第41話 狩りの終わり 逃亡者

 すぐ前を行くティボール卿の腰で、水を満たした皮袋が揺れるのを、彼はずっともの欲しげに見つめていた。陣から持ち出した葡萄酒はすぐに尽きたから、最後に心行くまで喉を潤すことができたのはもう何日も前のことだ。それからは、沢から汲んだ水を濾過したり、仕留めることができた鹿などの血を啜ったりするのが精々、今日も出発の前にひと口ふた口、口を湿すことができただけだった。


 とはいえ、彼が若輩だから与えられる水が少ないという訳ではない。追手に見つかるのを恐れて、火を焚くことは極力避けている。煮沸もしていない訳だから水といっても決して安全なものではないし、森の中を分けて進む強行軍の逃避行だから、排泄の機会も最低限にしなければならない。耐えているのは誰も同じなのだから、思うように水が飲めないからといって不平を抱いてはいけないはずなのだが――食糧の質も量も日々悪化していく中で彼の思考は溶けて、獣のように寝たい食べたい飲みたいという欲求だけが四肢を支配しているようだった。


 ――こんなのが……いつまで……?


 疲労と飢えに霞む目で前を見れば、ティゼンハロム侯爵らを中心とした一行が森の中を進んでいる。夏が近づき、生き生きと枝葉を茂らせる木々の中にあって、人とわずかな馬の一団はなんと弱々しいことか。ほんの十日ほど前までは、大軍の中で煌々と輝く篝火の明るさと暖かさを享受していたのが、別の世界のことのように思えるほどだ。


 重い足を引き摺る一行は、誰もが無言だった。疲労を――それに多分、不安や恐怖も――抱えているのは誰もが同じ、無駄口を叩いて消耗する体力が惜しいし、迂闊なひと言が諍いの種にもなりかねない。実際、些細な口論が切っ掛けで人里離れた森で屍を朽ちさせることになった者もいるのだ。先の見えない道のりに、ティゼンハロム侯爵の機嫌もいよいよ悪い。今も近づいているであろう追手だけでなく、この期に及んでも侯爵の勘気はおそろしいのだ。


 ――どうして、こうなったんだろう。


 だから、彼は心の中だけで思考を弄ぶ。考えたところでどうにもならないこと、確たる答えなど見つからない疑問を。ティゼンハロム侯爵家に連なる家に生まれ、洋々とした前途を約束されていたはずの彼が、どうして獣のように森の中を逃げ惑わなければならないのか、という。




 陣に留まって王の軍に踏みにじられるよりはマシだった、と考えようともした。侯爵側の旗色が悪いのは明らかだったから、いかに戦うか、よりもいかに死ぬか、を誰もが考えているようだった。侯爵家に近しい者は、王への命乞いの材料にするために後ろから狙われることさえあるのではないか、と。父たちは懸念してさえいるようだった。夜の闇に紛れるようにして流れてきた誘い――密かに陣を離れて落ち延びる、という――に乗ったのは、他に生き残る術がないと考えたからこそなのだろう。多分、それは年若い彼をむざむざと死なせないため、家を途絶えさせないためでもある。ティゼンハロム侯爵家に近しい者は、たとえ王が命を免じたとしても、これからのイシュテンで生きることができる場所があるとは思えない。


 ――断れば、殺されていただろうし……。


 ティゼンハロム侯爵からして、声を掛ける相手はよくよく選んだはずだ。悩む時間などほとんどないし、ティゼンハロムの紋章の下に集った諸侯への手ひどい裏切りは、決して誰にも漏らされてはならないのだろうから。だから、仕方なかった、と言えばそうなのかもしれないけれど。


 でも、その決断もただ苦しみを長引かせるだけではないのかと、彼は少しずつ疑い始めている。


『ミリアールト……マズルーク……ファルカスが実権を握るのを快く思わぬ国は幾らでもある……! イシュテンに介入する口実を与えてやれば、喜んで飛びつくだろう……!』


 ティゼンハロム侯爵は、ことあるごとにそう唸っているのだけど。イシュテンに対して遺恨がある国は、確かに多い。でも、その筆頭だったはずのブレンクラーレは、既に王によって下された。侯爵との密約も暴かれたという。名高い大国が手を引いたのを目にした後で、あえて王と戦おうという者はどれだけいるのだろう。むしろ、侯爵を捕らえて差し出すことで、同盟を乞おうとするのではないのだろうか。――そうさせないようにするのが、侯爵の手腕であり弁舌だということになるのだろうけど。


 それでも、全て上手く行ったとしても、彼らは異国で雌伏の忍従を強いられるのだ。イシュテンに帰れるあてもなく、常に裏切られ売り渡される危険に怯えて。どこかの王侯の食客の地位を得られれば良い方、根無し草の傭兵の身の上もまだ僥倖と言うべきもの。より巡り合わせが悪ければ、彼らは野盗として山野を彷徨うことになる。かつては数多の家臣や使用人を従え、広大な領地から得る収入で何ひとつ不自由ない生活を送っていたというのに!


 ――それでも、生きてさえいればマシ、なのか……!?


「――止まれ」

「静かに」


 心の中で叫んだ時、抑えた声での囁きが一行を駆け巡り、彼は緊張に身体を強張らせた。下生えを踏む音も、茂みを掻き分ける音も止んで静寂が降りる。そこに遠くから響くのは犬の遠吠えだった。それも一匹のものではなく、森のあちらこちらから呼び合うように、彼らを取り囲むように。昨日あたりから、追手は犬をも使って彼らをあぶり出そうとしているのだ。時に沢を渡り、全身を土に塗れさせて臭いを辿られることを避けようとはしているが、猟犬の鋭い嗅覚を、どこまで誤魔化すことができるだろうか。


「まるで獣扱いだな……!」


 少なくとも今は、犬たちもその主である猟師たちも、更にその両者を束ねているであろう王の手勢も、彼らの居場所を見つけることができていない。犬の鳴き声が遠ざかるのを確かめて随分立ってから、誰かが苛立たしげに吐き捨てた。まるで獣のようだ、とは彼もつい先ほど考えたこと。当然と言うべきか、同じことを考える者もいるらしい。


 ――狩られるとはこういうことか。


 疲労も怒りも苛立ちも、歩みを止める理由にはならない。惨めな死を少しでも遠ざけるためにも、重い足を踏み出さなければ。黙々と、自らの爪先を見つめて俯いて進む彼の頭に過ぎるのは、一族の少し年上の者たちがしていたのこと、兄や従兄たちの楽しそうな笑い声だった。


『人を狩るのは獣と違った愉しさだ。特に若い女が良い。お前にもじきに教えてやろう』

『女、ですか……? 男の方が力が強いから楽しいのでは……?』


 人を狩る、という発想は彼にはさほど楽しいものとは思えなかった。でも、その時話しかけてくれた従兄は、いかにも大事な秘密を教えてくれるというような口調だった。だから機嫌を損ねるのは良くないだろうと思ったし、狩りの楽しみが分からない未熟者や無粋者と思われたくなかった。

 だから、彼はどうにか頭を絞って、面目を保てそうな反問を考えたのだけど。どうやら、数年だけ彼より経験を積んだ青年たちにしてみれば、彼の答えは全くの不正解だったらしい。


『子供には分からんか』

『まあ、もう少しすれば分かるだろう』


 その時の彼は、年上の親族に嘲笑われた屈辱を押し隠して曖昧な笑顔を作るのが精一杯だった。彼らが言う狩りとはどういうものなのか、獲物にされた者はどのように思うのか。後に王が彼らを咎めて追放した時でさえ、親しんだ兄貴分が遠くへ行ってしまうのが寂しいと思うのが精々だった。


 ――怖い……。


 今になって思う。同行しているティゼンハロム侯爵や父たちの手前、口にすることはできないけれど。追われること、明日生きていられるかも知れぬ身であることは、怖い。王の兵の剣だろうと犬の爪や牙だろうと、いつ我が身に迫るかもしれないと考えると恐ろしくてならない。何より、死の恐怖と苦痛が間近に迫っているというのに、その瞬間がいつになるのか分からないのが怖い。

 多分、一族の若者が戯れに者たちも同じ思いを味わったのだ。彼らは、自身の罪を悔い改めることはなかったと思う。ならば、同じ一族の者として、彼が報いを受けるのも仕方のないことなのかもしれない。




 硬く冷える地面に身体を横たえるのと、呑み込まれそうな深い闇の中で歩哨を務めるのと、一体どちらがマシなのだろう。木々の葉が夜風に擦られる音、寝惚けた鳥が鳴く声などにいちいち身体を震わせながら、彼はそんなことを思った。


『持っていかれるなよ』


 彼と交代で眠りについた――はずだ、眠れるものなら――男は、彼の肩を叩いてそう言い残して行った。今日の寝床は、沢を見下ろす小さな崖の上なのだ。絶え間なく聞こえる水の音は、確かに緊張に疲れた心身を麻痺させるような効果もあるのかもしれない。事実、見張りに立っていたはずの者が朝になるといなくなっていたことも何度かあったのだ。たったひとりで、しかもあてもない以上は、その者たちはふらりとのだろう。ひとり森の奥で自刎したか、谷底に身を投げたか。後者ならば、今夜の彼も容易く真似ることができるが。


 ――終わりにする、か……。


 それはそれで楽な道なのだろうとは思う。見上げる満天の星空は、でも、黒々とした山の稜線にきっぱりと断ち切られている。夜空の半ば以上を覆うかのような山塊は、彼らがこれから越えなければならない障害だ。街道を馬で進むことができればもっと楽で速いのだろうが、もちろんそんな目立つ移動のし方では、すぐに王に捕らえられてしまうだろう。かといって、追われながら何日も掛けて山を越えることなどが可能なのかどうか。多分、誰もが心に疑いを抱えている。


 足を少し動かせば、爪先が宙に浮く。それほどの崖っぷちに立って、彼は体重を前に掛けるか後ろに掛けるかの危うい均衡を味わう。いっそ何かのはずみに転がり落ちてしまえば良い、と思う瞬間もある一方、足の下で石が転がり落ちるのを感じると恐怖に血が凍る。疲れも不安ももう沢山だと思うのに、身体はまだ生きたがっている浅ましさ。


 自分自身にも未来にも絶望して、彼は宙を仰ぎ――目を見開いた。


「あれは――」


 星のない暗闇の中に、赤く輝く点が幾つも動いている。空ではなく山中を行き来するそれは、人が掲げる灯に違いない。追手も焦って、昼夜を問わず彼らを追い立てることにしたのだ。この森も山もよく知る地元の民も使っているのだろう、灯は滑らかに動き――こちらへ、近づいてきているような。


「大変です……!」


 巨大な芋虫のように、剣や武装を纏ったままで地に転がる仲間たちのもとに駆け戻ると、彼の声に反応して誰もがすぐに起き上がった。やはり皆、眠ることができないでいたのだろう。不平や舌打ちが聞こえるも、すぐに身支度を整える衣擦れの音に取って代わられる。誰も、まだ死ぬ覚悟ができていないのだ。


「まだ見つかってはいない。動いた方が目立つのでは――」

「陽動の可能性もある」

「ともあれすぐに動けるようにしなくては」


 深夜の静寂の中では、抑えた声での囁きも、金属が触れ合う音もひどく響いた。どれだけ隠れようとしても、遠くからでも聞こえてしまうのではないかと思うほど。浮足立つこちらの動きが、闇を透かして見通されてしまうかのような。


 否、たとえ人の目や耳には届かなくても、彼らの動揺は犬の感覚にははっきりと伝わってしまっていたのだろう。慣れない森と闇に手間取って狼狽える彼の鈍い耳にも、近づいてくるのが明らかな――獣の息遣いと、唸り声。追手が掲げる灯りはまだ山塊のあちこちに散らばっているというのに、主たちに先駆けて、猟犬はを見つけ出してしまったのだ。


「うわ……」


 足元を風の速さで掠める黒い影に、彼は思わず声を上げる。星明りに、犬の赤くぬめった舌が一瞬輝いて見えたような。喰い殺されるか、と一瞬身構えるが――装備も整わぬ手足に、牙が突き刺さる痛みは、ない。


「何をしている、仕留めよ! 飼い主に居場所を知らせさせるな!」


 思いのほかの早さで追手が迫っているのを思い知らされ、更に彼らを追い立てる犬の気配に一行が手をこまねく中、いち早く我に返ったのはティゼンハロム侯爵らしかった。鋭い命令になすべきことを教えられ、彼もようやく剣を抜くことを思い出す。


 ――そうか、普通は……。


 兄貴分たちが、人を襲うように特別に猟犬を躾けたのだと自慢していたのが記憶の靄の中から蘇る。そう、普通の犬はあえて人を襲うことをしないのだ。狩りにおいての犬の役目は、獲物の居場所を主に報せ、かつその足止めをすること。――ならば、この犬どもを一秒でも早く黙らせなくては。主のもとへ帰ることなどさせず、この場で息の根を止めるのだ。


「このっ、畜生……!」


 闇の中で剣を振るっても、何ら手ごたえはなかったけれど。犬の動きは人よりはるかに素早く、しかも地面近くを駆けているとなれば、狙いを定めるのも容易ではない。彼の剣は無駄に地を噛み石を跳ねさせ、持ち主の手に鈍い痺れを伝えるだけだ。否、無駄どころか、周囲の悲鳴や怒号からは、誤って味方同士で手傷を負わせる場面すらあるようだった。


 ――ああ、もうあんなに……!


 犬の動きを見定めようと周囲を見渡し――追手の人間が掲げる灯が先ほどよりも近いのを見て心臓が凍る。褒美目当ての猟師程度なら、斬り捨てることもできるだろうか。でも、遠くから矢で狙われたら? 王が差し向けた兵も同行しているとしたら? 殺される――ここが、こんな山奥が最期の場所になる? 生きて捕らえられたとしても、戦場を放棄して逃げた者を、王も――イシュテンの誰も、許しはしない。


「くそ……っ」


 同士討ちを避けようとして、彼は森の奥へと足を踏み出した。犬の注意を惹きつけるように。主に居場所を伝えようと吠え立てる獣を、一匹なりと黙らせるように。深夜の騒ぎに鳥が飛び立ち、顔に羽虫がぶつかるのを振り払いながら。足元の茂みを切り開くように剣をぶつける。一度、二度――


「あ――」


 そして三度目に剣を薙ごうとした時、彼の足は宙を踏んでいた。明るい頃の地形などもちろん覚えていないし、犬が駆けられるからといって人が同じことをできるとは限らない。動揺のあまりに、すっかり失念していたのだ。


 転がって、落ちる。空の星と、山中に散る追手の灯がくるくると交錯して入れ替わる。身体のあちこちに痛みと衝撃が走る。頭蓋が砕ける音が、脳に響いたような。


 でも、もう怯えながら逃げなくても良いのだと思うと、彼の最期の思考は不思議と穏やかだった。

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