第32話 決戦の時 ファルカス
ひと度出立すると、ファルカスの軍は早かった。
あの奇襲はリカードの切り札だったはず。それを退けた以上、更なる罠が潜む可能性は低い。また、リカードの方も体勢が崩れたところを襲おうと、こちらへ近づいているだろう。
――そして、失敗したのにも気付いた頃だろうな……!?
奇襲に加わっていた者たちは、ひとりたりとも逃がさなかった。山間の街道を進む軍に、横から斬り込むような形で襲い掛かった伏兵は、しかし、それをあらかじめ知って待ち構えていたアンドラーシらに取り囲まれる形で殲滅された。捕虜から情報を得ることができなかったのは残念だが、送り出した兵が戻らないことで、リカードも策が破れたことを知っただろう。戦いに先んじてファルカスの――王の首を獲るという目論見が外れたリカードの陣営は動揺しているはず。ならばその隙を見逃す手はなかった。
頬に風を感じながら、駆ける。山を抜けた街道は今は平野に延びて、馬を走らせるのに何の支障もない。ティゼンハロム侯爵家の財力が築いた広く整備された道は、行軍にはうってつけですらあった。重石になる女子供は後方に護衛と共に置いて来たし、糧食を運ぶ車や歩兵は、何なら後から追いかけて来させれば良い。とにかく、主力となる騎兵を前線に届けることを最優先に、ファルカスは全軍を急がせていた。
それは、もちろん第一にはリカードとの決着を急ぐため、ということにもなる。だが、王の命だからというだけでなく、全軍が一体の馬ででもあるかのように一丸となって駆けるのは、誰もが同じく抱くであろう想いからでもある。
――
ちょうど奇襲を退けたのと時期を同じくして、戦乱の難を逃れようとした民たちが、王の庇護を求めて集い始めていた。リカードの本拠地が近づいたということは、徒歩の民が家財を抱えて移動できる範囲の内に彼が入ったということでもあったのだ。ジョルト卿の娘に書かせた文書を農村に撒いていたのが、功を奏し始めたということもあるのだろう。
リカードの陣営の内情は、これまでは投降した者とエルジェーベトの証言からしか知ることができなかった。それも、彼の軍が間近に迫る前、比較的余裕があったであろう時期のことだけだ。人質を取ってまで無理に従えていた以上、旗色の悪さはリカード自身も承知していただろうと思ってはいたが。まさか、王の剣が届く前に味方同士で殺し合うほど追い詰められていたとは。
民が、貴重な家畜や畑を置いて、生まれ育った土地を離れる決断をしたのも無理はない。遠目にも明らかな、見せつけるように晒された死体の数々――それも、どれもが手足をあり得ない方向に曲げた、歪な姿になって。群がる鳥は黒い雲のように不吉に空を覆い、その鳴き声は次の生贄を呼び求めるようだったとか。それは、愚かな民の怯えた心がそのように見せ、そのように聞かせていたにすぎないのだろうが。今のリカードは何をするか分からない、という一点においては誰もが見解を一致させた。
乱に加担した諸侯に死を与えるも、赦して永らえさせるも、全て王の判断によるものでなくてはならない。王に背いた反逆者が、王の臣下と民の命を摘み取ることなど許されない。ただでさえ度重なる乱と遠征で疲弊した国を、これ以上損ねたくはないというのに!
奇襲を見事に制圧したアンドラーシは、だが、ファルカスの前に跪いてまず赦しを乞うた。命じた通り、自身も
『誰ひとり捕らえることは叶いませんでした。陛下の臣下を損なったこと――あるいは、逆賊に正しい裁きの場を与えることができなかったこと、伏してお詫び申し上げます』
――随分と変わったものだな……。
軽薄な調子もなく、神妙に頭を垂れた側近の姿を見て、ファルカスは奇妙な感慨に襲われたものだ。忠誠心という意味では常に信頼していたが、かつてのこの男の言動は好戦的で挑発的で危なっかしいことこの上なかった。考えるのは王の役目だと、本人も豪語していたくらいだったのだが――時に王の命令でさえこの男の無謀を止められないのではないかと危惧することさえあった。だから曲解の余地がない命しか下すことができないのを、もどかしく思うこともあった。だが、いつの間にか主君の意を汲むことを覚えたらしい。
乱の後を見据えて、ファルカスがなるべく犠牲を抑えようと考えていること。彼の怒りの理由は、単にリカードが従わないというだけでなく、本来王だけのものであるはずの臣下や民を勝手に損なっているからだということ。アンドラーシの言葉は、敢えて言葉に出さない彼の内心を、見事なまでに捉えていた。
『……全員が死ぬまで剣を離さなかったと聞いた。下手に捕らえようとすれば犠牲が増えていただろうから仕方あるまい。お前が無事に戻っただけで十分だ』
奇襲を防ぎ、更に忠臣を失わずに済んだだけでも喜ばしいこと。それに加えて、思っていた以上に得難い臣下に恵まれていたことに気付かされて、ファルカスは戸惑いを隠すのに少し苦労した。驚くほどの成長を見せたとはいえ、人の性格はそう簡単に変わらない。彼の感情を悟らせでもしたら、この男は調子に乗るに決まっているのだ。
『寛容なお言葉に感謝申し上げます』
基本的には人の心の機微に鈍感なアンドラーシは、幸いにファルカスの内心には気付かないようだった。硬い表情で頷いた後――谷底に消えたという伏兵の将と交わした言葉を、報告してくれた。降伏を勧めても拒まれたこと、死よりもなお、汚名を恐れていたようだったことを。
『リカードについた段階で、反逆とは承知していただろう、と――不審ではあるのですが。人質を取ったのを恥とでも考えたのでしょうか。骨はありそうな者でしたが、結局名乗らせることもできなかったのは惜しいことでございました』
敵味方を問わず、気骨のある者、死を恐れぬ者を称揚するのはイシュテンの男の倣い。アンドラーシの口調にも、失態への弁明というだけでなく、惜しい男を散らせてしまったことを悔やむ思いが滲んでいた。
『下手に捕らえようとしてお前を失うことの方が惜しかった。全力を出してのこと、過ぎたことは気に病むな。むしろ手柄を誇るが良い』
その時は、ファルカスもリカードの陣で何が起きているか知らなかったのだ。だから心に懸かる違和感もアンドラーシと同じだっただろう。だが、取り返しのつかないこと、次の戦いに士気を保つ方が重要であることは明白だった。ファルカスはさすがにアンドラーシよりは臣下の顔と名前を覚えてはいるが、兜を脱がせることさえできなかった者を、背格好だけで言い当てることはできないだろう。だから、この件についてそれ以上拘泥することに利はない、と彼は判断したのだ。だから――まずあり得ないこととは思ったが――名も知れぬ者の死を引きずって剣を鈍らせることがないよう、アンドラーシの労をねぎらってその場を収めたのだった。
今となっては、奇襲を率いていた者たちが何を恐れていたのかは明らかだ。
イシュテンの者は、戦場での命のやり取りには基本的に遺恨を遺さないことを美徳としている。無論、必ずという訳でもないし、親兄弟の仇討ちを名目にした決闘なども、歴代の王が禁じても度々行われてきた。だが、だからこそ。戦場以外の場所での必要以上の残虐は忌避されるのだ。他国には悪名高い略奪でさえ、奪うという目的があってのこと。見せしめのためだけに死体を並べるなどとは、イシュテンの気風には全く合わないのだ。
――確かに、末永く語り継がれるのに間違いはないだろうな……!
恐怖で味方を縛り付けるために、死体の山を築いたなどとは。自身の名も家の名も、嫌悪と共に語られるのが耐え難いという心情は理解できる。自らリカードに従っておいて、身勝手極まりないこととも思うが。
とにかく確かなのは、放っておけばリカードの軍は勝手に数を減らし続けるだろうということ。戦いの趨勢だけを考えれば願ってもないことかもしれないが、こうしている間にもファルカスの臣下が喪われていくのと同義でもある。それを止めるためにも、彼はこうして風の速さで駆けているのだ。
数日の行軍の間に、ファルカスに従う兵は幾らか増え、彼の剣は幾度か血で曇った。
王の軍がいよいよ近いことを知ったリカード側の諸侯が、次々と投降してきたのだ。それぞれに手勢を率いてきた彼らは、一様に自身の首と引き換えに反逆の罪を償うことを申し出た。本来であれば、剣を交える前に降った者の命を奪うつもりはなかったのだが――リカードの所業を前にして、当主の首くらい差し出さなければ一族の面目が保たれないという考えがあるのは明らかだった。既に始めから王に従っていた者たちの目は厳しかったし、奇襲を率いていた者の末路を考えても、彼らを翻意させるのは難しかっただろう。だから願いを叶えてやった形になる。
――所詮、逃げに過ぎないのだろうが……!
首を刎ねた者たちが率いていた兵は、元々の将の身内や側近に指揮者を替えて王の軍に組み込まれた。その者たちの証言によると、離脱しようとしてリカードに討たれた者もいるという。戦いが始まる前から、敵味方双方の手によって将兵が削られていく自体は、ファルカスにとって不快かつ不本意極まりなかった。
だが、それでもついに彼らはリカードが陣を敷く地に辿り着いた。王都を発った時にはまだ冷気も残る頃だった季節は、既に初夏の気配を感じるまでに進んでいた。
「なるほど、酷い有り様だな……」
彼我の軍は、もはや号令ひとつで剣を交えることができる距離に近づいていた。ティゼンハロムの十三の光条を放つ太陽を始め、諸家の紋章が翻る敵陣を眺めてファルカスは呟いた。
夏に近い陽気は、死体の腐敗をよく進めたらしい。最初に殺された人質の女と子供はとうに鳥や獣の餌になり骨となり果てていてもおかしくない頃合いだが、疑心暗鬼になったリカードによって死体は際限なく増えていったらしい。リカードの陣を守る歩哨のように、腐り具合や四肢の残り具合も様々に晒された死体が列をなしてファルカスの軍を睨んでいた。人相を判別できるような距離ではないが、眼球を失った眼窩がぽっかりと虚ろに空いているのは分かる。
爽やかなはずの初夏の風が運ぶ腐臭に、顔を顰める者も多い。見せつけるように死体を並べたままにしているのは示威のつもりなのか。こちらの嫌悪と敵意を増す効果の方が大きいだろうに、とも思うが――あるいは、埋葬する余裕もないのだろうか。
「リカードめ、我らを誘っておりますな」
「うむ」
将のひとりが囁いてきたことに対して、ファルカスは頷いた。敵陣の中央に掲げられているのは、ティゼンハロムの太陽の紋章が縫い取られた旗。当然、リカードはその下に陣取っているのだろう。
「隠れようなどとは考えておらぬのはさすがだな。他に手がないこともあるのだろうが」
「自らを囮にするつもりですな。突出させておいて、すぐに退くつもりでしょう」
また別の者が進言したこともまた、ファルカスの考えと一致していた。
リカードの陣は、三日月のように弧を描く形を取ってファルカスの軍に対峙している。ティゼンハロムの紋章を弧の中心に、月の尖った両端をこちらに向けるようにして。リカードを目指して突進すれば、両翼の軍が進み出てこちらを取り囲み押し包む、そんな狙いが見て取れるようだった。
「では、迂闊に踏み込んでは相手の策に乗るようなものですな」
「とはいえ数ではこちらが勝っているのです。ひと息に踏み躙ってやれば良いのでは?」
慎重な見解に対し、好戦的に言い放ったのはアンドラーシだった。そして今回ばかりは、ファルカスもこの男の進言を容れるつもりだった。
「そうだな」
王が指針を示す気配を感じ取って、周囲の将兵の空気がぴりと引き締まった。彼らの視線を痛いほどに感じながら、ファルカスは剣を抜いて真っ直ぐにティゼンハロムの紋章を指し示す。彼方の距離を越えて、切っ先をリカードの喉元に擬すかのように。
「せっかくの誘いには乗らなければなるまい。狡賢いリカードめが、やっと自ら前線に出てきてくれたのだからな……!」
「は……っ!」
その宣言に応えて、周囲から声が上がる。慎重な見解を示していた者も功に逸っていた者も、等しく猛る戦意に満ちていた。リカードの度重なる非道――ブレンクラーレとの内通に、王妃と王女を攫おうとした暴挙。本格的な乱が始まってからの人質の件や、今まさに目の当たりにさせられた残虐さ。そのいずれもが、ファルカスと彼らの心をひとつにしているのだ。リカードという化け物を、これ以上生かしておくことはできない、と。
――正面から挑み――叩き潰す!
これまで散々、周りくどい策を巡らされてリカードを糾弾することができなかった。だから今度こそ、という想いがファルカスにはあった。今度こそ、逃げる隙など与えず追い詰める。捕らえる。首を刎ねる。イシュテンの王は彼であり、その権威を盗む者は何人たりとも許さないのだと、そう、イシュテンの全土に示すのだ。
「――進め!」
万感込めた命に応えて、全軍が動く。蹄の音が雷鳴のごとく轟き、地を揺るがした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます