第27話 エルジェーベトという女② フリーダ
イシュテンの多くの貴族の女と同様、フリーダも馬術を修めていた。父や夫を助けるための当然の嗜みだからというだけでなく、彼女は馬上に感じる風の爽やかさが好きだった。だから、父が存命の頃もしばしば野山を駆けたり狩りに同行させてもらったりしたものだ。
でも、今のように一日中移動を続けた経験はさすがになかった。
彼女はティゼンハロム侯爵との決戦の地を目指す王に従って進んでいる。大方の道のりは馬車に乗っていれば良かったけれど、それも父が所有していたものほど快適な乗り心地ではなく、糧食の箱や袋、固い武器や防具の隙間に身体を縮めて押し込まなければならなかった。更に、物資の輸送や怪我人が出た都合で馬に乗るよう乞われることも度々あった。
侍女や従者と森や草原を行く気楽な遠乗りとは違って、四方を兵に囲まれてただひとり――エルジェーベトを除けば――横乗りで進むのは恥ずかしいことにも思われた。足元も必ずしも安全ではなく、馬の脚を傷つけることがないよう、落馬などしないよう神経をすり減らさなければならなかったし、衣装が砂埃に塗れるのも、思うように顔や髪や身体を洗うことができないのも、フリーダにとっては初めてのことばかりだった。
だから、当然のように心身に疲れは溜まってはいたのだけど――
「高貴な御方が、おいたわしいことですわ。さぞお疲れでございましょうね……?」
ある日の行軍を終えて馬から降りたフリーダに、エルジェーベトが心配顔で声をかけてくれた。彼女と同様、長時間の移動に耐えているにも関わらず他人を慮ることができるこの方は、やはり優しい人だと思う。
「いいえ、大丈夫。私から言い出したのですもの」
エルジェーベトのためにも、弱音を吐いてはならない――そう思って、フリーダは微笑みを浮かべようと努めた。それに、彼女の努めはただ馬に揺られることだけではない。周囲の兵たちが野営の準備に立ち働く中、彼女にはやるべきことがまだ残っているのだ。
それは、ティゼンハロム侯爵の非道を告発する書面を
フリーダが認めた書面は、王の斥候によってティゼンハロム侯爵領の街や村に送られるのだとか。王や名のある将が記したのではなく、実際に何があったかを見聞きした、彼女の手による文だということに意味があるのだということだ。
無論、彼女は取るに足らない小娘に過ぎないけれど、女の筆跡で書かれているというだけでも信憑性は高まるだろう。加えて、助け出された人質のうち、彼女が名前を知る機会のあった方たちの名も列記している。今もティゼンハロム侯爵の傍にいて、妻や子の安否を案じている者たちにとっては、きっと進退を考える良い材料になるだろう。……と、そういったことはエルジェーベトが教えてくれたのだけど。侯爵に仕えた経験から、殿方の政の理屈は多少は分かるのだ、と言って。
「母君様方はそろそろ王宮に着かれた頃でしょうか。道中、危険はないだろうとは存じますが……」
風を避ける天幕もまだ建てられていない屋外で、傾きかけた太陽の下でのこと。紙が飛ばないように抑えるのを手伝ってくれるエルジェーベトが、フリーダに囁いた。
「ええ。落ち着いていてくれれば、と思います」
フリーダ以外の女子供は、とりあえず王都に送られることになった。元の住まいに戻るにも、夫たちはまだ王の敵方にいる。だから、この計らいは保護であると同時に改めて人質になるということだ。王ならティゼンハロム侯爵のような非道はしないと、まだ信じることはできるけれど。
フリーダの母も、その一行に加わっている。母だけは、他の女性たちとはまた異なる意味合いの人質なのだろう。つまり、彼女がちゃんと王のために働くかどうか、という。エルジェーベトのために声を上げたことで、王はフリーダに対する心証を損ねてしまったようだった。絵に描いたように整った王の容姿に密かに見蕩れることができたのもほんの一瞬だけ、彼女は抜身の剣のような鋭い眼差しに貫かれて震えることになってしまった。
――でも、私は間違ったことは言っていないもの……!
側妃と王女の命を狙った、エルジェーベトの罪は罪。フリーダもそれを赦して欲しいと乞うた訳ではない。そのようなことができるはずはない。彼女が王に申し出たのは、罪を悔いたか弱い人の、最期の願いを叶えて欲しいということだけ。父の死を哀れんでくれた王なら、きっと分かってくれると信じたかった。
「王妃様はきっと優しく迎えてくださるでしょう。ご心配には及びませんわ」
「そうですね……報せを、もらうことができれば良いのですが」
常に兵に囲まれて、緊張を強いられているであろうエルジェーベトも、王妃のことを口にする時は表情が柔らかい。確実に死を待つのを知る身でありながら、このように優しい顔ができるなんて――王妃は、さぞ慈悲深い方なのだろう。美しく穏やかな人だと噂には聞いているが、フリーダの思い描くその方は、もはや女神のように侵しがたく尊い偶像のようになっている。エルジェーベトの眼差しや表情や口振りが、そう思わせる。
「何かあれば王のもとには報告があるでしょう。報せがないのが良い報せですわ」
「それだけではなく……王妃様のご様子を窺うことができれば良いと思って……」
フリーダや母だけでなく、人質にされていた女たちもエルジェーベトの恩を忘れてはいない。彼女たちが王宮に辿り着いて、そして王妃に会うことができたなら、口々にエルジェーベトのことを伝えるだろう。もともとティゼンハロム侯爵の陣営にいたのだから、王妃とも面識がある方も多い。知己の進言ならば王妃も聞き入れてくれるだろうし、王妃の頼みならば王も無碍にはしない、はずだ。
だから、母たちの首尾を伝えられれば、エルジェーベトも心強いかと思ったのだけど。囚われの身から解放されたばかり、それも、頼るべき家や夫がない女たちでは、王の陣まで報せを届ける術などないのかもしれなかった。
「御心だけで嬉しいですわ、お嬢様。私、フリーダ様がいらっしゃるからこそ王妃様にまたお会いできると信じることができていますの」
エルジェーベトの微笑みを間近に見て、フリーダが文字を綴る手は鈍ってしまった。あまりに曇りない笑みに、すんなりと相槌を打つことができなくて。だって、仮に王妃への目通りが叶ったとしても、それは多分永の別れの挨拶にしかならないのだ。再会を喜んだのも束の間、すぐにまた引き離されて、首を白刃の下に晒さなければならないなんて。
――なのにどうして笑っていられるのかしら。私は、何と言葉をかけて差し上げれば良いのかしら。
年若く、さしたる経験もないフリーダには、エルジェーベトにどう接すれば良いか分からなかった。とても可哀想だと思うのに、とてつもない恩義を負っているのに、本当に助けてあげることはできないという事実も、もどかしい。
せめて、王妃にまた会えるように。彼女が綴る一文字一文字がその助けになることを願って、フリーダは筆を動かし続けた。
あちこちで火が炊かれて夜の闇を照らし暖め、食事を煮炊きする匂いが漂うころになると、エルジェーベトは立ち上がった。王のお召しだと、険しい顔で槍を構える兵に呼ばれたのだ。明日の行軍において注意すべき地形や街の位置、罠を仕掛け得る死角など――ティゼンハロム侯爵に長く仕えた彼女の知識が求められるのは、よくあることだった。
「心細くていらっしゃるでしょうが――」
「いいえ、皆様が守ってくださるから大丈夫です」
王の兵たちは、ティゼンハロム侯爵の手勢と違ってフリーダを厭らしい目で見たりはしない。ただのひとりもいない、とは断言できないのかもしれないけれど、少なくとも彼女の周囲に配された者は、父を殺された境遇を哀れんで親切にしてくれていた。もちろん、エルジェーベトを見張る目的もあるのかもしれないけれど――とにかく、あの屋敷で味わったような息詰まるような恐怖とは、今は無縁だった。
彼女自身のことよりも気になるのはエルジェーベトのことだ。
「どうかお気をつけて……」
この方の知性は並の女のものではない。恐らくは王妃のために身に着けたそれに感じ入る機会は、フリーダにも多かった。だが、王が求める情報の全てを持っていることなどありえないだろう、とも分かる。覚え違いや言い間違いだって、決してないとは言い切れない。エルジェーベトに深い遺恨があるらしい王のこと、そのような過誤を赦してくれるのかどうか――この方が召される度に、不安になるのだ。
「大丈夫ですよ。王はティゼンハロム侯爵よりもよほど慈悲深くていらっしゃる」
エルジェーベトの穏やかな笑みも、毎度変わらないものではあるのだけど。フリーダを宥めるための物言いもまた、この方のこれまでの境遇――ティゼンハロム侯爵の残忍さを思わせてフリーダの胸を締め付ける。王の鋭い目も低い声もあんなに恐ろしかったのに、それよりなお苛烈な主だったという侯爵は、この方を一体どう扱ったのだろう。
――あんなこと……陛下は、なさらないのでしょうけれど……。
フリーダがエルジェーベトに負う最大の恩義は、命を助けてくれたことでも、父の仇を討つ機会を与えてくれたことでもない。彼女の純潔を守ってくれたことだ、と思う。万が一の時の毒をくれただけではなく、そもそも侯爵の野卑な手が伸びた時、エルジェーベトは機転を利かせて侯爵の気を逸らせてくれた。そのこと自体は幾ら感謝してもし切れるものではない。――でも、あの夜エルジェーベトに何があったかを思うと居たたまれなくなってしまうのだ。エルジェーベト自身は、何でもないこと――よくあることのように言っていたけれど。
親子ほどに歳の離れたティゼンハロム侯爵と比べれば、王とエルジェーベトの方が歳は近い。エルジェーベトは王妃と同年齢だというし。でも、王はあれほど激しくこの方への怒りを露にしていた。だから
「何事もないように、願っていますわ……」
心に懸かることを口に出すのは、あまりに不躾で恥ずかしくて憚られる。そのようなことを思いつくこと自体が、はしたないように思えてしまって。でも、エルジェーベトも心配で――そんな思いの狭間からやっとひねり出した言葉は、どうにも頼りなく愚かしく聞こえて仕方なかった。
「フリーダ様こそお気をつけて。おひとりで出歩いたりなさいませんよう」
そんな彼女にもエルジェーベトは優しく微笑んで、王の天幕へと発つのだけれど。
小さな天幕にひとりきりで、フリーダは毛布を鎧のように身体に纏って
夜明けまでの時間が長すぎて、太陽が昇らないのではないか、などと埒もない不安を覚えてしまう。だから、彼女の将来も暗いままではないのか、とか。これもまた根拠がない漠とした恐れなのだけど、だからこそ拭い去るのが難しい感情だった。
「あら、起こしてしまいましたか……?」
「いいえ、眠れなかっただけですから」
そんな時に聞こえた衣擦れの音は心強くて、フリーダは思わず身じろぎして――それで、エルジェーベトに眠っていなかったことを教えてしまった。恐縮させてしまったことこそ申し訳なくて、フリーダは俯く。すると、その頬に温かい空気の流れを感じた。エルジェーベトが、彼女の傍らに腰を下ろしたのだ。
「こんな物々しい雰囲気ですもの。気を張ってしまうのですね」
「エルジェーベトさんは、こんな遅くまで……」
星も見えない天幕の中では、時間をはかる術などもちろんないけど。それでも、エルジェーベトが召されてから大分待った、という感覚だけはあった。この方が王の御前で言葉を求められる一方で呑気に休んでいたのかと思うと、申し訳なくて声は消え入りそうに小さくなってしまう。
エルジェーベトは、例によって咎める素振りさえ見せず優しい声と口調を保つのだけど。
「王や、側近たちもですわ。大事なところですから――そう、お嬢様は明日はお休みになれると思いますわ」
「明日? どうして……?」
行軍を始めて以来、王が歩みを止めたことは一度もない。地形によって速さに差は出ても、悪路を避けるために斥候を遣わし、その間に兵の歩みが緩むことはあっても、休むために一か所に留まるということはなかった。ティゼンハロム侯爵の非道を、それだけ見過ごせないということなのだろうし、フリーダも同じ思いだからこそ身体の悲鳴を無視して従ってきたというのに。
「この先に、殿様――ティゼンハロム侯爵が罠を仕掛けられる隘路があります。若様方と、そのような
エルジェーベトは、微笑んでいるようだった。恐らくは、口が動くのにつれて闇の中で白い歯ほのかに見え隠れする。フリーダを慰め励ます時と変わらない、穏やかな優しい口調――でも、その内容は不穏極まりない。
「戦いに、なるのですか……」
「まだ分かりませんけれど。でも、どの道もうすぐ、でしょう」
父が殺された時のことを思い出して、フリーダの肌は粟立った。剣や鎧がぶつかり合う音も、悲鳴も血の臭いも、何もかも怖い。それに、ティゼンハロム侯爵はエルジェーベトにとってはかつての主。恐ろしく残酷な人ではあるけれど、その人が追い詰められて狩り立てられようとしているのに、どうして笑っていられるのだろう。休める、と言ってくれた――その言葉だけなら彼女を慮っているようにも聞こえるけれど、近くで人が殺し合っていると知っていながら、どうしてのんびりと休むことなどできるだろう。
――怖い……。
戦いも、エルジェーベトも。頼り切っていた人が、不意に恐ろしく感じられて。なぜか心細く薄ら寒い気がしてならなくて――フリーダは暖を求めて毛布をかき寄せた。
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