第34話 王女を追って ラヨシュ
ラヨシュは、今日もマリカ王女と共に王宮の庭で過ごしている。王妃の元に客があるからと、子供は追い出されたのだ。
客、というか――王妃は、必ずしも歓迎していないのかもしれないが。かつて王妃を取り巻いていた女性たち、つい最近まで人質として囚われていた女性たちだ。彼女たちの用件は他愛ないお喋りだけであるはずなどなく、何かしら王妃に嘆願したいことがあるのだろう。つい先日も訪ねてきたばかりだというのに、またすぐ押し掛けてくるということは、きっと思い通りにならなかったことがあるのだろうと、彼は密かに考えていた。
「小母様たちにはご挨拶したかったのに……」
季節は夏に近づいて、屋外にいても肌寒いということはない。かといって日差しには真夏の激しさはまだなく、庭に目を向ければ色とりどりの花が咲き乱れている。そんな心地良いはずの時期なのに、東屋に
「大人のお話ということなのでしょう」
王女を宥めるラヨシュには、王妃が娘を遠ざけた理由が分かる。王妃や王女と、今日の
だが、一度目に訪ねてきた夫人たちを見送った後の王妃の顔色はひどく青褪めていた。それでラヨシュは悟ってしまった。あの女性たちは、かつてのように王妃を崇め敬うのではなく、何か酷い態度で接したのだろう。自身らが囚われの身の憂き目にあったのを責めるとか、命や財産の保障を求めるとか。王妃自身に咎はなく、王が不在の時に確かな言葉を与えられるような権限もないと、誰も分かっているだろうに。
――王妃様が大変な時に掌を返すなんて……!
王女にそのような大人の醜さを感じさせてはならない、と思いつつ――ラヨシュは歯を噛み締め、表情を強張らせてしまうのを止められなかった。だって、あの女性たちもその一族も、ティゼンハロム侯爵家には大いに恩があるはずなのだ。自身に益がある時だけ
「フェリツィアは赤ちゃんだからって大事にされてるのに。子供は我慢しなきゃいけないのね!」
そして王女に対しても。ラヨシュのありきたりな言葉では、政争の渦のただ中に投げ込まれて割を食うマリカ王女の心を和らげることができない。唇を尖らせて宙を――それに、恐らくは思い通りにならない何もかもを――睨む王女は痛々しい。王妃の判断は王女を思い遣るからこそだというのに、傷つけまいと思うからこそ真実を伝えられなくて。それで、王女はますます頑なになってしまうのだ。
「マリカ様……」
更に痛ましいことに、マリカ王女は言葉通りに仲間外れにされて拗ねている訳ではない。庭に出される前の王妃とのやり取りを見れば、この方が母君を案じていることは明らかだった。父君が遠い戦場にある今、幼いながらに大切な方を守ろうとして、でもその力がないのが悔しくてならないのだろう。本当に優しく強く、王に相応しい器の方だと思うのに、年齢と――それに何より姫君であるために何事も思い通りにならないのだ。
王女に掛ける言葉を持たないラヨシュは、こんな時に犬のアルニェクがいてくれたなら、と今更になって切に思う。人の言葉を話すことはできなくても、温かな毛皮や濡れた鼻先、甘える鳴き声は王女の何よりの支えと慰めとなっただろうに。でも、それはもう叶わない。王女の最も忠実な臣下を、彼は奪ってしまったのだ。
「ねえ、ラヨシュ。こっそり覗きに行ってしまわない?」
「え――」
時を経るごとに重くのしかかる罪の意識に耐えて、後悔の念に苛まれていたからだろう。ラヨシュは、王女が上げた、作ったように明るい声を聞き逃した。文字を追わないまま、無為にページだけが繰られていた本が閉じられて、王女がぴょんと立ち上がったのにも、反応が遅れた。
「少しだけ。気付かれたりなんかしないように。小母様たちのお顔を見るだけ!」
気付いた時には、王女はそう言うなり走り出していた。結わずに垂らしていた黒髪をなびかせて、少し強張った微笑みだけを彼に残して。
「マリカ様、いけません……!」
もちろん、幼い少女が駆けたところですぐに追いつけるはずだった。でも、マリカ王女は庭園に巡らされた小道を
生まれた時から王宮で過ごしている王女は、誰よりも抜け道に詳しいのを知ってはいたはずだったが。王女が持てる知識を駆使して全力で走っている今、ラヨシュでさえもついて行くのは難事だった。新緑の中に見え隠れする王女の衣装の華やかな色を、ともすると見失いそうになってひやりとさせられる。
――マリカ様、本気で私を撒く気なのか……!?
王女は、追いつかれないようにわざと狭い道を選んでいるように思われてならなかった。きっと、捕まれば止められると分かっているのだろう。母君のことが心配で、かつて可愛がってもらった夫人たちが恋しくて、どうしても走り出さずにはいられないのだ。でも一方で、強く禁じられたことに踏み出そうとしているのは怖いのだ。だから、時々ちらちらと振り返っては、ラヨシュがちゃんとついてきているか確かめるのだろう。
建物の並びや庭の景観から、王妃の居所に戻りつつあるのに気付いてラヨシュの気は一層
――お止めしないと……!
追いつくことができずに難儀しているとはいえ、相手は幼い少女だ。王女の全力など、ラヨシュには準備運動程度のはず。それでも、疲れよりは焦りのために、彼は息を切らせていた。
王女の母君を案じる気持ち、何かせずにはいられない居たたまれなさは、重々承知している。でも、王妃の言いつけに背いて良い結果が待っているとは思えなかった。守り役の彼が叱られるかどうかということなどではなく、王女を大人たちの確執に触れさせるのが忍びないのだ。扉から入れば、侍女なり護衛の兵なりが王女を押し止めてくれただろうが。でも、王宮の最奥で、窓の側から入り込む者がいるなどとはさすがに誰も想定していないだろう。
だから、彼が止めなくては。畏れ多いとしても手を伸ばして、王女の衣装を掴む。そしてどうにか宥めて、もうしばらく時間を稼がなくては。
「マリカ様……!」
王妃たちが話す部屋の窓辺で騒いでは、かえって気付かれてしまうかもしれない。でも、王女を止めるなら今が最後の機会。走っている最中だから、それに躊躇いがあるためにやや声は掠れたが、ラヨシュは思い切って王女の名を呼ばわった。
だが、それは遅かったのだろう。彼が叫ぶと同時に、視界が開けた。建物の間、かつて複数の側妃や寵姫が王の寵愛を競った時代に、諍いを避けるための目隠しとして植えられた木々の壁が、途絶えたのだ。それはつまり、王妃の暮らす建物のすぐ外に出てしまったということ。ラヨシュも見慣れた白壁に、庭に向かって大きく開かれた窓。かつて王が鞠を投げて、犬のアルニェクに取って来させたこともある。
その窓辺に、今は色とりどりの衣装がひしめいていた。つい先ほど見たばかりの王妃のものに加えて、更に様々な色や素材のもの。花畑のような、というには落ち着いた色合いが多いのは、王妃を訪ねた女たちは年配の者が多いからだろうか。否、それは大した問題ではない。
「お母様……? どうなさったの……?」
そして何より怖いのは、マリカ王女は不穏な気配に気付いていないようだということ。ラヨシュのいる位置からは王女の背中しか見えないが、乱れた黒髪が揺れた動きで王女が首を傾げたのが分かる。より離れた距離にいるラヨシュにも、王妃と女たちの引き攣った顔は見て取れるのだが、王女は単に親しい人たちの顔だ、としか認識していないのかもしれなかった。
「――小母様方も。お元気でいらした……?」
蝶が舞うような軽やかな足取りで、マリカ王女は王妃たちが佇む窓辺へと歩み寄った。声には若干の不審も滲んでいたが、きっと表情は微笑んでいるのだろうと分かる。困惑のような思いがあるとしても、それは誰も何も言わないことに対してのもの。「優しい小母様たち」が母君や自身に悪意を抱いているとは、露とも思っていないかのよう。でもそれは多分間違いだ。根拠がある訳ではないのだけど、なぜかラヨシュはそう確信していた。
「マリカ様……っ」
身体を隠す茂みから飛び出して、王女の腕を取って引き戻そうとする――が、女たちが小さな身体を取り囲む方が早かった。だって、王女は彼女たちの方へ進み出ようとしていたところだったのだから!
「まあまあ、王女様」
「お久しぶりにお会いできて、とても嬉しいですわ」
「母君様とご一緒にお話ししましょう……?」
「マリカ様からも、お願いしていただけると助かりますの」
マリカ王女の姿は、瞬時に女たちに隠れて見えなくなってしまった。まるで母君から遠ざけるように人の壁で囲まれて、王女もさすがに不審に思ったらしい。戸惑うような声が、色とりどりの衣装の隙間から漏れ聞こえた。
「えっ、と……?」
「マリカ様も仲間外れではお可哀想ですもの」
「妹姫様ともお会いしたいでしょう?」
「私たちもフェリツィア様にご挨拶したいのに、させていただけなくて……」
女たちが猫撫で声で口々に王女に言って聞かせることから、そして真っ青に褪せていく王妃の顔色を遠目に見て取って、ラヨシュは瞬時にこの場で何が起きていたかを察した。
――目的は、側妃に取り入ることか……!
女たちが王妃を見る目は、慇懃な言葉とは裏腹にねっとりと下から睨め上げるようだった。何か、当てこするような雰囲気さえある。遠回しに王妃を責める響きは、離れた場所で聞いているだけのラヨシュでさえ居たたまれなくなるほどだった。まして、間近に吹き込まれる王女にとってはどう聞こえるだろう。
王妃にとって、決して楽しい用件でないことは分かっていた。ティゼンハロム侯爵の所業についての抗議だとか、乱の後の家の保証を求めたりだとか、難しくも図々しい強請りごとがあるのだろう、とは。だが、それでも王妃本人に頼むのだろうとばかり思っていたのに。側妃への執り成しを乞うということは、王妃の権威をもはや全く信じないということだ。かつては侯爵に取り入って権力のおこぼれに預かろうとしていたのだろうに。この掌の返しよう、とても許せるものではなかった。
憤然として、ラヨシュは足を踏み出そうとした。王女を無礼な女たちから引き離そうと。幸いに、木々が彼の姿を隠してくれているから女たちはまだ彼に気付いていない。隙を突くことが十分できるだろうし、それにこの際何人かは突き飛ばしてでも、王女を取り戻さなくてはならない。
だが、今にも飛び出そうとしたその瞬間、ラヨシュは王妃の目が彼を見つめているのに気付いた。化粧をしているはずなのに色のない唇が、声を伴わずに何事か囁く。女たちには聞こえないように、彼だけに分かるように託された命だった。
来ては駄目。人を呼んで。
王妃の唇を読み取って、ラヨシュは宙に浮いていた足を辛うじて引き戻した。歯を食いしばるのは、筋肉が捻じれる感覚をやり過ごすため。それに、焦りと悔しさをかみ殺すため。
王妃は、彼を完全に信じてはいないのだ。あるいは、万が一にも激昂した女たちに王女が害されるのを恐れているのか。不安に揺れて、涙で潤む王妃の目を見ると、ラヨシュも自身の手腕に絶対の自信など持てるはずもない。
――しばしの、ご辛抱を……!
できるだけ音を立てないよう、細心の注意を持って枝葉を掻き分けながら、ラヨシュは必死に考えていた。人を呼ぶと言っても、誰を頼れば良いのだろう。女たちを一喝できるであろう王や――アンドラーシは、今はいない。護衛の兵たちはあちこちにいるだろうが、王妃にさえ
ならば、どうするか。
――あの方に、頼るしかない……?
どうしてその人のことを思いついたのか、ラヨシュには分からなかった。特に親しい訳でもない、むしろ彼はその人のことを嫌いですらあるかもしれない。王妃から王を奪い、王女に寂しい思いをさせている元凶とも言える人だから。多分、母に教え込まれた彼の見方がおかしいのだろうと、分かってはいるのだけど。でも、そこを置くとしても相手は身重の大事な身、それも、身動きすらままならない容態と聞いている。王妃のために、動いてくれるかどうかも分からないけれど――
――迷っている時間が惜しい。
王女を囲い込まれてしまった王妃の不安はどれほどのものだろう。一刻も早く、女たちを帰らせて王女を取り戻さなくては。誰も傷つくことがないようにこの場を収める、など、本当にできるのかは分からないけれど。少なくとも彼にはできないのは確かなこと。ならば、躊躇っている暇はない。
側妃の住まう離宮の方へ向けて、ラヨシュは全力で駆け始めた。
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