第31話 心に空いた穴 エルジェーベト
エルジェーベトは、目の前に差し出された杯を見て首を傾げた。王が、リカードが罠をしかけた可能性がある山道に踏み込む間、彼女は軍の後方に止められていた。万が一にもリカード側に寝返ることがないよう。また、仮に教えた言葉に嘘があれば、すぐに首を刎ねることができるように。
そうして狭い馬車に閉じ込められて、陽も落ちた頃のことだった。見張りの兵が何者かと声を交わすのが聞こえたかと思うと、ひとりの兵が彼女に呑め、と言って杯を突き出してきたのだ。
「これは……?」
尋ねるまでもなく、鼻に届く香りで杯の中身は分かる。さほど質の良くない葡萄酒だ。戦場にあってはこんなものでも兵たちの慰めになるのだろうか。上質の樽も石造りの倉庫もないのだから、贅沢は望むべくもないのは仕方ないのだろうが。――だが、問題はそんなことではない。なぜ彼女にこのようなものが与えられるかということだ。
――毒を呷れという王の命なのかしら。
王はエルジェーベトを無駄に虐待するような真似はしなかったが、甘やかすようなことも決してなかった。虜囚の身にも食事や寝床は与えられた代わり、それは必要最低限のものだけ。酒が出されたことなど、これまでなかったというのに。
彼女の不審の目に、酒を差し出した兵は気付かなかったようだった。ただ、素直に手を伸ばさないのを遠慮か何かと都合よく捉えたようで。その兵はああ、と呟いて軽く笑うと、葡萄酒を満たしているらしい皮袋に直接口をつけて呑んで見せた。というか、我慢できなくなったということなのだろうが。
「陛下は奇襲の返り討ちに成功されたとのことだ。お前の進言あってのことだからな――褒美があっても良いだろう」
「まあ、なんてもったいない……」
ともあれ、毒杯ではないのを確かめることができた。エルジェーベトは杯を軽く掲げてからそっと唇を寄せた。久しぶりに口にする酒精に頭がくらりとするが、決して不快な感覚ではない。何しろ、どうやら彼女はまた一歩目的に近づいたということのようなのだから。
耳を澄ませば、周囲の兵たちの浮かれよう、恐らくは酒を呑んで騒ぐ声も確かに聞こえてくる気がする。ならば王はリカードの罠を退けたのだろう。エルジェーベトの進言によって! 全軍が勝利に浮かれる中、この兵は、個人的な判断でエルジェーベトを哀れんで酒を振る舞ってくれたらしい。リカードの敗北が近いのも、彼女の存在に重きを置く者が増えるのも、いずれもエルジェーベトにとっては歓迎すべきことだった。
――王と言っても儘ならないことは多いもの……兵や臣下の声は、無視することができないでしょうね。
家臣に対しては常に傲慢に振る舞い、怒りや不快を露にして憚ることがないリカードと比べると、王の忍耐強さはいっそ哀れむべきほどではないか、とさえ思う。戦場においての勝利は半ば収めたも同然の王なのに、自陣の諸侯に対しては呆れるほど気を遣って接しているのはエルジェーベトにも見て取れる。
例の、妻子を生贄にして投降してきた者を冷遇せず、しかしより早く参じた者たちも不満を抱くことがないよう、手柄を期待できる前方に配置する。リカードをめでたく討った後も、領地や財産は功績ある者に分け与えるとあらかじめ約束しているとか。勝利を収めたところで、王が得るのはイシュテンの真の王位だけ。国境の内に、少なくともあからさまには逆らう者がいない権力というのは大事ではあるのだろうけれど――本来ならば即位と同時に得るのが当然のものを、今更になって命がけで手に入れなければならないとはご苦労なことだ。
まあ、男など元より愚かなもの。好んで血を流して争うものだから、戦いの理由など何であっても良いのかもしれないけれど。とにかく、王がいかにエルジェーベトを嫌い憎もうと、彼女の手柄を認める者が多いとなれば、安易に首を刎ねることはできないだろう。功績ある者に非道で報いる王だと見做されれば、乱の後の統治にも響きかねないのだから。
無論、側妃を毒で狙った彼女の罪は何ら変わることはない。その点については彼女も重々承知しているし、命乞いをするつもりもない。だが、だからこそ。自らを顧みず王の勝利のために献身した者の最期の願いくらいは、叶えてやれば良いと思う者も出てくるだろう。
――マリカ様……。
エルジェーベトが杯を干したのを見て満足したのか、兵はまた皮袋から酒を呑みながら去っていった。辺りから聞こえる騒ぎはますます勢いを増しているようだ。士気を高めるべく、王が全軍に酒を振る舞いでもしたのかもしれない。
でも、それは彼女にとってはどうでも良いこと。エルジェーベトが想うのは命に代えても守るべき主のことだけだ。フリーダという娘の母や、人質の女たちは今頃は王宮に着いた頃だろう。そしてマリカの庇護を求めて謁見を申し入れた頃だろうか。先んじてあの方に会うことができる者たちのことを思うと、嫉妬が胸を灼くのを自覚せずにはいられない。だが、それすらも彼女の願いを叶える後押しになるだろうと思って耐える。
あの女たちは、エルジェーベトに恩がある。娘の貞操を守ってやったフリーダの母は別格として、その他の者たちも何かと愚痴を聞いて慰めて、囚われの身の不安を宥めてやったのだ。そもそも、リカードに従う諸侯の妻女たちだから、彼女が王妃の傍近くに仕えていたことを覚えている者もいた。あの女たちは、きっとエルジェーベトのことをマリカに伝えてくれる。最後の慈悲として、言葉をかけてやるように勧めてくれる。
だからエルジェーベトはもう少しだけ待てば良い。王の勝利、リカードの敗北、兵や血や女たちの言葉。全てが、彼女をマリカの元へと届けてくれるはず。
そう信じ、自らに言い聞かせ。エルジェーベトは微かな酔いがもたらす眠気に身を委ねて目を閉じた。
翌朝の軍議で、いつも通り兵に両脇を囲まれて連れ出されたエルジェーベトの顔を見るなり、王は露骨に顔を顰めた。春の麗らかな日差しが、草葉が纏う朝露を煌かせる爽やかな朝には似つかわしくないことだ。昨晩は勝利の美酒に酔ったのだろうに、不快な現実を思い出させたのだとしたら申し訳ないこと、と。内心では嗤いながら、エルジェーベトは表向きはあくまでも慇懃に腰を折って見せる。
「見事奇襲を退けられたと伺いました。心からお慶び申し上げます」
「うむ」
見え透いた追従に、王の渋面が緩むことはない。とはいえそれは分かった上でのこと。より重要なのは、エルジェーベトが自身の功績を誇るような真似をしないこと。殊勝に、贖罪の機会を求めていると――たとえ王やアンドラーシなどは信じずとも――大方の者の目に、見せることだ。
「そなたの進言があってこそ、だったな。リカードも、今頃さぞ慌てていることだろう」
「恐れ入ります」
ほら、軍議に出席した諸侯のひとりは、気安く声を掛けるほどに彼女を買ってくれている。死を賜って当然の罪人に対しては本来はあり得ない態度を、戦いにあって助けられたという連帯感が可能にしているらしい。朗らかな――ともすれば間の抜けた笑顔を向けてくるその男は、王がいかにも不快げに顔を顰めているのには全く気付いていないようだった。
「今日は、何をお話すれば良いのでしょうか」
「貴様の助言はもう要らぬ。リカードの陣までの道筋は知れているし、一度奇襲を破った以上、あちらは自陣の掌握に手いっぱいになるはず」
王の苛立ちに、やはり気付かぬ振りで尋ねてみたが――そのような僭越は、さすがに狼のような低く鋭い唸りで報いられた。どうやら今日エルジェーベトが呼ばれたのは、用済みを告げるためということらしい。この場で首を刎ねられるのか、という不安も一瞬頭を掠めるが、王の手は剣の柄に置かれたまま動かない。
彼女の推察通り、この男は臣下の目を気にしているのだろう。戦況を説明するような言葉は彼女に向けたものではなく、居並ぶ諸侯に対してのもの。認められ始めている――とても笑えることに――エルジェーベトを遠ざける理由を、あえて説明しているかのようだった。
「この場に留まり戦いの終わりを待て。死すべき罪を犯した身であることを忘れるな」
――そんなこと、分かっているわ……!
王は、今この瞬間にもエルジェーベトを殺したくて仕方がないこと。彼女を睨む青灰の目が、そこに宿る刃のような怒りが教えてくれる。マリカとの再会は、まだ確約されたことではなく、王の機嫌によっては叶わない可能性も十分あること。
上手く行っていると半ば信じ込んでいたところに冷水を浴びせられた思いで、エルジェーベトは唇を噛んだ。上りつつある太陽が髪をじりじりと炙るような気がした。この季節の太陽にそれほどの熱はないはずなのにそう感じるのは、彼女自身の焦りを示しているということか。
――力のない王の癖に……!
上手く行っていると思っていたのは幻に過ぎなかった。エルジェーベトの望みが叶うか否かは、結局は王の胸先ひとつに委ねられているのだ。
「この上は軍議を聞かせる必要もない。決して逃がさぬように監視しておけ」
王の言葉を合図に、エルジェーベトは腕を取られた。彼女を決して信じていないと、王の険しい目は告げている。だから策や進軍の経路からは遠ざけておこうというのだろう。彼女にリカードに密告するつもりはなく、そもそもその手段さえないというのに!
「お待ちください……!」
兵に引きずられながら、エルジェーベトは思わず声を上げていた。王の無駄な用心を嗤う思いは、ある。だが、それ以上に切実な焦りに駆られてのことだった。無論、それが下策になる恐れもよくよく承知してはいる。
後方で大人しく囚われていても、彼女が既に稼いだ手柄によって、エルジェーベトをマリカの元へ届けてくれる可能性は、十分にある。だが一方で、勝利の高揚がそれを押し流してしまう不安も無視することはできない。利用するだけ利用されて、忘れられることになるのは何としても避けたかった。
「黙れ。聞かぬ。連れて行け」
「過ぎた願いとは重々承知しております! 私は……ティゼンハロム侯爵の最期を見届けたいのですわ!」
苦し紛れなどではなく、本心からの叫びでもあった。リカードの――マリカの父の、最期を見届けること。それは、マリカに会うための決め手にもなるはずだから。手を下した王からだけではなく、傍で見ていた者の言葉を、マリカは聞きたいと思うだろうから。そして慰めて差し上げることができれば、あの方の心も和らぐだろう。最後に会った時はどうも機嫌が良くなかったようだけど、きっとまたエルジェーベトの言葉に耳を傾けてくれるはず。
全てはマリカのために。そのために、エルジェーベトは必死に言い募った。
「あの方が私に何をしてきたか――お分かりになってくださいましょう……!? あの方が報いを受けるところを見たいのですわ。そう、それに……ティゼンハロム侯爵ともあろう方が女風情に裏切られたと知らされるのは、
「くどい!」
叫ぶ間にも引きずられて、その場に留まろうと抗うエルジェーベトの足は若葉を抉る二条の跡を描いていた。そしてそこまで見苦しく足掻いてもなお、王の心を動かすことはできなかった。ひと際強く吐き捨てられた一喝を最後通告に、エルジェーベトはその場から退出――壁も屋根もない屋外にはそぐわない表現だが――させられた。
「女にしてやられたリカードというのは面白いのでは……?」
ただ、名前も知らない将が、面白がる口調で王に進言したのが聞こえたのを、せめてもの救いと思いたかった。
「エルジェーベトさん……今日は、お早かったのですね……」
「……ええ。もはや王の勝利は確実ですから。私にお手伝いできることはないようです」
エルジェーベトが仮の牢である天幕に連れ戻されると、フリーダは珍しく太陽の下で立ち働いているところだった。危害を加えられる恐れは少ないとはいえ大柄な兵たちは怖いのだろう、この娘はできるだけ目立たず過ごしたがっているようなのに。
見張りの兵は、もはやエルジェーベトに同情的だ。だから、大人しく
「では、ゆっくり休めるのでしょうか……。あの、お心穏やかに過ごせると良いのですが」
「そうですね。ありがとうございます」
――穏やかに死を待てというのかしら?
一方で、フリーダのおずおずとした躊躇いがちな口調はいつも通り。エルジェーベトの境遇に、掛けた言葉がそぐわないのには気付いていて、でもより適当な言葉を思いつくことはできないで、ひどく後ろめたそうな顔をしている。この娘の心証を損なうのも下策だろうから、あえて指摘することはしないが。ただ、声に微かに滲んだ険によって、フリーダは少し怯んだようだ。その、仔
「出歩いていらっしゃるのは珍しい。何か、ありましたか?」
「え、ええ……」
だからいつものように穏やかに話しかけてやったというのに。フリーダは、なぜかびくりと身体を震わせて答えた。元々小心な娘とは思っていたが、この数日というものフリーダはどこか神経が過敏になっている節がある。前線に出ることもないというのに、戦いの気配に怯えてでもいるのだろうか。
とにかく、フリーダは例によってどこか苛立ちを誘うようなおどおどとした口調で説明した。
「近くの街や村から避難してきた人たちが来ているそうです。侯爵様のなさることが恐ろしいから、と。お年寄りや子供もいるので、お手伝いできることがあれば、と思いましたの……」
「そうでしたか」
言われて見渡してみれば、彼女を取り囲む兵の壁の向こうに、軍には似つかわしくない農民の姿が幾つか見えた。家財を積んででも来たのか、武器や糧食を運ぶものに比べればみすぼらしい荷車なども。戦乱の予感に、持つものの少ない民が住まいを離れて難を逃れようとするのはよくあることだが――
――殿様が、何をしたというのかしら。
長年親しんだ領主であるはずのリカードではなく、王の軍に庇護を求めるというのが、今の状況をよく表しているように思えた。あの金の髪の女を襲った愚か者どものように、一族の中には思い違いする者も幾らかはいないでもなかったが、リカード自身は、自領の民に対しては概ね寛容な良い統治者だったはず。なのに、今になって民を離反させるとは。糧食を供出させようと無理強いでもしたか、憂さ晴らしに襲ったりでもしたか。
これまでの恩義があるはずの民にさえ見捨てられたのだ。リカードが何をしようとしたにせよ、形ばかりだとしても従っている諸侯の士気はよほど低いのではないだろうか。人質が失われたことにはもう気付いているだろうし、奇襲の失敗も伝わったはず。戦いの趨勢は、あちら側にとっても明らかだろう。
――あの方ももう終わりなのね……。
王に対して訴えたのは、必ずしもエルジェーベトの本心ではない。リカードには理不尽な暴言も暴力も浴びせられたけど、マリカの傍にいるためには必要な代価だったと理解している。仮に、リカードがマリカを守り続ける力と立場を失わなかったなら、裏切る必要もなかったのだ
だから、取り立てて嘲って喜ぶようなことではない――とはいえ、悲しむこともできないのは、彼女の心の奥底にやはり恨む思いがあるからだろうか。
ただ、どこか心に穴が空いたような虚しさを覚えた。
数日後、王は軍を率いて最後の戦いへ向けて発った。エルジェーベトやフリーダや庇護を求めた民たち、彼女たちを守り監視する幾らかの兵だけを後に残して。
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