第29話 無名の者たち アンドラーシ

「罠に掛けたつもりで自身が袋の鼠とは。ティグリスのようにはいかなかったようだな?」


 ティグリスの名は、今やシャルバールと対となってイシュテンの戦士にとってもっとも忌むべきものになっている。わざわざその存在を引き合いに出して相手を挑発するアンドラーシの下で、黒馬のアルニェクはやや不機嫌そうに蹄で地を掻いている。

 本来の乗り手とは違う者に御されているのを不服に思いつつ、それでも命令を聞いてくれているのだ。誇り高く気性は荒いが律儀で賢い――体格や脚の速さが優れるだけでなく、王を思わせるこの性格、やはりこれは得難い名馬だ。王の影を仰せつかったのは、それ自体も名誉なことだが、この馬の手綱を取る機会を得たこともまたとない僥倖なのだろう。


 ――後で他の奴らに自慢してやろう。


 身体は油断なく槍を構えて、リカードの手先の動向を見張りながら。アンドラーシは心中ほくそ笑んでいた。より良い馬を求めるのは誰もが同じこと。王のような名馬を、と願うのも。だが、何かしらの褒美として血縁の馬を下賜されるくらいならまだしも、王の愛馬に跨ることを許されることがあるなど、一体誰が予想し得ただろうか。


 ――最後まで嫌な顔をなさっていたが。


 この役割を決めた軍議の場を思い出すと、アンドラーシの口元は場違いに微笑んだ。奇襲を仕掛けてくる伏兵を迎え討つ役に志願する者は多く、王はまず背格好で振り分けた。つまりは、王と同じ年頃や体格の者を選んだのだ。

 リカードが一か八かで勝ちを狙うとしたら、王の首を獲る以外に道はない――王自身を囮にする訳にはいかない以上、そして伏兵を誘き出さなければならない以上、少なくとも遠目には王に見える者を仕立てなければならなかった。更に言うなら、王と同年代ということは普通は若輩に数えられることになる。囮という危険な役目を、大軍を率いることができるような将に与える訳にはいかない、という事情もあっただろう。


 剣や槍の技量や実戦の経験を考慮し、それに何より王の馬を借りるのを不遜と思わない――アンドラーシも畏れ多いとは思っているのだが、それよりも喜びと好奇心が勝った――者、ということで最終的に彼がを務めることなった時、王は彼に無茶な命を下したのだ。


『絶対に怪我をさせるなよ』

『たとえ我が身が斃れようとも、無傷でお返しするようにいたします』


 白兵戦になれば馬をぶつけ合う場面もあるのだ。絶対、などとは誰にも言い切ることができないものだ。とはいえ、愛馬を他人に任せる不安は彼にも重々察することができた。だから、それほどの覚悟で臨む、というほどの意味合いを込めて答えたのだが――王はそれにも首を振った。


『それもならぬ。必ず勝って戻れ。お前自身でアルニェクを返すのだ』


 ――ご自身の馬と同等に考えてくださるとは光栄なこと。


 生きて帰れ、馬を損なうな、と――無理難題ではあるのだが。とはいえ、アンドラーシを案じる言葉に違いはないだろう。戦いにあって、臣下のひとりに過ぎない者を惜しむようなことは、王の立場では言いづらくもあるのだろうし。彼のように軽薄な言動の者が相手では――自覚はある――、言葉が捻くれるのも無理はあるまい。

 だからここは素直に喜ぶべきだろうし、帰れという命を必ず叶えて差し上げなければ、と思うのだ。


 そのために必要なのは、目の前の相手を斬り伏せること。殺さず捕らえることができれば願ってもないが、果たしてそんなことが可能かどうか。伏兵を率いているらしい男の力量を見極めるべく、アンドラーシは目を凝らした。


「おのれ……!」


 奇襲の失敗を悟って自失していたのも一瞬、男は今はしっかりと剣を握り直している。リカードに信用され、この大役を任せられるだけあって、腕も度胸も確かということなのだろう。驚かせるために兜を捨てたのは下策だったか、とちらりと思う。だが、視界の広さと身軽さは利点にもなるだろう。


にまんまとおびき出された気分はどうだ? 手間暇かけた罠が全て無駄になった気分は?」


 後がないと腹を括った相手ほど厄介なものはない。決死の抵抗など真面目に相手するだけ損をするようなものだ。だから、アンドラーシはあからさまな嘲弄で敵の将を挑発しようとした。逆上して、隙だらけで斬りかかってきてくれるなら返り討ちにするのも容易い。槍の一閃で落馬させて、喉を貫いてやれば済む。――だが、兜の下から聞こえる相手の声は、思いのほかに平静だった。怒りによってか恐怖によってか、微かに震えてはいるものの、我を忘れているようでは全くない。


「……ティゼンハロム侯爵の命運もいよいよ尽きたか。だが、ただで殺されてやるなどと思うなよ。ひとりでも多く――王の馬なりと、道連れにしてやろう……!」

「大した蛮勇だな。大人しく首を差し出せば一瞬で刎ねてやるというのに……!」


 相手の宣言にすかさず切り返したものの、アンドラーシは内心では少なからず鼻白んでいる。


 ――リカードに義理立てする必要があるはずもなし、何のために戦うというのだ……?


 先行した兵も、当然この奇襲のことは承知している。今頃は敵を囲むべく反転しようとしている頃だろう。街道の幅と山間ゆえの足場の悪さに阻まれるとしても、この者たちを取り逃がすような間抜けは晒さない。そしてアンドラーシらの後方では、街道を塞ぐ障害を取り除こうと兵たちが動いているはず。剣を奮って戦っても、確かに何人かは葬ることができるだろうが、結局嬲り殺しにされる最期に変わりはないだろうに。

 無論、どうせ死ぬなら戦って、という心情は分からないでもないのだが――


「王の犬め。――死ね!」

「おっと――」


 余計なことを考えすぎていたことに、アンドラーシは相手の剣をかわしながら気付いた。とはいえ彼の得物は槍、間合いを詰められることさえ避ければ剣の相手はさほど脅威ではない。アルニェクの手綱を操り、剣の切っ先の届かぬ距離に一端退く――と、相手は麾下から槍を受け取っていた。これで条件は対等になるか。

 狭い街道が、図らずも馬上槍試合の場になったかのよう。アンドラーシは改めて伏兵の将と向かい合った。


 まずは一合。馬を突進させ、すれ違い様に相手を叩き落とそうと槍を繰り出す――が、お互いに決め手にはならない。手が痺れるほどの衝撃を、しかしアルニェクはよろめくことなくやり過ごし、アンドラーシの手綱に従って巨体を素早く翻した。二度目の激突に備えて槍を構えながら、アンドラーシは叫ぶ。


「リカードに殉じる愚か者の名を覚えてやろう。名を名乗れ!」

「名乗る名などない!」

「妻や子はいないのか? お前の首を届けてやると言うのに……! 今頃、王宮で貴様の身を案じているのかもしれないぞ?」


 わざわざ妻子のことに触れたのもまた、相手を動揺させる手管のつもりだった。自身が斃れた後に妻がどうなるか――アンドラーシでさえも、ふと過ぎる想像に寒気のようなものを覚えることがあるのだ。死地にあって怯むことがないこの男の覚悟は大したものだが――近しい者たちが反逆者の身内として世間からそしられるのを思い浮かべてもなお、揺らぐことはないだろうか。王宮に移されたことを仄めかせば、己の態度次第で扱いが変わるとは思い至らないだろうか。


 降伏するとまではいかずとも、ほどよく戦意を萎えさせてくれれば良い、と思ったのだが――


「俺が何者で、いつどうやって死んだのか――誰も知る必要はない。知らせもしない!」


 叫ぶなり、相手は再び突きかかってきた。が、アンドラーシも二度と油断はしない。アルニェクとも息が合ってきた、とも思う。迫りくる槍の穂先を自らの得物で逸らし、これまた再び敵手と位置を入れ替える。


「陛下の布告は届かなかったか!? リカードを見捨てれば助命するとのご慈悲を、無駄にしたな!」

「遅すぎたのだ! 今さら降ったところで何になる! ティゼンハロム侯爵に従った汚名は拭えぬのだ!」

「それこそ今さらなことを……っ!」


 降伏する気のない者を相手に無駄口を叩いてしまっている、と。心の片隅では分かっていた。だが、アンドラーシは声を荒げずにはいられなかった。奇襲で王を狙うという卑劣な策を受け入れた割に、対峙する相手は意外なほど腹が据わっていて見どころがある。なのに、それでいて聞き分けがない。意地も名誉もある程度は分かる。だが、乱の後を見据えて罪を問う者を減らそうという王の意志を、まるで汲まない態度が許しがたいのだ。


 ――何と頑迷な……!


 苛立ちに歯軋りした瞬間――アンドラーシはふと、気付いた。周囲から聞こえる殺し合いの音――剣や槍の刃が噛み合う音、肉や骨が馬の蹄に踏み砕かれる音。悲鳴や呻き声。その中に、命乞いや助けを求める声が全く混ざっていないことに。

 奇襲に際して精鋭を選んだのだとしても、あまりにも淡々と黙々と、敵の誰もが屠られ切り刻まれていっている。率いる者同様、周囲を刃に囲まれても誰ひとり降伏することもなく。ただ、目前の敵をひとりでも多く斬り伏せることだけを考えているかのよう。その異様なまでの戦意に、アンドラーシも気付かされることがある。


「貴様ら全員死ぬ気か」


 舌打ちと共に吐き捨てると、やはり正解だったのだろう、相手は高らかに笑った。自棄、と断じるにはあまりに強い覚悟と色濃い絶望に満ちて、アンドラーシを少し――ほんの少しだけ――怯ませる。


「名など言ってやるものか。あわよくば勝利を、そして叶わなければ無名の者として消えることを。誰もが承知で参っている!」

「リカードを捕らえれば同じことだ。いずれ無駄だというのに……!」


 三度目に槍を交えながら、怒鳴り合う。今度も決着はつかず、相手は馬上のまま。とはいえ度重なる激突に、確実に疲労は溜まり集中は削がれていっているだろうが。


 彼自身も息を整え、次の激突に備えつつ、周囲での戦闘にちらりと目を配る。次々と倒れていく敵兵の装備は、確かに出自を示す紋章の類が一切ない。急斜面を駆け下りる奇襲に際して、装飾を排したというのもあるのだろうが。この者たちは、ことが成らなかった場合は無名の者として死ぬ覚悟で臨んでいるのだ。


 反逆の中でも忌避する者も多いであろうこの役目を受けた理由が、これだろう。戦場で堂々と名を明かして戦えば、リカードについたことが歴史に刻まれる。だが、この場でひっそりと消えることができれば、イシュテン全土を巻き込んだ混乱の中、家のひとつやふたつ、あえて語られることもない――かもしれない、ということだろうか。


 だが、敗れた者は同類の存在を証言するだろうし、王だとて乱の全容は把握しようとするだろうに。

 兜の下に隠れた相手の表情も顔も分からない。リカードの陣営の者に、声だけで名をあてられるような知己はいない。アンドラーシが相手について知ることができるのは、射るような強い眼差しと、頑迷なまでの覚悟だけだ。


「所詮、一縷の望みだ。侯爵が何か言う前に討ち取られるのに賭けるまで。奇襲を見破った勢いならばあり得るであろう!?」

「愚かな……!」


 奇襲を成功させるのも、首尾よく歴史から消え失せるのも。ごく儚い、糸のように細い一筋の可能性にすぎない。そんなものに命と名誉を賭けようという相手のことが、アンドラーシには心底理解しがたかった。そこまでの胆力と判断力がありながら、リカードに従うのも、王に仕えようとしないのも。


「――知っている!」


 話は終わり、とばかりに叫ぶなり、相手が向かって来る。四度目の激突、アンドラーシも体勢は十分整っている。風の速さで槍の先が、相手の馬が迫り、そしてすれ違う。――今度は、手ごたえがある。


「ぐ……っ」


 胸元を抑えて呻くその男の手から、槍が落ちた。馬も脚をもつれさせているのは、今までの負担の表れか。勝敗は決したのだ。追い打ちをかけるべく槍を持ち直したアンドラーシは、だが、一瞬だけ迷う。


 ――捕らえるか、とどめか……!?


 捕らえて、情報を吐かせるに越したことはない。だが、男のこの様子では、拷問にも屈しないと考えるべきだろう。それに、察してしまった敵たちの願い。名もなき者として死にたいという覚悟。それらへの哀れみが、彼の判断を鈍らせたのだ。その隙を、相手は見逃さなかった。


「はは……」


 いまだ止まぬ剣戟と悲鳴の重奏の合間を縫うように、乾いた笑い声がアンドラーシの耳に届いた。顔さえも知らない相手が穏やかに満足げに笑っているのが、なぜかはっきりと見える気がする。


「待て――」


 相手の意図を察してアルニェクの手綱を引いた時は、もう遅い。相手の馬は、無意味によろめいていたのではなかった。主の命じるままに動いていたのだ。山腹に切り開かれた街道――その、崖に面した方へと。


 人を載せた馬、その巨体も落ちる時は一瞬だった。


 念のためにアルニェクを崖の際まで寄せてみるが、見下ろしても木々の枝葉に阻まれてあの男がどこをどう落ちたのかは判然としない。死体を引き上げることはできるかもしれないが――顔の判別がつく状態かどうか。


 ――あいつ、願いを叶えられるのかな。


 苦々しい思いで、アンドラーシは軽く息を吐いた。戦った結果として殺めざるを得なかったということではなく、この結果になったのは彼の失態とも言えるだろう。それも、反逆者の言に耳を傾けて同情などして。この先、関わった者の取り調べが進めば、結局あの男の素性も暴露されるかもしれないというのに。


「――ひとりも逃がすな! 抵抗する者は斬って構わん!」


 それでも、この場にいる者たちは主と同様の気概を持っているはほぼ間違いない。ならば捕らえることを試みるだけこちらの危険が増す。そう判断して、アンドラーシは声高く命じた。

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