第30話 糾弾 ウィルヘルミナ

「疲れていらっしゃるでしょうから、お菓子は余るくらいに用意してね。それからお茶も……食器は足りるのかしら。別の部屋になっても良いから、皆様に召し上がっていただけるようにしないと」


 ウィルヘルミナは、久しぶりに客を迎えるべく忙しく立ち働いていた。客というのは、父が捕らえ、そして夫によって解放された女性たち。助けられたと言っても今も人質の立場は変わらず、この王都に送られてきたのも彼女たちの父や夫がまだ乱に加わって――つまりは、ウィルヘルミナの父に従っているからだという。それも、彼らの本意ではなく、父が脅してのことだという可能性も高いとか。


 ――どんな顔でお会いすれば分からない、けど……。


 王都に辿り着いた彼女たちは、まずウィルヘルミナに面会を求めてきた。かつては親しく――と、彼女は思っていた――交際していたことがある人もいるけれど、状況が変わった今では以前と同じ関係ではいられないだろう。家や夫や我が身の行く末も気に懸かるだろうし、父の仕打ちへの恨み言を、娘のウィルヘルミナに言いたいということもあるかもしれない。その、不安は尽きないのだけど。


 ――私がやるしかないのよ。


 口実をつけて会わずに済ませられないか、と考えてしまう弱い心に、そう言い聞かせて叱咤する。シャスティエに頼りたいのは山々だったけれど、あの方はまだ体調が万全ではなくて見舞いに行くこともままならない。不安を抱えた人たちの訴えを聞かせて大事な身体に万一のことがあったら、夫に顔向けできるはずもない。何より、女性たちはウィルヘルミナを名指しして会いたいと言っているのだし。


 だから彼女はひとりでこの事態に対峙しなければならない。娘は、母が責められるかもしれない場面を見せるのは忍びないからラヨシュと一緒に遊びに行かせた。シャスティエにも今日のことは一応報告して、案じる言葉を手紙でもらっている。御子をお腹に抱えてさぞ不安な日々だろうに、あの父の娘であるウィルヘルミナを気遣ってくれた――その気持ちだけで充分、これ以上頼ることなど考えてはならないだろう。


 エルジェーベト以外の侍女によって――いまだにふと違和感を覚えずにはいられない――髪を結われ化粧を施されながら、ウィルヘルミナは意識して背筋を正そうと努めた。




「皆様、お久しぶりですね。――こうしてまたお会いできたことを、とても嬉しく思います」

「恐れ入ります。お目通りをお許しいただき、寛容なお心に心から感謝申し上げます」


 ウィルヘルミナの眼前で、女たちは深く腰を折って顔を床に伏せている。助けられた人数はもっと多かったはずだが、年長の者と身分が高い者が特に選ばれて送り込まれているようだった。この場にいない者たちのため、用意した菓子は持って帰らせるようにしよう、と密かに決める。


「王妃様には、何から何までお気遣いをいただきました。不忠の身に、あり余る光栄でございます」

「いいえ。当然のことですもの」


 女たちが言っているのは、彼女たちが纏っている衣装のことだろう。解放されたばかりでは着るものにも不自由しているだろうから、と。ウィルヘルミナが手配させたのだ。シャスティエが王宮にやってきてすぐの頃、衣装がないのを理由に茶会への招きを断られたのを思い出してのことだった。シャスティエの時のように彼女自身の衣装を分け与えるのはさすがにできないし、女たちが満足する質のものを渡すことができたのかは分からないけれど。それでも、彼女が思いついて人に命じるというのはとても珍しいことだった。


 ――これもシャスティエ様のお陰……。あの方のお陰で、気付けたことね……。


 無為に無邪気に過ごしてきた日々の中でも、学べることはあったのだ。そのことに少し勇気をもらって、ウィルヘルミナは女たちに席に着くように促した。


「私にお話というのは、何なのでしょうか」


 用意させた茶菓を勧めながら、すっかり構えた語り方になってしまったのを寂しく悲しく思う。以前だったら、この女性たちとはもっと砕けた、親しみのある接し方をしていたのに。姉のように伯母のように、慕っていた人もいたはずなのに。ウィルヘルミナの世界は変わってしまった――分かっていたつもりでも、突きつけられるごとの胸の痛みには慣れることはできなかった。


 ――いえ……この方たちの方がお辛いのでしょうけれど。


 かつてウィルヘルミナに対しては常に笑顔だった女たちの顔が、今は硬く強張っている。これから言おうとしていることが何であれ、ひどく言いづらいと感じているのだろう。ならば、彼女の方は以前と変わらず無邪気に笑って見せなければ。愚かな女だと侮られたとしても、その方が口を開きやすいということもあるだろう。


 砂を噛むような表情で、代表と思しき女は菓子を口に運び茶で流し込んだ。王妃の言葉に従ったというだけで、味わうどころではないかのような。そして茶器を置く小さく固い音が響き、消えた後――その女は、覚悟を決めたかのように口を開いた。


「図々しいこととは存じております。ですが、家のため、仕える者たちのために伏してお願いしたいことがございます」

「私にできることなら、何でも。遠慮なさらないで言ってくださいな」


 前置きを言ったきり、また口を閉ざしてしまった女を、ウィルヘルミナはなるべく優しく促した。何度か言葉を変えて、ほとんど乞うような口調になって初めて、相手は言葉を続けてくれる。


「クリャースタ・メーシェ様に、これまでの非礼をお詫びしたく……! 王妃様には、是非とも執り成しをお願いしたいのですわ」

「シャスティエ様――クリャースタ様に?」


 聞かされるのは父か夫のことだろうと思っていたのに。思わぬ人の名を聞いてウィルヘルミナが首を傾げると、物分かりの悪さに焦れたように、今まで控えていた女たちからも次々と声が上がった。


「側妃におなりになる前のこととはいえ、お忘れになっているはずがありません! 私どもの処遇はあの方のお心次第になるのでは……!?」

「恐れながら、貴女様のためにしたことでもございましたのに……!」

「王妃様はあの方と親しいと伺いました。貴女様のお言葉なら、きっと」


 女たちは必死に訴えているつもりなのだろうか。だが、彼女たちの語調のあまりの強さは、ウィルヘルミナに一斉に責め立てられているかのような恐怖を覚えさせた。いや、お前のためだったのに、という発言は、確かに彼女への非難の意が込められていた。


 混乱の中から、浮かび上がる記憶がある。それもまた、シャスティエと出会ったばかりの頃のものだった。美しく聡明な方、それも、祖国を亡くした哀れむべき立場の方に対して、ウィルヘルミナの周囲の女たちは不思議なほどにきつく当たることがあった。言葉の端を捕らえては皮肉めいたことを言ったり、知るはずがないイシュテンの習慣を知らないのを笑ったり。


 ――私の、ため……?


 今になって――言われて初めて、気付いた。この女たちは、ウィルヘルミナのためにシャスティエを牽制したつもりだったのか。美しい元王女が、王妃の立場を脅かすかもしれないから、と。後にシャスティエが側妃になった時も、人の夫を奪う真似は感心しないとしきりに囁く者が後を絶たなかった。


 春の陽気が急に遠ざかり、氷室の中に閉じ込められたようだった。ウィルヘルミナの血は冷えてこごり、口を開閉させて何事か喚く女たちの顔だけが遠いことのように目に映る。彼女たちの言葉を聞くことを、耳が拒んでいるかのように。

 彼女の愚かさは止まるところを知らないようだ。自身で思い知ったと思っていても、後から後から不明なところが現れる。シャスティエならば、女たちの意図にも、その背後にあったであろう父の意図にも気付いていたのだろうか。それでもなおウィルヘルミナに微笑んでいてくれたのだとしたら、居た堪れない。あの方からすれば、ウィルヘルミナこそが女たちを唆していると見えてもおかしくなかったろうに。


 自身の愚かさに恥じ入り動揺するのと同時に――ウィルヘルミナの胸の奥からふつふつと湧き上がる感情もあった。


 ――私は、止めてと言ったのに……!


 シャスティエとは友人になれたと思っていたのだ。女たちの気遣いなど、彼女にとっては気遣いにもなっていなかった。親しい人の悪口を聞かされて、誰が喜ぶというのだろう。実際、彼女は度々この女性たちをたしなめて――そう、父の凋落を待たずとも、それ以前からもこの人たちは疎遠になっていたのだった。

 なのに、今になってウィルヘルミナに強いられたかのように言うなんて。あまつさえ、咎を押し付けた相手に執り成しを望むなんて。――図々しい。


 彼女がこれまで感じたことはほとんどない、胸を騒めかせる昏い色の想い――これは、怒りなのか苛立ちなのか。何と呼ぶべきか分からない感情の渦は、とにかく、ウィルヘルミナの声と表情を――もしかしたら必要以上に――硬化させた。


「クリャースタ様は、ご懐妊中の大事なお身体でいらっしゃいます。それも今はご体調が優れなくて、お会いすることはできないでしょうし、煩わせることもいけません。私も、お見舞いにさえ行くことができていませんの」

「そんな――」


 それでもウィルヘルミナはやはり負の感情を表に出すのに慣れていなかった。女たちの顔色が変わり、口が開かれ、また責め立てられる気配を感じると、すぐに語調を弱めてしまう。大勢が揃っている女たちに対して、ウィルヘルミナはただひとり味方もいない。父の所業についての負い目もある。乞う側と乞われる側という立場の上下はあっても、彼女には絶対的に弱い方に置かれているという思いがあった。


「でも、無事にご出産なされた暁には、きっと皆様のお言葉をお届けしますから」


 だから、言い訳のような言葉を何とか紡ぎ出したのだけど――女たちは、それでは満足しないようだった。


「それでは遅すぎますわ。私どもは既にここにいるというのに、何カ月もご挨拶できないのでは――」

「その頃には、乱も終わっているかもしれませんのに!」

「夫の命にも関わるかもしれないことです。どうかご慈悲を賜りますよう……」

「せめて手紙をお渡しすることはできないのですか?」


 ――お願いだから一度に喋らないで……!


 この人たちはシャスティエのことを知らないから仕方ないのだ、と思おうとした。かつての確執を根に持って、夫に言いつけるような方だとでも信じ込んでいるのだろう。ウィルヘルミナならば執り成せるだろうと必死なのも、――多分侮られているから――彼女相手に語気が強くなるのも、彼女には咎める資格はないのかもしれない。何といっても彼女の父こそがあらゆる不幸の原因で、娘としてはその罪の一端なりと負わなければならないのだろうから。


「皆様、落ち着いて……。私に、できることをしますから……」


 掛けた椅子をわずかに退いて、ウィルヘルミナは女たちの追求から少しでも身を守ろうとする。それでも、顔を伏せたり背けたりしてはならないと自身に言い聞かせて。そんな中で、ひと際高い声が響き、彼女の胸を貫いた。


「貴女様の乳姉妹という方は、私どものために身を挺してくださいました。側妃様と御子様への恐ろしい罪を償いたいと仰って。その方がこの上なく慈悲深い方と仰っていた王妃様、決して私どもをお見捨てにはならないと信じております……!」

「エルジー――エルジェーベトに、お会いになったの……!?」


 ひとりの女が述べたことは、考えまいとしていた彼女の乳姉妹の動向に触れていたから。死に値する罪を犯し、しかもそれを省みる気配がなかったエルジェーベト。何を言っても聞き入れてくれることはなかったから、死んだものと考えるしかないと思っていた。それでも、女たちと同様にウィルヘルミナのための罪であるのも理解していたから、少しでも想いを馳せる度に胸が締め付けられるようだった。その人のことを、こんな場で聞くことになるなんて。


「娘をティゼンハロム侯爵の魔手から救っていただきました。――いえ、あの……申し訳ございません」

「父は、エルジェーベトは何をしたのですか。構わないから教えてください」


 ウィルヘルミナが顔色を変えたことで、その女は自身が誰のことを口にしているか思い出してくれたようだった。他の女たちも、王妃が気分を害していることにやっと気付いたかのように、一様に口を噤んでいる。あるいは、自らも問いかけられることを、王妃に対して無礼になるかもしれないことを言わなければならない事態を避けたかったのか。


 自然、その場の者の視線はエルジェーベトについて言及した女に集まった。


「……侯爵様が、娘に……その、狼藉を働こうとなさったのです。そこを、あの方が気を逸らしてくださいました」

「父は彼女に――お嬢様に、手を上げたのですか」

「いいえ、そのようなことは。……その方が、機転を利かせてくださったもので」


 でも、その女の顔には明らかに言わなければ良かった、という後悔が浮かんでいた。ウィルヘルミナの視線を避けるかのように目を伏せ、言葉も濁しているのがはっきりと分かる。彼女を慮っているようで、でも、その気遣いはもはや遅すぎるものだった。父がエルジェーベトの言葉に従うなど、ウィルヘルミナには信じがたいことなのだから。


 父は、言葉にするのも憚られるようなことをしたに違いない。女の娘に対してかエルジェーベトに対してかは分からないけれど。この女は、ウィルヘルミナの心中を慮ってぼやかしてくれているだけなのだ。


 ――エルジーが……他の方を庇うなんて。


 そのこと自体も想像しづらいことでウィルヘルミナを戸惑わせた。女が最初に言った通り、贖罪の意識の表れだというのが本当なら、喜ぶべきことなのかもしれないけれど。――でも、それならエルジェーベトは今はどうしているのだろう。罪の意識に怯えながら、まだ父のもとにいるのだろうか。


「……私は、父の罪を知らなければなりません。どうかはっきりと仰って。怒るととても恐ろしい方なのは私も知っています」


 父の真実と乳姉妹の本意を少しでも知ろうと、ウィルヘルミナは身を乗り出して言葉を連ねた。父が彼女の前で声を荒げることは滅多になかったが、それでも同じ屋敷で暮らしていれば、兄や使用人を叱る場面を見聞きすることはあるものだ。


「いえ、お怒りになっていたのでは……」

「では、どういうことなのですか?」


 室内はしんと静まり返り、せっかく用意した茶も冷めていくばかり。焼き立てだった菓子の香りも次第に褪せていく。集った女たちは皆、口を閉ざして伏せた目で互いを探り合って。――その重い空気に耐えかねたように、女はとうとう小さな声で囁いた。


「……侯爵様は、娘をお部屋に召そうとなさいました。それを、あの方が身代わりになってくださって……」

「それは――」


 女は、できるだけ直接的な言葉を避けたのだろう。だから鈍いウィルヘルミナがその意味を理解するのに数秒掛かってしまった。とはいえ彼女も大人の女で人の妻。何のことだか分からないままでいられるほど愚かではいられなかった。


「そんな、こと……!」


 数秒をかけて女の言葉をやっと正しく認識した瞬間――こみ上げる吐き気を堪えるため、ウィルヘルミナは口を手で覆った。

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