第28話 奇襲 無名の将
ティゼンハロム侯爵領の一角、街道を見下ろす高台に、彼は兵を潜ませていた。
王都から続く街道は、この辺りの山間を避けるのではなく、谷を縫い、時に山肌を開拓して道としていた。大規模な街道の整備を行うことができるのもまた、元々は侯爵家の権力と財力の証だったのだが。今は、王に反逆するための奇襲の足がかりとなっている。
獣か地元の猟師くらいしか通ることのない狭く険しい山道も、領主ならばその存在を知っていてもおかしくない。山賊や密猟者を追うために、あるいは危険な狩りを楽しむために。その地の主たる者は、自領の全てを把握しているものだ。
彼が待つ場所は、馬が身じろぎすると岩肌を
眼下の街道が、木と岩の間に見える細い帯のように見える高さ。商人の隊列も、家畜や作物を載せた荷車を引く農民も通らないのは、王の軍が交通を制限しているからだろう。つまり、王は間もなくこの下を通り過ぎる。奇襲を常に警戒してはいるだろうが――崖に近い斜面を駆け降りる一団に、咄嗟に対応するのは難しく、身動きできる範囲も限られる。何しろ道の片側は彼らがいる斜面、そしてその逆側はまた下方へと拓ける崖になっているのだから。もちろん、奇襲する側としても危険なことには変わりないのだが。
「王の軍が近づいております。昼頃には、先頭が通りがかるかと」
「やっとか……」
不安定な足場での待機が耐えがたく長いと感じ始めた頃――斥候の報告を受けて、彼は軽く息を吐いた。ティゼンハロム侯爵のもとに参じた時点で彼は既に逆賊になり果てていたのだろうが――実際に王に剣を向けるとなると、気の持ちようは全く違う。彼は特別忠誠心の篤い臣下ではないが、それでも王というのは敬うべきものと、何となく信じ込んでいるのだろう。王の鋭い青灰の目を思い浮かべると、ティゼンハロム侯爵に従う不忠を伏して詫びたい思いさえ湧き上がる。だが――
――それでも、家のためにはやるしかないか……。
心中の後ろめたさを呑み込んで、彼は深く呼吸した。この期に及んで反逆者が許されるはずなどないのだから。もはや、やるかやられるか、の話でしかないのだ。
「皆、あらかじめ取り決めた通りに動け。生き残るも名誉を得るも、この機を逃してはならぬと心得よ……!」
抑えた声で命じると、彼の麾下の兵たちは一斉に応と答えた。いずれも木々に紛れるように装飾を排した武装に身を包み、兜から覗く目には悲壮な覚悟が湛えられている。きっと、彼も同じ姿と表情をしているのだろう。
彼が奇襲の大役を申し出たのは、第一には生き残るため、王を討ってティゼンハロム侯爵を勝たせることで、恥ずべき反逆者から新しい王――マリカ女王になるのか――の第一の臣下として取り立てられるためだった。だが、より消極的な理由として、侯爵の傍近くに留まって王の裁きを待つよりは、自ら兵を動かした方が大分気は楽だから、というものもあった。
王の軍を待ち構える侯爵の陣営――称号を持つ貴族も将も、一兵卒にいたるまで、その表情の陰鬱なこと、その場にいるだけで気が滅入るというものだった。
それに、何といってもあの臭気だ。遮るものがないはずの平野にあってさえ、ティゼンハロム侯爵が陣を構える一帯には濃い腐臭がたちこめている。陣を遠く離れた今でさえも、喉や肺にあの耐えがたい悪臭がこびりついているような気がするほどだ。
そして当然のことながら、臭気には源がある。首を吊られた者、腹を裂かれた者、斬り落とされた首や手足――そんなものが、悪趣味な装飾ででもあるかのように高々と掲げられ、鳥が啄むに任されている。イシュテンの男が死体を恐れるはずなどないが、必要以上の残虐を目の当たりにすれば嫌悪を覚えるのは、人としては自然な感情と言えるだろう。
――最初はまだ良かった……いや、最初からやり過ぎたのか……?
汗を吸い込んで湿った手甲で手綱を握り直しながら、彼は振り返る。ティゼンハロム侯爵と、侯爵にもっとも近しい血族や側近たちが、いかに理性の
王に降った者の妻子を血祭りに上げたのは、酷いことではあるが、まあ仕方なかったのだろう。罪もない女と子供を手に掛ける役を、彼自身が命じられていたとしたら固辞したかもしれないが、それをやった者を一概に非難できるものでもないだろう。何しろ、ティゼンハロム侯爵は離反者が出たことに大層怒って――そして恐らくは焦って――全軍への見せしめにするよう強く命じたというのだから。だから、彼としては殺された者たちの苦痛がせめて長く続かなかったことを願うしかない。
次は、密かに列を離れようとした兵が何人か、だったか。女子供を虐殺した非道は、彼らの主にはもう引き返せないと知らしめたのかもしれないが、雑兵にはもう沢山だ、と思わせたということだろう。彼らの処分は、脱走を見過ごした主に委ねられた。侯爵の無言の怒りと圧力に応えようと、その男はかなり
そして人質が助け出された、という噂が流れるにつれて、ティゼンハロム侯爵はいよいよ疑い深く激しやすくなった。侯爵に従う――従わせられた――諸侯の妻や子がどこに捕らえられているか知っているのは、侯爵に近しい者だけ。だから大方の者には噂の真偽を確かめようがなかったのだが。ただ、侯爵領内の都市や農村に王が書簡を撒いているとの報せを、斥候に出た者たちが持ち帰ったのだ。
その書簡の実物は、密かに陣内にも出回ったし彼自身も目にした。あのジョルト卿の息女が記したという書簡の筆跡は確かに女のもの、助け出されたという女たちの名前や家名も詳細に綴られていた。その中には彼の身内の名もあったし、他のものも偽りや出鱈目でないことは、人質を抑えられた者たちの顔色が物語っていた。
ティゼンハロム侯爵の疑念と諸侯の動揺のために、また幾らかの血が流れた。そして――侯爵は、まともに軍を維持するのも、王を相手に勝利を狙うのも、この辺りが限界だと見極めたのだろう。決戦の場所は変えないまま――というか、移動のどさくさに紛れての離反も懸念して、変えることはできなかったのだろう――、奇襲という賭けに出たのだ。彼がこの大役を任されたのは、心構えを信用されたということだろうか。さして嬉しいものでもないが。
彼の命令に従って、麾下の兵たちは黙々と手を動かしている。王が通りかかったその瞬間に、後続の兵と分断すべく、岩や木材を転がすのが第一の手だ。ティゼンハロム侯爵は当初からこの場所で仕掛けることを考えていたらしく、必要な道具なども既に揃えてあった。
足元の狭い岩場でのこと、柄にもないはずの土に塗れる作業、それもシャルバールを思わせる卑劣な罠のためのこと――あらゆる点で不本意な役目だろうに、不満を漏らす者はひとりたりともいなかった。誰も、彼が先に発した言葉の意味をよくよく噛み締めているのだろう。
生き残るも名誉を得るも、今が分かれ目なのだ。
王は、ティゼンハロム侯爵から離反した者は罪を減じると布告していた。ジョルト卿の娘とやらの書面にも、降った者が王の軍の一角に居場所を与えられたことを記していた。
だが、もう遅過ぎるのだ。ティゼンハロム侯爵の非道は、ひと度敗れればイシュテンの全土が知るところになるだろう。ひとつひとつ、その場その場ではやむを得なかったのかもしれないが、誰もが眉を顰め唾棄するであろう悪鬼の所業――それに関与した者に、居場所があるとは思えない。
王に許しを乞うて許されたとしても――彼ひとりの首くらいなら差し出すのも致し方ないと思える――、王は悪評を拭うことまではしてくれないだろう。彼の子も孫も、忌むべき反逆に関わった家の者として冷遇され続けることになるのだ。無論栄達なども望めまい。それでは生き残ったところで意味がない。彼と彼の家が本当の意味で生き残るには――勝たなければならない。たとえ主君を手に掛けてでも。幼い女王を頂くことになったとしても。
そうすれば、ティゼンハロム侯爵の非道も闇に葬ることができるだろう。戴冠の経緯がどれほど不穏で血に塗れたものであったとしても、もはやマリカ王女以外にイシュテンを統べることができる者はいなくなるのだから。侯爵の名誉のためにも、ただでさえ不安定になるであろう女王の治世を揺るがさせぬためにも、後ろ暗い逸話は語ることさえ許されなくなるはずだ。そして事実を知る者が死に絶えれば、彼の名誉はめでたく保たれるという訳だ。
……そのような未来を掴み取るための道は果てしなく険しく、乗り越えなければ戦いも熾烈なものになるのだろうが。それでも、死臭に息を詰まらせながらティゼンハロム侯爵の勘気に怯えたり、士気も萎え切って半ば以上敗北を確信した心持ちで王の剣を待つよりは、よほどマシな道だろう。
罠の準備を整え終えてからも、待つ時間は果てしなく長く思えたが――
「来たか……」
ついに、街道に数騎の影が落ちた。緊張に耐えかねたのか、罠の仕掛けを受け持つ者が身じろぎしたのを、彼は手で制する。あれはまだ斥候に過ぎない。行軍の途上で、王がいちいち先頭に立つはずもない。気を急いて、無二の機会を逃してはならないのだ。必ず、あの見事な黒馬が通るのを確かめてからでなければ。
そして、それまでは気付かれることもあってはならない。木々の梢の葉の不自然な揺れ、踏みかえた馬の脚が転がす石礫。そんなものであっても、敵地にあって神経を張り詰めているであろう斥候の注意を惹いてしまうかもしれないのだ。
「まだだ……」
低く呟くのは、兵たちを抑えるためだけでなく、彼自身への戒めでもある。機会は一度、一瞬だけ。針の穴を矢で狙うかのように、自らが引き絞られた弓であるかのように、全身の感覚を研ぎ澄まし、全身の筋肉を矯めてその時を待つ。街道を過ぎゆく騎馬が掲げる旗や、鎧の特徴から、先兵の素性を、王ではないのを見極めて。
そして――
「――今だ! 続け!」
自身も戦場で見たことがある黒い馬を確かに認めて、彼は片腕を掲げた。その号令に従って、仕掛けを留めていた縄が断ち切られる。
同時に、彼を先頭に潜んでいた一団は急な斜面を駆け下りる。躊躇う馬と己の怯懦を、轟くような叫びで叱咤して。傍らを転がり落ちていく岩や丸太と相まって、黒い雪崩のようにも見えただろう。緊張によってか不運によってか、体勢を崩し倒れる馬も乗り越えて、ほとんど落ちるように跳ぶ。死を間近に感じる跳躍は無限の長さにも思えたが――馬の蹄が街道に着地するまでの時間は、ほぼ一瞬だったはずだ。
更に、彼が状況の把握にかけた時間もほんの数秒。
彼らが落とした障害は、首尾よく街道を塞いでいる。無論、乗り越えるのは簡単だろうが、その選択に咄嗟に気付くには、襲撃の衝撃は大きすぎるだろう。岩が直撃して潰されたと思しき馬もいる。馬の脚をよろめかせて、反対側の崖へと堕ちて行った者も。願わくば王の護衛を減らせていたら良い。だが、そうでなくても構うまい。山間のこの辺りでは街道も比較的狭くなっている。先頭の者たちが事態に気付いたとしても、速やかに反転しつつ系統だって抗戦するのは至難の技だ。
「覚悟召されよ……!」
彼らは、ただ目前の敵だけを相手にすれば良い。王の首さえ挙げれば、他の者は戦意を失う。手練れと名高い王だとて、奇襲に全く動揺していないはずがない。――ない、のだが。
王は自身に向けられた何本もの剣と槍を見て、嗤ったようだった。そう、王の顔は兜の下に隠されていた。敵地とはいえ、行軍の半ばでこうも武装を固めているのはいかにも不審だった。
「覚悟するのはそちらの方だ、反逆者め」
その声を聞いて、彼の不審と疑念は更に深まる。王は、このような声をしていただろうか。若いながらに人を統べる立場を心得たあの青年が、このように嘲弄をあからさまに響かせることがあるだろうか。
――王では、ない……!?
「貴様、何者だ……!?」
王の馬に跨るのがどうして王でないのか――それが、何を意味するのか。分からないまま、恐慌に駆られて彼は叫んだ。とにかく悪いことが起きているという確信だけがあって、高揚に沸いたはずの血が瞬時に冷めていく。
彼の恐怖を見て取ったのだろうか、黒馬の騎手は高らかに哄笑した。その笑い声によって、王ではあり得ないとの確信がいよいよ強まる。
王の馬に乗る王でない者が、兜に手をかけた。彼の疑問を晴らしてやろう、などということではないだろう。彼を一層混乱させ絶望させるためのことだと、なぜかほぼ確信できた。
「罠のことなど陛下は先刻ご承知だ。リカードにつけ入る隙などないと知るが良い!」
「貴様は……!」
それでも、兜の下から現れた顔を見て、整った唇が吐き出した嘲りを聞いて、彼は叫ばずにはいられなかった。
企みは見破られていた。彼らは罠を仕掛けたつもりで、
王の黒馬を借りて
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