第35話 闖入者 シャスティエ
離宮の庭先に椅子と卓を並べて、シャスティエは初夏の日差しを楽しんでいた。寝台に縛り付けられるような日々では息が詰まるだろうと、これくらいならば良いだろうと侍医が許してくれたのだ。新緑の輝きも、爽やかな風が運ぶ花の香りも、彼女の心身に良い影響を与えるだろうと、侍女たちも明るい表情で場所を整え茶や菓子を用意してくれた。
「良いお天気ね……ねえ、フェリツィア?」
シャスティエが腰を落ち着けているのは、枝を広く伸ばした木の根元だった。緑の影がほどよく日差しを遮って、暑さも眩しさも感じることはない。ただ明るさと解放感に心が浮き立つのが分かる。膝の上ではフェリツィアが機嫌よく笑っている。春に生まれた娘にとっては二度目の夏になるけれど、
「――お花が見たいの? 気を付けて行ってらっしゃい」
と、フェリツィアがもがいて地面を指さしたので、大きくなった腹を庇いながら下ろしてやる。すると娘はよちよちとした足取りで風に揺れる花を追い始めた。まだ指を広げることも覚束ないのだろう、手を伸ばしても上手く花びらを掴むことはできなくて。甲高い声は癇癪のようにも、追いかけっこを楽しむ歓声のようにも聞こえる。いずれにしても、母にとっては微笑ましく愛らしいものだ。
――黒松館の頃は、良くなかったわ……。
娘を抱え込んで、ほとんど閉じこもるようだった日々のことを思うとシャスティエの胸はちくりと痛んだ。フェリツィアの記憶には残らないかもしれないが、だからといって罪悪感を覚えずにいることはできなかった。王が育った場所でもあったのだから、見るべき景観などを教えてもらえれば良かった、と今になって思う。ミリアールトに里帰りできるあてもないし、父の故郷にも母の故郷にも縁遠い子供になってしまうのかも、と思うと哀れだった。
そもそも、父とまた会うことができるかどうかも、まだ確かなことではないのだけど。
「フェリツィア、お父様は今も戦っていらっしゃるわ。もうすぐ――今にも、ティゼンハロム侯爵と剣を交えているのかもしれないの」
フェリツィアは揺れる花の動きを見定めるのに必死で、母の声には注意を傾けていない。聞いてくれたところで、赤子には政も戦いのことも理解することはできないだろう。それでもシャスティエは語り続ける。ブレンクラーレへの遠征もあって、娘は父親と長く過ごすことができていない。せめて、お父様という言葉を繰り返し聞かせて覚えさせたかった。王が無事に帰った暁には、娘のあどけない声で呼ばれる喜びで戦いの疲れを癒すことができれば良い。
それに、更に別の理由もある。黙っていると、シャスティエの裡には不安と焦りが渦巻いて、胎児を窒息させてしまうのではないかと思ってしまうのだ。彼女自身のことはともかく、我が子を害しかねない心の重荷を、娘に語りかけることで少しでも軽くすることができれば、と思ってのことだ。
「お父様が戦うのはイシュテンのため。お母様のミリアールトを滅ぼした責を負って、せめてこれからは守るため。民や臣下のためでもあるし、貴女や――弟か妹のためでもある。それに何より、ミーナ様とマリカ様も。お父様は沢山の人や物事を負って戦ってくださっているのよ」
数え上げていくのは、彼女の夫であり娘の父である男がどのような存在なのかを確かめるためでもあった。王を同盟者として選び――愛するように、なったのは、間違いではないと自らに言い聞かせるため。祖国を滅ぼし肉親を殺した相手でも、その痛みと悲しみを忘れることはできなくても、これからを共に歩んでいくのだと噛み締めるのだ。日々成長していく娘の姿が、それを見守る幸せが、未来を見て進むのは過去から目を背けることと同じではないのだと信じさせてくれる。
明るい日差しのもとで新緑や花々に囲まれ、娘の仕草に目を細めてはいても、シャスティエの心は常にどこか憂いの陰りを帯びている。でも、それは心だけのこと。彼女の肉体は、この数年来なかったほど安全に守られている。戦場は遥か彼方で、王に敵対するティゼンハロム侯爵は自らの所業によって味方を減らしていっているとか。フェリツィアと、ふたり目の子を胎に抱えた側妃に王宮の誰もが傅いているし、万が一の際にも落ち延びることができるように兵が整えられている。
だからシャスティエとしては、自分ひとりだけが安穏としているという後ろめたさが最も強く覚える感情だ。戦場にいる夫はもちろん、同じ王宮にいて、彼女とはまた違った種類の不安と戦っている方たちのことを思えば、なおのこと。
――ミーナ様とマリカ様は、今はどのようなお気持ちなのかしら。
差し迫った危険のない身で贅沢な、とは思いつつ、シャスティエは重い息を吐いた。危険なく守られていると思えばこそ、自身よりも悩み苦しんでいる方々を慮り哀れむのは傲慢なのではないか、とも思うけれど。愛する人が大切な肉親を殺す痛みを自身でも知るがゆえに、その痛みにこれから苛まれようとしているふたりのことが案じられてならないのだ。
――もっと気軽にお会い出来れば良いのだけど。
王宮とひと言で言っても、王妃たちの住まいとこの離宮は幾つもの庭園や人口の小川、それらを繋ぐ小道に隔てられている。庭先を少し歩いたくらいでは、偶然に顔を合わせることなどほぼないだろう。かつてはその方が気楽だったし、会おうとすればすぐに叶う程度の距離でしかないのだけど。今のシャスティエにとっては、そのわずかな距離が遠かった。今日の日向ぼっこは稀な例外で、彼女は日々のほとんどの時間を寝台で大人しく過ごすように言われているから。離宮を出て歩き回るなど、まだ考えることさえ許されないのだ。
「早く貴方に会いたいのにね……」
腹に手を置くと、母の呼び掛けに応えてか胎児が蹴り返してくる感覚があった。時に痛いと思うほど活発に動くこの子のことを、侍女たちは王子ではないでしょうか、などと言っている。そうであったら良いし、マリカ王女のようにお転婆な王女でも、きっと可愛いだろうと思う。生まれてくる子供のことを、単に楽しみにできればどんなに良いだろうか。でも、シャスティエの心持ちは侍女たちとは少し違う。こんなに元気なら早く出てきてくれれば良いのに、と思ってしまうのだ。
不貞の噂を少しでも払拭するためにも早く――黒松館で授かったのだと世間に信じてもらえるように――生んであげたいし、性別はもちろんのこと、髪や目の色が父に似ているかも確かめたい。早産の危険は周囲の誰もが案じて、無理を諫めてくることだし、彼女自身も理解はしている。我が子の無事よりも、体面を気にしてしまうのは母としては許されないことだと罪悪感にも苛まれるのだけど。戦場の王だけでなく、ミーナもこの王宮で戦っているのを知っているだけに、早く大切な方たちのために動けるようになりたいとも思ってしまう。
「……ミーナ様とマリカ様を覚えていて、フェリツィア?」
「きゃあ?」
フェリツィアは、シャスティエや身近な侍女たちの声はもう覚えている。特に母の声と自身の名は特別だと思ってくれているらしく、花と戯れるのを中断して、シャスティエの方へとよちよちと戻って来てくれた。その覚束ない足取りも、母を見上げての無邪気な笑みも、苦しくなるほど愛しく可愛らしい。
「お姉様と、お姉様のお母様よ。ミーナ様は優しい方なのに大変なお立場で……だから、お母様は心配なの」
娘を再び抱き上げながら、努めて具体的なことには触れないように不安を
解放された人質と会ったことを報せてきたミーナの手紙は、ごく簡潔なものだった。その女たちを迎える前に、細々とした不安や気遣いを綴って来たのと同じ方が書いたものとは、俄かに信じがたいほどに。
『皆様、やはりこれからのことを心配なさっていました。できるだけお力になれるようにとお伝えしましたが、分かっていただけたかどうか分かりません。私の言葉を信じていただけないのは仕方ありませんが、できるかぎりのことをして差し上げたいと思います』
ミーナからの手紙は、いつもならばもっと優しさに溢れたっぷりとした文章を連ねたたものだった。王女の仕草や、庭の草花の移り変わり。それらに目を留めることだけでもあの方の心の美しさを示しているようだったし、更にシャスティエの気鬱を晴らすために教えてくれるという心遣いが嬉しかったものだ。でも、女たちとの面会を伝える手紙は、内容の少なさだけでなく細く震える筆致で
恐らく、女たちはあの方に心ないことを言ったのだろう。ティゼンハロム侯爵に恐ろしい思いを味わわさせられたのは気の毒だし、夫たちが今まさに討ち取られているのかもしれないという心中は察するにあまりある。反逆者の身内として、乱の後の扱いが案じられるだろうとも、分かるのだけど。でも、それは全てミーナにはかかわりのないこと。ましてあの方を責めるなど、理に合わないにもほどがあるというものだ。
「言うなら、私にすれば良いのにね。私ならばそれほど堪えることもないのでしょうに……」
赤子に対していけない、と思いつつも、皮肉っぽい笑みを浮かべて呟いてしまう。シャスティエならば、悪意や皮肉に晒されるのは慣れたものだ。他ならぬその人質の女性たちこそが、イシュテンに来たばかりの彼女に対してひどく刺々しい態度だったのだから。言われたことに対してやり返さずにはいられない自身の気性に気付いたのも、正論ばかりを主張する愚かさ頑なさを王に嗤われたのも、ひどく遠いことのようだ。あれからシャスティエは幾らかは折れることを覚えたし、イシュテンの者が従う理屈を操ることも学んだ、と思う。だから、ミーナの代わりにその女たちに対峙してやりたいくらいなのだけど。
――皆、駄目と言うのでしょうね。
身重の身、既に無理を重ねて無事な出産を危惧されている身が、余計な心労を負ってはならないと諭されるに決まっているのだ。多分ミーナも侍女たちと同じことを言うし、だからこそ多くを教えてはくれないのだ。その想いを、尊重しなければならないのだろうけど――
「いけません! そちらにはクリャースタ様とフェリツィア様が……!」
と、物思いに沈んでいたところにイリーナの張り詰めた声が聞こえて、シャスティエは慌ててフェリツィアを抱きしめた。声だけではない、慌ただしい足音が、複数の人間がこちらに急いでいると教えていた。
――何なの……!?
咄嗟に思い出すのは、黒松館が襲われたあの夜のこと。血と煙の臭いが漂う中で、力づくで娘と引き離された時のことだ。王宮の最奥のこの離宮にまで剣を届かせることができる敵など、今のイシュテンにはいないはず。でも、あの時の恐怖が一瞬にして蘇り、娘を抱く手に力を込めさせた。
「クリャースタ様! 非礼は承知しております! どうか話を――」
「いけません。どうしてもというなら私たちが訊いてからです!」
だが、次に聞こえた高い声に、シャスティエは全身の力を抜くことができた。イリーナを辛うじて振り切るように駆け込んできたのは、まだ細い手足の少年だったのだ。警護の兵たちが現れ始めているのも見て取れたし、何より、その子供の顔は彼女にも覚えがあった。
「貴方は、マリカ様の遊び相手ね? どうしたの? ミーナ様――王妃様方のところで、何か!?」
フェリツィアをしっかりと抱えたまま、シャスティエは目の前の子供の名を記憶から掘り起こそうとした。確か――ラヨシュと言ったか。王女や、死んでしまった黒い犬と一緒にいるところを見たことがある。かつて、幼いながらに鋭い目つきで睨まれた記憶もあるが、それはティゼンハロム侯爵家に縁ある者だからということで納得していた。
――それに……母親はあの……。
あの女は、エルジェーベトと言ったか。ミーナの乳姉妹で、人一倍の忠誠心によってシャスティエと腹にいた頃のフェリツィアを狙った女。思い出すだけで氷を肌にあてられたような心地がする。でも、あの女は死を賜ったはず。今になって、この子供が母親の意を受けていることを警戒する必要はないはずだった。
何より、何かしら企んでいるならこうも真っ直ぐに彼女のもとに駆け込んでくるはずがない。ラヨシュという子供の目は必死だった。兵に腕を掴まれ、跪かされながらも、シャスティエを見上げて訴えるのを止めないほどに。
「はい、王女様が、もしかしたら……。兵を出せば、かえって危ないかもしれないのです。丸く収めるために、クリャースタ様のお力をいただければ、と……!」
果たして聞き捨てならない報せを聞かされて、シャスティエは目を見開いた。思わず身を乗り出すと、腕の中のフェリツィアが居心地の悪そうな抗議の声を上げる。それでも、もがく娘にも、身動きを妨げる腹にも構わず、ラヨシュを問い質す。
「王女様――マリカ様が? 詳しいことを教えなさい」
弾む息に言葉を途切れさせながらも、ラヨシュは王妃の部屋であったことを説明してくれた。王妃に詰め寄る女たち。そこへ現れてしまった王女。その方が、殺気だった女たちに囲い込まれてしまったこと。
「何ということを……!」
実に久しぶりに、シャスティエは心の奥底から燃え上がるような怒りに叫んでいた。女たちがミーナに非礼を働いたとは予想していても、彼女たちの言い分は想像を越えて図々しかった。王妃を飛び越えて側妃に取り入りたいと、当の王妃に強請るとは。しかもそれが叶えられないと知ると、王女を盾にするようにして脅すとは。
「クリャースタ様。ご心配なのは分かりますが――」
「ええ、そして貴女の心配も、グルーシャ。でも放っておくことなんてできない。すぐに何とかして差し上げなければ」
侍女たちとの付き合いも長くなった。少し青褪めた顔で口を開いたグルーシャも、対照的に無言を保っているものの、若草色の目に縋る表情を浮かべているイリーナも。シャスティエが何を言い出そうとしているか察しているようだった。そしてその上で、主の無謀を諫めたいのだろう。その忠誠を嬉しく思いつつ、でも、今ばかりは大人しく諫言を容れる機にはなれなかった。無為の日々に鬱屈が溜まっていた時のこと、しかも、恩ある方たちの危険を知らされたのだから。
「まずは私の名前で王妃様のもとに遣いを出しなさい。その女たちには私から言葉を与えます。ごく短い時間だけになるでしょうけど――ここに迎えられるように、支度を整えてちょうだい」
有無を言わせぬ強引さでシャスティエは命じた。王や、イシュテンの男たちの気質に染まってしまったのかどうか――ある種の戦いの場に臨むのだと思うと、どこか心が浮き立つのを感じながら。
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