第33話 二度目の会合 ウィルヘルミナ

 頬に紅を差しても、唇に朱を刷いても、鏡に映るウィルヘルミナの顔色はどうにも冴えなかった。もともと彼女は化粧を塗りたくるのは好きではなかったし、エルジェーベトも虚飾など不要の美しさだと、彼女の肌や髪や瞳の輝きを褒め称えてくれていた。でも、それは決して誇るようなことではなかったのだと今なら思う。何も憂えることがないからこそ、眠れぬ夜のために目が腫れることも、尽きぬ悩みのために肌が曇ることも知らないでいられたのだろう、と。


 近頃のウィルヘルミナは、これまでの無知と無為の代償を一時に払っているかのようだ。何も知らずに幸せに――そう、信じ切っていた――過ごしてきた影で、父や夫やエルジェーベト、他にも沢山の臣下やその妻や子たちがどのような想いで過ごしていたか、全く気付いていなかった。考えることさえなかった。自身と同じく他の者たちも幸せなのだろうと思い込んで疑わなかった。


 髪を結い上げられながら、ウィルヘルミナの唇から重い息が漏れた。急に萎れてしまったかのような自身の鏡像が悲しくて。それに、間もなく客を――あの、ティゼンハロム侯爵家に縁の女たちを迎えなければならないのが恐ろしくて。


 ――怖い、けど……。


 来客のために身支度を整えるのが、こんなに憂鬱だと思うようになる日が来るとは思わなかった。できることなら逃げたい、病気とでも偽って閉じこもっていたい、と。最初の時も思ったけれど、その思いは今はいよいよ強くなっている。

 けれどそれは許されないことだろう。ウィルヘルミナの幸せは、多くの人の犠牲によって守られてきたものだったのだから。――あの女性たちは、犠牲、というほどの覚悟ではなかったのかもしれないけれど。とにかく、父の非道のせいでこれまでの平穏を失った人たちには違いないし、ウィルヘルミナは彼女たちの好意を当然のものとし過ぎてしまっていたと思う。ならば、このような状況でこそこれまでの恩に報いなければならない、と思うのだ。


 それに、あの女性たちに聞いて確かめたいこともある。




『どうか、今日はお帰りになって……。ひとりに、してください……』


 あの日。一度目に女性たちを迎えた時。父とエルジェーベトとの間にあったことを知らされた時。ウィルヘルミナは、口元を抑えてそう呟くのが精一杯だった。

 娘がエルジェーベトに助けられた、と述べた女は顔色を真っ青にして黙り込んでいた。きっと、ウィルヘルミナとは鏡写しのようにも見えただろう。


『王妃様』

『あの――』


 そしてその他の女たちは、何事かを言おうと口を開いては意味のある言葉は紡がずにお互いの顔を見合わせるということを繰り返していた。彼女たちが言おうとして言えないでいたのは、多分ウィルヘルミナを慰めるようなことではない。それよりも、訪問の目的――シャスティエへのかつての無礼を執り成して欲しい、という――について、彼女の確かな言葉が欲しかったのだろう。それが思いもかけぬ成り行きになってしまって、当惑しているだけだったのだろう。


『時間をくださいませ。落ち着いてからでないと……とても――』


 もちろん、ウィルヘルミナに彼女たちを責めることなどできないけれど。彼女たちを追い詰めて苦しめているのはウィルヘルミナの父。その父も、もうすぐ夫によって討ち取られるのだろう。父が遺した罪の幾ばくかでも負わなければ、これまでの無知の償いにはならないだろう。


 話を聞く気はある。ただ、それは今ではない。


 ウィルヘルミナの想いを汲んでくれたのか、無理強いすることはできないと諦めてくれただけなのか。女たちは、不安そうな表情を隠さないながらもその場は引き下がってくれた。けれど、次はいつ会ってくれるのかという催促はすぐ翌日から届いた。断っても意味はないだろうと思うほど、女たちが示し合わせているのではないかと思うほどに矢継ぎ早に、次々と別の者から。

 だからウィルヘルミナは数日をかけてどうにか心を宥め、女たちとの席を再び設けることにしたのだ。




「お母様、本当に大丈夫……? 何だか元気がないみたい」

「大丈夫よ。ご本は持った? ラヨシュを困らせないでね」

「……うん……」


 今日の会も、子供に見せるには忍びない。だからマリカとラヨシュを庭に出しておきたかったのだけど、娘は目ざとく母の顔色に気付いてしまった。母を守ると言ってくれた優しさと強さに、更に聡さも伴いつつあるのだ。その成長を心から喜ぶことができれば良いのに、今のウィルヘルミナには、娘の目を塞ぐことしかできないのが切なかった。かつて自身もされたように、真実から遠ざけるのは良くないことだとは分かっている。

 でも、母である彼女でさえも、今の状況について何と言えば良いのか、どう受け止めれば良いのか分からないのだ。せめてもっと心を落ち着けてからでなくては、娘に向き合うことはできないだろう。――それに、ラヨシュに対しても。


「いつもごめんなさいね。もう、寒くはないとは思うのだけど」

「もったいないお言葉です。マリカ様が退屈なさらないよう、危ないことがないよう、心します」

「ありがとう……」


 マリカよりも年長なだけあって、ラヨシュにもウィルヘルミナの微笑みが繕ったものであることは分かるだろう。でも、マリカと違ってはっきりと言葉に出して案じることはしないでいてくれる。多分、掛ける言葉が見つからないのだろう。その代わりのように、マリカのことについては力強く請け負ってくれる。子供に無力感を味わわせてしまうことも背伸びをさせてしまうことも、やはりウィルヘルミナの心を締め付ける。しかも、ラヨシュの顔を見て思うのは、感謝や申し訳なさだけではないのだ。


 ――この子は、誰に似ているのかしら。エルジー? それとも……?


 剣の稽古を始めたし、そろそろ声変わりが始まる歳でもある。王宮に来た頃は丸かったラヨシュの頬も、幾らか線が鋭くなったようだ。だからだろうか、母親のエルジェーベトに似ているような気はあまりしない。かといって父親似なのかというと、エルジェーベトの夫の顔はぼんやりとしか覚えていなくて、断言することはできないのだけど。


 でも、ラヨシュの父親は、本当にエルジェーベトの夫なのだろうか。


 子供は夫婦の間に生まれるもの、と。信じ切ることができたらどんなに良いだろう。つい先日までのウィルヘルミナは、その他の可能性など思いつきもしなかっただろうに。今では、昼も夜も恐ろしくあり得ない――はずの――ことばかり考えてしまうのだ。


 父がエルジェーベトにおぞましいことをした、という。そのこと自体も受け入れ難く信じ難いけれど、あの女性の表情は真実だと告げていた。事実だからこそ、あの女性は青褪めて黙りこくってしまったのだろう。だから真実としなければならないのだろう。でも、そうすると更におぞましい方向に考えが及んでしまうのだ。

 エルジェーベトはウィルヘルミナの乳姉妹だ。言うまでもない事実を繰り返すのは、つまりは父とは親子ほどに年齢が離れていると確かめるということだ。そしてウィルヘルミナと同い年ということは、女としては取り立てて若いとは言えない年齢だということ。あの女性の娘ならば、シャスティエよりもなお若くてもおかしくない。


 だから、ウィルヘルミナの感情だとか、人としての倫だとかを置くとしても、絶対におかしい話なのだ。娘と同じように成長を見てきた女、夫も子もあることをよく知っている女を……そういう、対象として見ることができる、などとは。それも、より若い乙女が目の前にいる時に。それが、意味するのは――


 ――お父様とエルジーは……ずっと……?


 エルジェーベト。父や母、兄や姉に、実家の使用人たち。これから会う女性たち。今までのウィルヘルミナを取り巻いていた人たちの顔のうち、どれだけの人が気付いていたことなのだろう。知った上で黙っていてくれたのは優しさなのか――でも、たとえ隠れてのことだったとしても、エルジェーベトはどうして何も言ってくれなかったのだろう。

 仮に、ほとんどあり得ないとは思うけれど、エルジェーベトが本心から父を慕っていたのならまだ良い。でも、あの父に無理強いされていたなら、打ち明けてくれれば助けることもできたかもしれないのに。そうすれば、今の状況も何もかも変わっていたかもしれないのに。


「……王妃様?」

「いえ、何でもないの。……今日もお菓子が余るでしょう。後で沢山食べてちょうだいね」


 ラヨシュが不思議そうに首を傾げたので、ウィルヘルミナは泥のように粘りつく疑問の沼から我に返った。エルジェーベトが彼女のことを気遣っていたのか、全く信じていなかったのか、それとも心底侮っていたのか。ラヨシュの父親は、ウィルヘルミナの父ではないのか。幾ら考えても答えは出ないし、幸か不幸かラヨシュの顔に父や兄に似たところは見つけられなかった。


 ――何も、分からないわ……何も、確かではないこと。


 だから、子供たちには何も言ってはならない。気付かせないことは、無理だとしても。ウィルヘルミナの引き攣った微笑みに、ラヨシュもマリカももの言いたげにしていたけれど、重ねて庭に行くよう促すと、ふたりして彼女のことを振り返り振り返りしながら部屋を後にした。




 王妃の部屋に通された女たちは、先日よりもウィルヘルミナの傍に、にじり寄るように跪いていた。まるで人の輪で取り囲まれて逃がさない、とでも言うかのよう。表情も必死で、睨むように強い眼差しで見上げられて、ウィルヘルミナは怯えを見せずに挨拶をするのに苦労しなければならなかった。


 それでも、女たちはウィルヘルミナが促すと大人しく席に着いてくれた。そこまでは、良かったのだけど――


「まずは皆様にお伺いしたいことがありますの。きっと思い出すのもお辛いとは思うのですけど、私の……父と、乳姉妹のことを――」

「そのようなこと、王妃様がお知りになる必要はないことですわ!」

「ええ、王妃様の咎ではないのですもの。恐ろしいことをわざわざお耳に入れることはございませんわ」

「お言葉通り、私たちにとっても辛いこと。せっかく助けていただきましたのに、思い出させようとはなさらないでくださいませ」


 ウィルヘルミナが口を開くなり、女たちは食って掛かるような勢いで早口に訴えてきた。掻き集めた勇気を吹き飛ばすかのような、責めるような激しさに、考えておいたはずの言葉も舌先で凍り付いてしまうほど。


「でも――」

「先日の非礼はどうかお許しくださいませ。私どもも動転しておりましたの」

「ただ、以前のように王妃様のご慈悲をいただければ、と……」

「ええ、それにクリャースタ様も。誤解を解いてくださるのは王妃様だけですわ」


 言葉だけではない、女たちは身体を乗り出し、何人かは椅子から腰を浮かしてまでウィルヘルミナに迫って来る。何も知る必要がない、ウィルヘルミナには関係なこと、と――彼女たちの言い分は、驚くほどにエルジェーベトのそれとよく似ている。世界の全てからウィルヘルミナを遠ざけて、無知のままで過ごさせようとした、彼女の乳姉妹と。

 エルジェーベトはまだ、主を思ってやっていたのかもしれない。でも、ウィルヘルミナは結局全てを知ることになって苦しんでいる。ましてこの女たちは、王妃を想うがために恐ろしいことを伝えないのではない――と、思う。彼女たち自身が思い出したくないからでさえなくて。このように必死の剣幕で言い募ってくるのは――


 ――この前のことを、なかったことにしたいのね……。


 縋るように差し出される手から逃れようと身体を捻りながら、ウィルヘルミナは悲しく吐息を漏らした。先日のように、問い詰めるように責め立てられるのも恐ろしく悲しかったけれど、今のように――そして、エルジェーベトにされたように――言い包めようとされるのはより辛いことだった。ウィルヘルミナは無知で愚かではあるけれど、目の前にいる人間の感情を全く読み取ることができないほどではないのだ。


 父とエルジェーベトの関係を漏らしたことを、女たちはあり得べからざる失言と認識したのだ。だから、ウィルヘルミナにはこれ以上のことを知らせないよう、あらかじめ取り決めておいたのだろう。この必死さ、この勢いはそういうこととしか思えない。そしてそれはウィルヘルミナの心労を慮ってのことではなく、あくまでもシャスティエへの執り成しを願うため。そのために、王妃の機嫌を損ねるのを懸念しているということなのだろう。


 ――勝手、だわ……! でも……。


 ウィルヘルミナに、この女たちを責めることが許されるのだろうか。決して彼女が望んだことではなかったけれど、ウィルヘルミナが長年に渡って憂いなく過ごすことができていたのは、彼女たちのお陰でもあったのだろう。その代償を今払えと言うのなら、拒んではならないのかもしれないけれど。


「王妃様――」

「どうか、ご慈悲を」


 女たちの声と絡みつく視線から逃れようと、ウィルヘルミナは席を立った。大きく庭へと開かれた窓へ、光と新鮮な空気を求めてよろめく――それにすら、女たちが幽鬼のようについて回る。彼女たちの望む言葉を与えない限り、決して逃がしはしないとでも言うかのように。


「待って――まずは、聞かせて欲しいの」

「王妃様! いらぬことですわ!」

「私どもも、引き続き王妃様にお仕えしたいと願っておりますの」

「きっとお心細いでしょうから。ですから、ご一緒に側妃様に――」


 女たちは、きっとウィルヘルミナを言い包めるのは簡単なことだと思っていたのだろう。おだてて優しい言葉で包み込めば――今までそうだったように――言いなりにできる。逆らわないだろう、と。だからなのだろうか、頑なに言い張ろうとするウィルヘルミナに、彼女たちは苛立ち始めているようだった。窓辺に逃げたウィルヘルミナを追う足音は荒く、声も尖り始めている。


 ――嫌……怖い……!


 鬼気迫る女たちを見まいと、ウィルヘルミナは顔を庭の方へと背けた。すると、その視線の先で茂みが揺れる。――風によってではない、不自然な動きで。


「お母様……? どうなさったの……?」


 ――マリカ……どうして……!?


 困惑したような娘の声を聞いて、ウィルヘルミナは目を見開いた。この場では決して聞くはずのない声、見るはずのない姿なのに。大人の話には近づかないよう、言い聞かせていたというのに。部屋の扉から入ろうとしたなら、絶対に誰か止める者がいてくれただろうに。犬のアルニェクが死んでからは滅多にしなくなっていたけれど、庭の木々や草むらを掻き分けて窓の方から近づいてきてしまったのだろうか。


 母と、母に迫る女たちを前に。髪に葉を絡ませたマリカが、小首を傾げて佇んでいた。

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