用ですか?」


 クリャースタ妃の冷たい色の目は、まだ炎を湛えているようだった。激しい怒りを秘めていると分かるのに、それでいてなぜか凍てつくようだとも思う。更に、美しい唇が紡ぐ声も、氷の短剣の切っ先が向けられているのが、目に見える気さえするというのに。


「私どもは、非礼をお詫びしたくて参りましたの……!」

「数々のご無礼を、どうかお許しくださいませ」

「私どもの本意ではございませんでしたの」

「ティゼンハロム侯爵の不興を買うのが恐ろしかったのですわ!」


 ――なんて、白々しい……!


 予想していたこととはいえ、恥知らずとしか思えない女たちの言い分にラヨシュは頭に血が上るのを感じた。まるで侯爵が自ら命じたかのような物言いだが、そんなことはなかったに決まっている。この女性たちが勝手に気を回してのことまで侯爵のせいにするのは、卑劣に過ぎるだろうと思う。

 父君や祖父君を思ってか、王妃の眉が悲しげに下がり、王女の口元が一層頑なに引き締められる――その一方で、側妃はあくまでも冷ややかな笑みを絶やさない。


「――私は、少しも怒ってなどおりませんわ。ティゼンハロム侯爵の恐ろしさは私もよく知っていますもの。恐怖は人の目を塞ぐもの、正しい行いができなかったからといって、どうして責めることができるでしょうか」

「まあ、何と寛大なお言葉……!」

「何と御礼を申し上げれば良いか……!」


 でも、女たちは側妃の声の恐ろしさに気付いてはいない。それどころか、あっさりと表情を緩めて喜ぶ様は、ラヨシュに嫌悪を覚えさせた。侯爵家に連なる家の者だというだけで、彼もかつてはこの人たちを敬っていたのだけど。信じていた何もかもが確かなものではなかったということを、またも突きつけられるなんて。


「ですが」


 ラヨシュの想いは、今やクリャースタ妃の方にこそ近いのかもしれない。碧い目にも、ありありと嫌悪と侮蔑が浮かんでいた。この方と彼などを並べることなど不遜なのだろうし、そもそも同じような想いを抱いているなど、考えたことさえなかったのに。

 女たちの喜びに冷水を浴びせるかのように、クリャースタ妃は鋭く硬い声で続ける。


「それは私に対することならば、の話です。大切な方に対する侮辱も非礼も、到底許すことはできません」

「大切な方……?」


 さすがに不穏な気配に気付いたのだろう、女たちのひとりが首を傾げた。でも、一度浮かべた笑顔をすぐに引っ込めることはできないのだろう、半ば笑ったままの表情に不安の色が乗っているのは、どこか歪な顔でもあった。対するクリャースタ妃は冷たく完璧な微笑を――あるいは嘲笑を――保ったままだからなおのことだ。


「貴女がたがとやらを働く間にも、王妃様は私に隔意なく優しく接してくださいました。側妃として陛下のお傍に上がった後でさえも。だから私も、何があろうと王妃様をお守りしようと決めていました」

「そんな」


 噛んで含めるように、ゆっくりと。クリャースタ妃は女たちひとりひとりの顔を見渡しながら告げた。ひどく物分かりの悪い子供に教え諭すかのように。それほどに、この方は女たちを見下げ果てているのだろう。表情、声、口調、全てを嫌悪の表明に利用しているようだった。


「貴女がたが以前なさったことについて、特に陛下に申し上げることはありません。ご夫君やご実家の処遇についても、決めるのは殿方のお役目です。ですが、今日、貴女がたが王妃様と王女様になさったことについては、ご報告すべきだと考えています」

「クリャースタ様、お待ちを――」

「誤解ですわ!」

「下がりなさい!」


 ぴしゃり、と。クリャースタ妃の声の鋭さ冷ややかさは、躾のなっていない犬を打つ鞭さながらだった。詰め寄ろうとした女たちも、本当に打たれたかのようにびくりと震えて足を止めてしまう。


「――このお腹が見えないのですか? この上、王子かもしれない御子に害を加えた罪も被りたくなければ、お帰りなさい。そして与えられた場所で戦いが終わるのを待つのが良いでしょう」


 寝台に半ば寝そべる姿だというのに、クリャースタ妃の姿は威厳に満ち溢れていた。女の王など普通はいないはずなのに、金の髪が冠のように輝いて。そしてとても不思議なことに、傍らに招いていた王妃を王女を庇護する雰囲気さえ漂わせていた。


 ――ああ……。


 女たちがひれ伏すのに倣うように、ラヨシュも自然と頭を垂れていた。王妃と王女を守ると誓った彼は、何と浅はかだったのだろう。犬のことで王女を悲しませ、今日も遣いの役にしか立たなかった。そして実際に王妃たちを救ったのは、敵と見做していたはずの側妃の方だった。


 この方ならば、きっと王が帰っても王子を授かっても態度を翻すことはないのだろう。だって王妃たちに悪意があるなら、今日は意趣返しのまたとない機会のはずだったのだから。女たちを煽って、王妃や王女を嬲ることさえできただろう。なのに、侍女の心配を押し切ってまで、身重の身体を危険にさらしてまで、この方は立ち上がってくれた。


 ならば、彼がこれ以上王妃たちのために何かをしよう、などとはただの思い上がりに過ぎないのだろう。何事かを訴えようとする女たちが部屋の外に押し出される騒ぎを聞きながら、ラヨシュは密かに心を定めていた。

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